対岸の火事について、その被害者に同情したり寄付を行ったりする人がいれば、「いい人」として称賛されるかもしれない。あるいは逆に隣家がボヤを出したら、危うく自分にも被害が及ぶところだったと憤ったり、ボヤで済んだのならいいやと無関心の態度を取るのも理解できない反応ではない。しかし、この両者を組み合わせてみたらどうか?対岸の火事には同情しながら、隣家のボヤには予防策も考えず無関心かただ憤るだけ・・・このような近くの自分に関わる問題より遠くのわかりやすい悲劇に思いを馳せる行為はナイーブ以外の何物にも思えないのだがどうだろうか?
遠い国の絶対的貧困には心を痛め、日本の相対的貧困には関心を示さなかったり、あまつさえその対象者を「叩き」さえする行為はまさにそのような類の行動である。批判の言辞には、例えばコンサートに行ったことなどが挙げられているが、そもそも持っている所得をどう使うかはその人の自由である。たとえば同じ10万円でも、ある人はそれを服につぎ込み食費は押さえるかもしれないし、ある人は食にむしろお金をかけるかもしれない。要するにその可処分所得が一定額を下回っていることを相対的貧困と言うのであって、何かを持っていたりいなかったりすることで決まるのではない。
早い話が、「貧困」という言葉で想定するのが(たとえば海外募金などに使われるガリガリに痩せたアフリカの少年のような)絶対的貧困であったり、あるいは戦中や戦後まもなくの日本であったりして、その像に合致しないからと批判する人間が多々いるらしい、というのが問題なのである。そこからするならば、なるほど確かに娯楽にお金をかけられるのは「貧困」ではないかもしれないし、毎日でなくてもそれなりのお金を一度の食事に使うのは「貧困」の像から外れるだろう。いやそもそも、携帯電話やスマートフォンを持っていること自体が「貧困」ぽくないと思う人もいるかもしれない(なお、この点についてたとえば「難民がなぜ携帯を持っているんだ」と違和感を持ったりする反応は海外にもあり、特殊日本論で済む話ではない。ちょっと考えてみれば、現代において携帯がいちいち説明するのもバカげているくらい当然にセーフティネットになっていること、間違っても贅沢品などではないことに気づくはずなのだが)。
ここには二つの問題がある。一つは、今述べたような批判に正当性があると言うのなら、それは貧困状態にある人にはそもそも自分の所得を自由に使う権利すらないと言っているのと同じであるということ(人間扱いする気がないという意味において、相模原事件を起こした犯人にも通ずる思考様式だ)。もう一つは、そもそも相対的貧困について無知・無教養であるということだ。その結果が、対岸の火事には同情しながら隣家のボヤには無関心でいるかただ批判するという恐ろしくズレた反応なのである。
ボヤに憤っている暇があるなら、再発防止の方法を議論し決めていくことの方が(自分に延焼するリスクを軽減できるという意味でも)遥かに合理的だ。それをやらず問題を「なかったこと」にするような言説・行動をとり続けるならば、将来の日本社会の土台を危うくせしめるという意味において正しく「売国奴」的だと私は思うのだがどうだろうか?
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