隠岐郷土館に見る隠岐騒動の背景とその展開

2024-12-21 16:23:15 | 離島旅行

 

 

隠岐の水若酢神社には、「隠岐郷土館」という資料館が隣接している。これは明治時代西郷港近くにあった郡役所を五箇村が譲り受け、ここに移築したものだ。

 

 

 

 

料金こそ掲示されているが、受付ないしどうするんやろ?と思っていたら、近くの喫茶店が受付も兼ねており、そこで入場料300円を払うというなかなかに斬新なシステムでございましたw

 

ちなみに冷房が絶賛故障中らしく、頭の中で「冷房・死亡・絶望 yeah!」とかいう謎のラップを反芻しつつ、目的地に突入する(・∀・)

 

 

 

 

こちらは国分尼寺から出土した奈良時代の土器。

 

以前の記事で隠岐の寺院は廃仏毀釈で一度全滅したと述べたが、その前は神仏習合の状態であり、奈良時代には聖武天皇の元で隠岐にも国分寺・国分尼寺が建てられるなど、本土と類似していた。

 

 

 

 

 

 

というわけで、他の展示を一旦スキップし、隠岐騒動関係の展示を紹介しておこう。

 

この一角では、隠岐騒動で中心を担った人物たちが列挙されており、山崎闇斎の弟子で隠岐の尊王攘夷思想に影響を与えた中沼了三、隠岐騒動で中心的役割を果たした正義党の重鎮である井上甃介、役人追放の際に陣屋襲撃を指揮した忌部正弘の姿などが見える

 

てか忌部ってなんかイダルゴみあるなあwww

 

 

 

 

まあ共通項は上目遣いだけなんですがねw

 

さて、先ほどは廃仏希釈前において、隠岐は本土と類似した状況だったと述べた。
しかし、もちろん特異な事情もある。例えば、離島であるがゆえの古い信仰形態=原始神道が残存していること(類似した存在の極北は福岡の沖ノ島だが)。あるいは江戸後期に復古的な光格天皇が、隠岐の駅鈴=古代律令制=天皇親政時代の残滓に注目し、それを本土に持ってこさせる等朝廷と交流があったこと。さらに隠岐へ配流された後鳥羽上皇や後醍醐天皇の所縁があったことなどが挙げられる(ちなみに離島でこそないが、水戸藩は隠岐とのアナロジーの対象として興味深い。というのもそこでは、光圀以降に尊王思想が育まれてきた中で英国船が来航し、それが対外的危機意識を強めて会沢正志斎の『新論』が著されたり、尊王攘夷を実行に移すため天狗党が結成されるなどしたからだ)。

 

このように、隠岐ではそもそも尊王の機運が高まりやすい土壌が存在していたと言えるが、さらにこの中で先の駅鈴を保管していた玉若酢神社の宮司隠岐幸生が18世紀末に京都で崎門学(山崎闇斎が興した朱子学の一派)を学んで隠岐へ広め、その尊王的土壌に水を与える(思想的バックボーンを強化する)役割を果たした。

 

かかる状況において、ペリー来航による危機感と松江藩(≒幕府)の無策が尊王攘夷の機運をさらに高めて「草の根」右翼的意識の横溢となり、最終的には本土の役人を追い出す隠岐騒動までにつながった、とみることができるだろう。

 

この騒動は自治政府を樹立したものの結局80日間という短期間で終わりはしたが、そもそも尊王を掲げて独立した彼らにとり、王政復古により誕生した明治新政府に(少なくとも理論上は)従わない理由がなかった。とはいえ、隠岐騒動の際に融和的(あるいは日和見的)な動きをとった仏教勢力に対する不満はくすぶっていたし、そもそも江戸時代においてキリスト教などを排除する目的で国教的役割が与えられていた(cf.宗門人別改帳)一方で、組織的腐敗が見られた仏教教団への不満もあったから、それが明治新政府による神仏分離令というお墨付きを得たことで、大々的な廃仏毀釈=寺仏破壊行動が行われたのであった(同じく苛烈な仏教寺院の弾圧が行われたのは薩摩藩や津和野藩が有名だが、一方で薩長同盟を結び倒幕の双璧となっていた長州藩は、江戸後期の段階でかなりの程度寺院整理を進めており、また当地では浄土真宗が値を張っていたこともあり、むしろ廃仏毀釈運動はほとんど広がらなかったことは興味深い。そして長州の仏教勢力は、島地黙雷を筆頭に、むしろ明治新政権の中で仏教の地位を確保していく上で大きな役割を果たしていくのである)。

 

この隠岐騒動という現象は極めて興味深い。それは前にも述べた「草の根右翼」的な運動=パトリオティズムという視点、あるいは実は島民と正義党が必ずしも一致団結していた訳でもない点(身近な対外的危機感はともかく、思想的理解はまた別の話)、後に寺が復興された事が象徴するように徹底した廃仏=民衆の総意とも言えない点(知識人層=声のデカい人の言葉ばかり目立つのでこの点は要注意)、さらに言えばこの事件がどのように島内で語られてきたかなど、様々な角度で論じることができるし、そこから様々な気付きも得られると思うからだ。

 

いやもっと言うなら、隠岐騒動と自治政府に当時の文脈の相違や特性を無視してパリ・コミューン的な姿を重ねるなど、観察者のバイアスがそこに現れやすいという意味で(まあ戦前の皇国史観・戦後のマルクス主義史観あるあるなんですがね・・・)、一種の鏡像のようなテーマとすら言えるかもしれない(ちなみに隠岐の自治政府は尊攘派神官らを中心とする神権政治的な側面を持ち、その意味においてはカルヴァンによるジュネーブのそれを想起させる面がある。これに対し、パリ・コミューンは言うまでもなく共産主義とそれによる独裁を宣言した共同体であり、極めて大きな相違を持ったものと言える)。

 

 

 

 

とまあ色々考えたところで、その他の展示物をまったり見学。てか「ばっこ」て初めて聞く名前だが、牛突きの真似をして遊ぶための道具らしい。

 

 

 

 

宗教儀式で用いる祭具も展示されているが、「きゃあくそ」とか「祝ってほいほいほい」とか謎のパワーワード連発で爆笑🤣前者はゆでたまご系漫画(こなくそー!!w)、後者は筒井康隆の『関節話法』を連想してしまい、危うく腹筋を持って逝かれる所だった( 。∀ ゜)

 

てか手前の先割れみたいなヤツは何なん?初音〇クにでも捧げるネギの模造品かと思ったわ(・∀・)

 

 

 

 

神棚的なニュアンスなのか、謎の小屋みたいなものがあったり、「大福帳」とかいう謎の張り紙(?)があったりと(しかも「昭和四拾八年」て意外と最近)、謎だらけでとりあえず撮影してみたって感じである。

 

 

 

 

 

色々面白かったが、これにて郷土館の見学は完了。

 

最後に再び水若酢神社の山門を撮影し、次の目的地を目指すことにした。


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