〈君が望む〉
くだらないものに耽溺しつつも、それをくだらないことなんて知っててやってるんだと嘯いてみたところで、一体何だというのだろう。ひとたび真剣になれば、「普通の人」のような、あるいはそれ以上の柔軟性をもって事に当たれる、とでも?その時の行動の準拠枠が多様化し、何が良きことかわからなくなっているのが今日的状況であり、またそれゆえにむしろ善意の人が強迫的に善きものを求め、カタストロフを招きさえしているというのに。結局は凡庸な「良識」との共犯関係に安住していることに気づいているのだろうか?そういうゴミみたいな屈折したナイーブさを見ていると吐き気さえする。
〈君が望む2〉
たとえて言うならこういうことだ。身の回りには小学生の問題しかなく、それらを解くのは簡単である。そしてそれらが簡単でくだらないものであることは自覚している。しかし自覚をしていたところで、高校や大学の問題が出てきた時に、解けないどころかその難しさに考えも及ばなかったりするのである。問題は、そういう構造にどこまで自覚的かということだ。しかし鈍感さを笑ってもそれが要求される構造に気付かなかったり、選べない主人公を非難しても恋愛ADVをやる自分の行為や思考の前提についてはスルーしているのを見ると、とても理解しているようには思えない。「紀子の食卓」への感情的反発。サンデル。
〈ぶっちゃけバテてます〉
八月も終わりに近づき疲れがどっと押し寄せてきた。休みも動かないが血は抜く。よつばに癒される。あ~娘ほしいわ。次の日。疲労のピーク。右手だるい。やる気ゼロケルビン。突っ伏したい。事務作業に集中。ウイダーインでようやく普通に。すた丼でがっつり食べる。九月の予算に向けて。自転車の方が早い。早稲田通り直進。懇親会じゃなくて渾身会だ。妙なケチだけはつけられまいと時間に遅れないよう急いだら、受付時間と開始時間を間違えてたorzヌケガラマンセブンで座り死に。だるいので脱出。体調が悪いので外の風に。こういう時のポイントは、もっともらしいことを喋ることだ。
〈デスノ〉
カメラワーク、テンポの良さ。印象的な構図で掴みはOK。後は対決とりんごを使って展開。ここではりんごに明確な意図が込められている。思想に拘泥しない→そういう突き放した感じが自分に好印象を与えた。ドラマティックな死には辟易している。別言すれば、そういう死に方しか描けないのは閉塞だ。例えば月やLは悪、宗一郎だけが正義と言うが、正義って何?とか無能な正義と有能な悪はどっちがいい?と突っ込みたくなるし。
〈丸山作為の契機不在平和ボケ〉
君、終末…偶然性、どうしようもなさ、根源的な未規定性が理解できない。あるいは単なる運の悪さで思考停止。ひぐらしとうみねこの違い、後者に熱が入らない理由。青空、極限状態の記事、自由意思の信仰?新自由主義や自己責任の観念との関わりか→想像力の欠如。再帰的思考の欠落…君望における行為への埋没。前提に立ち返ることができない。相手の文脈で考えることができないのは当然→「共感」×。日本人には同情はできても「共感」はできない。思考力の欠如。知識はあるが想像力も思考力もない。単なる突っ込み野郎になるか快ー不快オンリーの反応しかできない。
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