中学2年の時に吉田兼好の文章を読んでいた時のこと。
寂れた庵を見てさぞかしもののをあわれを理解した人が住んでるのだろうと思ったのも束の間、蜜柑の木にガッツリ囲いがしてあるのを見て、「この木がなかったらなあ」と落胆した・・・
これを見て友人と一致した見解は、「筆者は勝手に他人のことを持ち上げた挙句、勝手に落胆して批判する手前勝手なやつ」というものだった。別にその人と会ったわけでもないのに、勝手にすばらしい人だろうと期待のバーを上げ、それにそぐわないものを見つけて勝手に落胆し、あまつさえそれを記録に残している、というわけだ。そして「一体これのどこが日本三大随筆なんだか」と批判してその場は終わった。
あれから20年以上経つが、ネット社会が当たり前になってSNSが普及し、こういう現象が実によく見られることを理解した。その一例が著名人とそのスキャンダル(プライベートな出来事)だが、他にも犯罪被害者やマイノリティに対しても似たような目が向けているように思われる。差別の歴史を見れば、聖人に祭り上げることと穢れた存在とみなすことは表裏一体(どちらも自分たちの「外にいる人間」と考える)なのだが、相も変わらず「かわいそうな人たち→聖人」という図式で考え、それと表裏一体のアラ探しが同時に行われているのだ(先の吉田兼好との違いとしては、同じ対象について同じ人間がしている反応とは必ずしも限らない、という点には注意を要するが)。そして、個々の頭の中で収めるか、個人的な噂話・ぶっちゃけ話レベルで終わらせるならともかく、SNSという公共の場にて平気で妄言を垂れ流すわけである(外から見れないような鍵かけアカウントならまだわかるのだが)。
しかし、各々自分のことを振り返るまでもなく、瑕疵のない人間など存在しない。もし対象にそのような感覚を抱いているのであれば、それは(手前勝手な思い込みであれ吹き込まれたものであれ)単なる妄想と考えるべきだろう。逆に言えば、対象に瑕疵があったからと言って、それ即ち著名人の存在価値(表現力などの各種才能)が無くなるわけでもないし、被害者が糾弾すべき存在に反転するわけでもないし、マイノリティが差別してよい存在となるわけでもない。例えば、同性婚の方が異性婚より尊いなどということはないし、逆に同性婚で離婚したからと言ってほれみたことかと言うのも奇妙だ。なぜなら、異性婚の離婚率は1/3に達しているわけで、離婚は実にありふれた現象だからだ(まあこの場合は、理想化しているために落胆する&批判したくなるというより、元々違和感のある人たちが勢いづいて糾弾する、という側面が強そうな気もするが)。
まあこれだけ炎上が日常化していると、ここで何かを言ったところで変わるとは思っていない。それでも勝手に期待して勝手に叩く、これもまたある程度は不完全なる人間の性というものであろうし、また私の基本スタンスは「勝手に生きて勝手に死ね」であるからまあ御随意にと言いたいところなのだが、たとえば被害者の訴えを抑え込むような傾向が促進されると同じ社会に生きる人間として不利益を被る可能性が十分にあるので、一応ここに記しておこうと思う次第である(ちなみに被害者の権利・被害者の感情的回復という点については死刑の話でいずれ触れたいと思う)。
最後に歴史の話で始めたので、蛇足ながら歴史の話で終えたい。こういう傾向への対策として、歴史の教科書に書いてあるような偉人たちがいかにデタラメなことをやっていたかをつぶさに知ると、多少は効果があるかもしれない。当たり前だが、偉業を成し遂げた人=聖人ではなく、様々な問題を起こしたり異常な行動さえしていたりする。つまり、偉業を成し遂げた=瑕疵がないということにはならないし、瑕疵がある=偉業として認められないということでもない。むしろそのような多面性が人という存在にとって当たり前であると、つぶさに学び続ける習慣が、少しは馬鹿げた批判に走る傾向を抑えることに効果をもたらすかもしれない、と書きつつ筆を置きたい。
え?フリッツ=ハーバーの評価とかはいいのかって??あれは「偉業」とみなされるもの自体が両義的・多義的であるという話で、今の話題とはそぐわないのでパス(・∀・)!
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