それを「常識」とする根拠は、もはやどこにもない

2020-01-10 12:48:55 | 生活

 

お勧めに「懲役太郎」の動画が出てきたので色々見てみた(前回が「境界線」のお話だったので、それと関係する話題である)。最初は「山に人を埋めるのは間違い」からスタートし(犬とかがすぐ掘り返すんでスゲー深く掘らなきゃいけないと聞いてたのをどう解説するか見たかった)、そこから他の動画を視聴したが、なるほどなるほど、この人は発言にちゃんと「軸」がある。一般の人が知らない知識をキワモノ的に切り売りしてるんじゃなくて、過去の経験からそれを血肉にしているから、信頼もされるし登録者数も伸びているんだろう(コメント欄見て色々思う事はあるが、それはまた別の機会に)。

 

今回は「上級国民」などの話だが、要は「みんな感情的な反応で突っ走りすぎ」というのがわかる(この問題点については後述)。まあこれ川崎事件とかの際に「一人で死ね」論が荒れ狂ったことからも想像がつくことではあるのだが。

 

ところで、コメントの中に「(筆者注:ここで語られてることなんて当たり前じゃん)なんでみんなこんなに法知識ないの?」という趣旨のものがあったが、私はこれには首を傾げざるをえない。古くはこのブログでも何度か言及した川島武宜『日本人の法意識』を挙げられるが、今日ではSNSの普及によって市井の人々の「心の声」が色々なところでダダ洩れなので、いかに法律や憲法というものが理解されていないか(後者はそもそも名宛人すら理解してないケースあり)は明白で、ましてデュープロセスオブローなど理解しているはずもない、ということだ。

 

というわけで、法的知識の欠落は多少ネットの情報を見ていればむしろ驚く方がおかしいくらいに思えるのだが(まあそれを踏まえた上でマウンティングのためにコメント書いてるなら別ですがね)、でもそれを批判するのもちょっと違う気がする。というのは逆に聞きたいんだけど、「じゃあそれを知る機会ってどこにあるの?」という話である。

 

「そんなもんちょっと調べればわかる」とか「公式ホームページに載っている」などの反論は出てくるかもしれないが、だったら例えば犯罪の認知件数はどのような変化しているのかをチェックしているのだろうか?防衛費とその変化は?あるいは司法なら今ゴーンの件で問題になっている司法取引の仕組みとアメリカとの違い、およびその問題点は?etcetc...「調べればわかる」自体を間違っているとまで言わないが、世界に溢れている情報はあまりに膨大で、とても処理しきれないレベルのものだということもまた明白で、たとえば「なぜ法的知識は知っているのにADHDの症例や対処法は知らないの?」と言われたりしたら、一体どう反論するつもりなんだろうかね?と思ったりする(ただ、一応釘を刺しておくと、なにがしかのことをネットという名の公共空間で発言するに際し、「一歩立ち止まって複数の情報を調べてからにすればいいのに脊髄反射で発信する人間が多すぎる」という批判なら完全に同意するが)。

 

要するに、ここで言いたいのは社会が機能不全に陥っていることの端的な表れが、法的無知への指摘も含めた(←ここが重要なのだが)「上級国民」騒動であるということだ。

 

もう少し詳述するとこうだ。そもそも、日本については(欧米と比べれば)法的な厳密性よりも情理を軸に考えるという傾向があると指摘されてきて、さらには日本の教育制度も含め社会のシステムについて「知らしむべからず」という体制は今も大きくは変わっておらず(これと対照的なのが、その福祉国家がどのように成り立っているかを中学の教科書で学ぶフィンランドである)、加えて生活の知恵のようなものを伝授する共同体もかなりの程度崩壊している。にもかかわらず、社会の複雑性・多様性は増しているので全く対応が追い付いていない。

 

そして、多くの人はそのような変化を踏まえてそれを包摂する手段を考察・共有しようとするどころか、「自己責任」を連呼するばかりである。であれば、基本的な知識(の領域がそもそもどこやねんという話だが)の取得さえ個人レベルに任されるわけだから、基本的なことを知らない人間が存在するのはむしろ当たり前で、ゆえに「そんなことも知らないのか?」と言いたくなるような知識・認知のギャップが生じるのもまた必然と言えるだろう(まして今日では、ネットを介してそういうギャップが可視化・加速化されているのだから)。

 

もちろん、知識のギャップが皆無の社会などというものは存在しない。しかしながら、日本という社会は教育・公的サービスを始め認知ギャップを縮める努力が遅々として進まず、しかも「自己責任」という名目でギャップを埋めるべきという認識・行動もブロックされるので、およそこちらが「常識」として期待することを全く知らない人間が周囲に数多く存在するのがむしろ当たり前な状況となっているのである。

 

そして、このようなギャップを埋める努力を怠ると、実は社会全体に跳ね返りかねない大きな問題となりうると私は考えている(だから、何かといえばすぐ自己責任論を持ち出す風潮を「短絡的」として批判するのである)。

 

ここからその説明をしようと思ったが、すでにかなりの分量になったので、今回はここまでとして昭和恐慌や血盟団事件(cf.財閥の長や政府高官が暗殺)、ナチスドイツを取り上げつつ、N国党の躍進や「上級国民」の件がどのように噴出しうるかを述べていきたいと思う。ポイントは、日本人の無宗教の件でも触れることになるが、実態がどうであるかではなく、認識がどのようなものとなっているかである、と述べつつこの稿を終えたい。


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