謎の陸ワカメはいかにして生まれたか:あるいは人間中心主義の欺瞞について

2022-03-23 12:00:00 | 感想など




子どもの頃、庭に群生していた謎ワカメを見て「なんで陸上にワカメ?」と思ったものだが、動画で紹介されてるような歴史ある存在とは恐れ入ったわ。


しかもこれを食している地域があるだと!?て話だが、穀物生産に向かない地域ならまあ物は試しとなるのも理解はできる(少し話はズレるけど、沖縄では「ソテツ地獄」と呼ばれる過酷な時代もあったんよな)。


ところで、今の地球環境が長きに渡る営意の元で形作られてきたことを思い返すに、改めてそれが多様な可能性のうちの一つに過ぎなかったのだ、とわかる。まただからこそ、それを「人間にとって都合の良すぎる環境」のようにみなすのは、因果を逆転させた発想であり、ともすれば傲慢な勘違い(人間中心主義)にさえ結び付くものである。


すなわち、様々な可能性の中で生き残ったうちの一つ(に過ぎないもの)が人間であり、言い換えれば、それが生きるために世界は存在するのではないし、よって人間が死滅したとしてもそれは悲劇でも何でもなく(まあ人間側からの主観ではそう見えるだろうが)、ただの一現象に過ぎないと言える(これを別言すれば、前にも書いた「人類の存続に論理的な必然性はない」という表現になる)。


ところで、因果を逆転させて結果から遡るような発想は、地球環境の理解に限らず歴史や宗教といったものにもよく見られる。たとえばこのブログで継続的に扱っている「日本人の無宗教」についても、宗教的混淆や境界線の曖昧さ、帰属意識の曖昧さなど、最初からそうなる可能性(必然性)を多分に持っていたことばかりが強調され、そうならなかった可能性についてはしばしば等閑視されることに驚きを禁じ得ない。


そして、大航海時代に植民地化されて宗主国の宗教に帰依した可能性、あるいはそもそも仏教(外来宗教)を受け入れないという可能性もあったのに、あたかも原初から今日的な宗教的混合があったかのような記述がなされるのである(前者はフィリピンの植民地化が参考になるし、GHQ[より正確にはマッカーサー]の政策方針にもキリスト教布教を推し進めるオプションも存在していた。なお、後者はいわゆる本地垂迹説が形作られるのには約400年の時が必要であった)。


より粗雑な言説になれば、そもそも多神教だから一神教と相性が悪いかのような見方は、古代ローマにキリスト教が広がった状況やアラビア半島にイスラームが普及した歴史を完全に無視しているし、まして多神教だから特定のものに帰属意識を持たないかのような見解は、ヒンドゥー教徒やヒンドゥーナショナリズムなどを度外視した噴飯ものの言説と言わざるをえない(ごくメジャーな宗教しか例に挙げてないことからもわかるように、きちんと検証しようと多様な可能性・サンプルを吟味する意思が少しでもあれば、今述べたような仮説が、結果から逆算した視野狭窄による妄言に近いものとわかるはずだ。もちろん、気候による傾向性などもあるから、「あらゆる可能性がありえる」とするような極端な歴史構成主義は避けねばならないが)。


現在のウクライナ侵攻も、また同じような扱われ方をするものと思われる。すなわち、カタストロフから逆算し、その必然性を過去からピックアップしてきて都合の悪い要素は無視ないし軽視される、というわけだ。しかし、





このZOOM対談の冒頭で小泉悠も述べているように、大ロシア主義(cf.ネオ・ユーラシア主義)を唱え、鉄のカーテン時代に戻るかのような主張を実際にしていたとしても、現実の複雑性や他者の存在に合わせて調整の上アウトプットするのが政治であり外交である。よって、極めて大雑把に言えば、発言内容とその実行の間には一定の懸隔があるのが当然であって、両者が短絡する方が異常なのだ(あいつまじ○して~と言っている人間の一体どれだけが、実際にその相手を○すかを考えれば、容易に理解されるところだろう)。もちろん、ナチスの蛮行などのように、時折そういう現象も歴史的には観察されるわけで、なぜそうするに到ったのか?なぜモデレートに思える選択肢は破棄されたのか?といった視点をもって検証していくことが必要である(悪魔化もまた思考停止への一里塚である)、と述べつつこの稿を終えたい。

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