フラグメント43:YU-NO、「真の宗教」、キャラ的人間関係

2008-07-30 00:51:42 | フラグメント
<門門しましょ藤原紀香>
YU-NOのエンディング…父を超えるという図式、やがて来る魂の解放(自殺)から免れるという意味はあるにしてもやはり違和感は拭えない(新天地で二人で暮すのは父親とイコールになる)。なぜなら、たくやは図式に落とし込まれるより家族(ユーノ)を優先しそう。「黒」東海カーボン…わざわざ戻ってまじまじと見たのにイマイチ。ポンジュース愛媛のまじめな…まじめじゃないって思わず「みかんの歌」がフラッシュバック。あれほど愛に溢れた歌はない。スーパーヒーローの歌。[妻に]財布を握られる意味がわからない。自分の分くらい働け。


ちょうど五月頭に帰省した頃のもの。なお、YU-NOの話は煮詰めればおもしろそうだ。


<仲間の強調、真実の嘲笑と対策…憑落し
詩音と沙都子。「真の宗教」という時、宗教が社会生活を離れた、つまり本来は個人の内面にのみ関わるものであるという認識に基づいている。相互扶助などは軽視してよいのか?あるいは歴史的に見てそれは一般的だったのか?真宗が一神教的というのは、明治時代の創作である(じゃあ廃物希釈の時の抵抗は?)。ビジネス化した教団への不信と純粋な信仰、宗教心


もっとも、「神と宗教、及び内省の欠落」の記事などは個人的な信仰を中心に据える私の思考様式がそのまま表れているのではあるが。


キャラ的人間関係の構造>
多様化と理解の難化→ある枠組みに落とし込み単純化しようとする。つみり、キャラが与えられないということは理解されていない、あるいは理解する努力を放棄されているとみなすことも可能である(ゆえにキャラが規定されないのを人は恐れる)。また、状況に応じて振る舞いが変わるという点では、確かにキャラという表層の理解様式にもある程度の妥当性が存在している。それらの事情により、もはや真の自己という観念の縛りから解放された一方で、断片の軽視あるいは押しつけが横行している。それがキャラ的人間関係に他ならない。


<明日大宮、十二湖>
カテゴライズとは、単純化や安心のためにではなく、整理やより精密な枠組みへの飛翔のためにこそ行われるべきである。哲学的[が好きなのではないか、]という評価をもらった時、違和感を覚えた。その結果として「情念」なる共通性を発見するにいたった(Airへの興味は哲学的か?)。グラデーションの一部として埋もれていたものが、原色によって浮き上がる。澪尽くし批評…画竜点睛を欠く。循環構造にはなるが中心を捕えていない。なぜ○○が回復したかは説明がつくのか。あの毛だけ白髪になる夢。鉄平[版奈落の花]の影響?アレを使いすぎという警告?休姦日は死守
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