身体性の喪失と価値観の多様化によって言葉・感覚が通じにくくなり、繋がりを病的に求める場面が増えている。その中で、安易に「共感」なる言葉を使い、あまつさえそれが自然なものだと強調すれば、身体性・繋がりを渇望する人々はこの言葉に飛び付くだろう。しかしそれは、コミュニケーションの不可能性を隠蔽するだけでなく、(実際には)言葉の理解(に過ぎないもの)を感覚の理解へ短絡させるという結果を招くに違いない。
それでも、人によっては「そもそも繋がること自体が幻想であるし、またそれが生きる糧にもなりうるのだから、無碍に否定すべきではない」と主張するかもしれない。なるほど確かに、人は理解できているという誤解ゆえにこそ安心して生きている部分はあるし、そういった繋がりの幻想=「精神安定剤」が全くの無効である言うのは行きすぎかもしれない。
いや、もし繋がりの幻想が単なるサプリメントでしかないのなら、それはそれでいいのではないか。問題は、結局のところ生身の人間と相対していかざるをえないという現実、そして共感を相手にも要求する可能性にある。共感幻想に耽溺してそれが自然に可能だと思う人間は、相手を深く理解できたと安易に思い込むだけでなく、相手にもそのような理解の姿勢を要求する(共感が一方通行的なものと見なされる根拠は無いため)。しかしながら、現実には身体性が失われ、相手の感覚を理解することが困難になっているのだから、「相手はわかってくれない」という(以前よりも大きな)幻滅と苛立ちがその人を支配するようになる。
このように考えると、共感という幻想は、身勝手な期待と裏切りを助長するものだと言える。ゆえに、共感という言葉によって感覚での繋がり・理解を強調するのではなく、「相手の立場で『考える』」といった表現によって、所詮は自分本位の理解でしかないというその限界を強く認識させることが必要だと思うのである。
それでも、人によっては「そもそも繋がること自体が幻想であるし、またそれが生きる糧にもなりうるのだから、無碍に否定すべきではない」と主張するかもしれない。なるほど確かに、人は理解できているという誤解ゆえにこそ安心して生きている部分はあるし、そういった繋がりの幻想=「精神安定剤」が全くの無効である言うのは行きすぎかもしれない。
いや、もし繋がりの幻想が単なるサプリメントでしかないのなら、それはそれでいいのではないか。問題は、結局のところ生身の人間と相対していかざるをえないという現実、そして共感を相手にも要求する可能性にある。共感幻想に耽溺してそれが自然に可能だと思う人間は、相手を深く理解できたと安易に思い込むだけでなく、相手にもそのような理解の姿勢を要求する(共感が一方通行的なものと見なされる根拠は無いため)。しかしながら、現実には身体性が失われ、相手の感覚を理解することが困難になっているのだから、「相手はわかってくれない」という(以前よりも大きな)幻滅と苛立ちがその人を支配するようになる。
このように考えると、共感という幻想は、身勝手な期待と裏切りを助長するものだと言える。ゆえに、共感という言葉によって感覚での繋がり・理解を強調するのではなく、「相手の立場で『考える』」といった表現によって、所詮は自分本位の理解でしかないというその限界を強く認識させることが必要だと思うのである。
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