メガロマニアは国家陰謀の夢を見るか?

2008-06-27 02:39:24 | ひぐらし
ひぐらしの真相を批判する~推理という観点から~」では、過去の記事を掲載しつつ、推理の質という観点からひぐらしの真相にどのような問題点があるかに触れました。今回は、そこで提示した公式掲示板という軸を利用してさらに詳しい批判を展開していこうと思います。


どこまで計算していたかはわかりませんが、ひぐらしの公式掲示板とそこにおけるやり取りは、ひぐらしのプレイヤー層が広がっていく大きな原動力になったことは否定できません。ゆえに、ひぐらしの真相について評価するとき、単に内容そのものやテーマだけでなく、真相に推理で到ることは可能であったか?その内容は他者(=掲示板の相手)に対して証明できるようなものだったか?という観点が必要なのです。もっとも、これには二つの反論が予想されます。一つは、「作者の側は『ルール』の推理をこそ望んでいたのだから、国家がらみという真相まで推理することを要求してはいなかった」というもの。そしてもう一つは、「掲示板にほとんど、あるいは全く関りのない人も少なからずいたはずであり、あたかも掲示板参加者が多数派であるかのように論じるのは問題である(⇒掲示板に入り浸っていたという筆者の経験に基づくバイアス?)」というものです。よって以下、それに対して反論を述べていく形で話を進めていこうと思います。


まず「ルールの推理」についてですが、当時(=皆殺し編以前)の掲示板において、「真相に到る必要はなく、ルール(法則性)こそを推理すべきなのだ」という話で他者を納得させることは不可能だったでしょう。その理由は、「ルールをこそ推理すべき」という推理の枠組みが本編で提示されていないからに他なりません(以前「「最初から…だった」は成立するか」でも書いたように、そもそもひぐらしは推理の枠組みから推理する必要があったのです[cf.人為とオカルト])。


とすれば、「人為100%で推理して失望した人へ」でオカルト混入を論理的に証明したように、「ルールをこそ推理すべきであること」を証明しなくてはなりません。しかし先にも述べたとおり、本文中にそのような記述はありませんし、ヒントになるようなものもなかったように思います。では、一体どうやって証明すると言うのでしょうか?少なくとも私には、それが可能だとは思えません(もしできると言う人がいるなら、ぜひその論を拝見したいものです)。さて、ルールこそが推理の対象だと証明できない以上、仮にそれを提示して有用な視点だと理解されたとしても、結局は具体的犯人やその手口についても推理を披露しなければならないのです。とするなら、「結局何でもありじゃないの?」という批判が通用するわけです(詳しくは下の注を参照してください)。


では次に、掲示板と(ほとんど)無関係な人たちについて述べていきましょう(あるいは、「掲示板⇒証明の必要性」というのがピンと来ない人にも参考になると思います)。現実を例にとって考えてみましょう。一人暮らしの友人があなたのもとにストーカーの相談で来たとします。その時、「証拠はないが何となくつけられている気がする」と言われるのと、「自分の家のポストがよく開けられている」と言われるのではどちらが信用に値すると感じるでしょうか?判断の正否はともかく、明らかに後者でしょう。それは、具体性(証拠)があるために説得力を感じるからですが、さらに言えば、証拠がない場合にあまり強硬な主張をするようなら、かえって病的な印象を受けて信用度が下がることもあります(追跡妄想か?というように)。


それを念頭に置いて、「証明はできないが謎の集団に狙われている」と言う人間がいた場合を想定してください。おそらく大半の人が笑い飛ばすでしょうし、もしそれでも真剣に主張するなら精神を病んでいると考えるでしょう(≒症候群)。このように、具体性や理由の不在ゆえに他人に証明できない場合、主張の真剣さや事の大きさは逆効果になってしまうのです(飛躍の病理については秋葉原通り魔事件が記憶に新しい)。


このように考えてくると、国家レベルの集団に狙われていると主張し、しかもそれを証明できないというのは、精神を病んでいる、最も症候群に近い状態ということになります。ひぐらしにおいて真相にたどり着くことは、まさにそれと同じなのです(国家レベルの関与を主張しても、ある程度までいくと「何でもありだ」として退けられてしまい、結局人は受け入れない)。


要するに、ひぐらしにおいては、疑いを退けて症候群を免れることがハッピーエンドの要因になっていますが、その実プレイヤーたちは最も症候群的な考え方をしないと真相には辿り着けないような構造なのです。これは、深刻な自己矛盾ではないでしょうか。また作中に関して言えば、仲間を信じる根拠は説明不在の「夢」で、園崎家の陰謀をあれだけ信じたり疑ったりしていたのに梨花の話はみんなであっさり信じるという反応もまた―物語の展開の都合上その段階から疑う描写をいちいちしていられないという事情はあるにしても―メガロマニアというか病人の反応そのものであるように思えます。おそらく、最初はなかった解答編を追加した上しかもハッピーエンドにしようとしたため失敗し、このような自己矛盾を招いてしまったのだと推測されます(圭一たちの反応を、プレイヤーに対する悪意に満ちた隠蔽と解するのはさすがに行き過ぎなように思う)。


「ルールの推理」こそ重要であるというのが証明不可能であることに加え、他者に「何でもあり」だと言われるようなメガロマニア的症候群的真相……これらをもって推理が破綻していると言わなければ、この世から破綻という言葉は必要なくなるでしょう。しかも、これが推理のみならず、テーマの破綻(自己矛盾)でもあるのは今回示した通りです(その矛盾の度合は、かえって奇跡への強烈なアイロニーにさえなっているほど)。次回はそれらに触れつつ皆殺し編のレビューを終えたいと思います。


(注)
ルールのみでは納得されない以上、具体的な犯人を挙げて証明する必要がある。さて、鷹野が犯人であると証明できるだろうか…崇殺し編の行動などあまりにも怪しいが、研究という要素が明らかに邪魔。梨花は「その「過程」が具体的にどうであるのかを知る必要はない。どういう目的で、どういう結果をもたらそうとしているかだけで充分だ」と言うが、目的を考えるとかえって否定的な要素に阻まれる。とすれば、「悪趣味なあいつならやりそうだぜ」という身も蓋もない決め付けになってしまうのではないか(それでも、研究中止の情報がなければそう考えるしかない)。さらに、協力者がいるのはいいとしても、国家レベルの集団が暗躍しているという話になると、「何でもありじゃないの?」と反論される。「それでも自分は国家の関与を信じる」ってそれじゃほとんどメガロマニアの妄想で、それこそ症候群にかかった奴しか辿り着けない(正確に言えば、そういう人間を人は病的[症候群]と見なす)。症候群(疑心暗鬼)を否定しているのに、そんな真相はいかがなもんでしょうかね。

とはいえ、その辺りは罪滅し編のレナの描き方などからすれば重々承知しているはずだ。また、プレイヤーより深部にいたはずの富竹や入江の右往左往する姿が皆殺し編で描かれており、それはプレイヤーによる動機や目的の証明不可能性を逆説的に証明しているから、それをもって「とにかくルールを推理することが大事なのだ」という主張の暗示ととることは可能だ(=ルールをこそ推理すべき、という枠組みの証拠)。しかし真相が暴かれんとしている時にそれを示しても、あまりに遅すぎるのである。

このような理解度と対応のズレを考えると、作者側は掲示板とそこにおける推理の性質について、ほとんど無自覚だったのかもしれない。

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