秋葉原通り魔事件とセキュリティ~凶器としての車~

2008-06-13 02:00:49 | 抽象的話題
昨日の記事で通り魔事件を安易に社会と結びつける危険性について述べた。今回は、それとは別のセキュリティの側面、つまりいかにして事故を防ぐのかについて書くことにする。


今回の事件による死者の内訳は、ナイフによる死者4名、トラックによる死者3名となっており、それゆえナイフに関する規制が今まさに話題に上っている。将来的にセキュリティが発達して、刃物の購入にIDが必要になるとしても、そもそも今回のように前科のない人間なら結局購入できることには変わりはない。それならナイフを所持している人間の位置をわかるようにチップでも埋め込むのか?そして空港のゲートのように特定の区域にはナイフを持ち込めないようにする?なるほど地下鉄などにバイオメトリクスが導入されつつあるのは確かだが、街のような開かれた空間を同じような状態にすることは、今のところ現実的では無い(バイオメトリクスではないが、街の監視という点では有名な例としてイギリスの監視カメラが挙げられる)。結局、ナイフを所持してしまったら手の打ちようがないのが現状であり、それゆえナイフそのものを規制するしかない、という結論に到る。よって、包丁などは規制が難しいにせよ、まずは危険度の高いものから排除していくのは妥当な対応と言わざるをえないだろう(実際、規制に向けての動きがすでに始まっているようだ)。


しかしながら、最初に述べたように、今回の事件は3人が車にはねられて死亡しており、車が凶器であることを改めて人々に知らしめたことを忘れてはならない。その事について言及した記事は、不思議なことに管見の限り全く存在しないが、あまりに生活に入り込みすぎているため、批判したり危険視したりしてもどうしようもない、とあえて書かないでいるのだろうか?だが、触れずにおけば住むほど安穏とした問題ではないと私は考えている。


…ここからは、いたずらに不安を煽るのも嫌だし、ましてや模倣されるのは冗談ではないので、ちょっとぼかした書き方にする。今回の事件は、車が凶器であり、通り魔的に使われればどれほどの殺傷能力を持っているかを見せ付けた。なるほど自転車などと違い、乗るのにある程度スキルが必要であるし、それゆえ使う人間の数は限定できるが、一端使われたら自転車などと違ってそれそのものが恐るべき凶器になるという事実は否定できない。実際、ただ歩行者天国やアーケード街に突っ込むだけで一体どれだけの死者が出るか想像もつかないし、もっと物騒な話をすれば、車にGの缶を搭載してSビルに突っ込むだけで立派な自爆テロが完成してしまうのだ(こういった仮定は、ちょっとした思考実験でもすぐに思いつく)。なるほど自動車による通り魔は、顔が見えないといったことを考慮すれば自己顕示欲をあまり満たさないかもしれないし、また自分自身が実行していないのだから達成感が少ないという事情はあるかもしれない(とは言うものの、車を自己と一体化させるような認識のあり方も指摘されている)。また後者の自爆テロに関しては、そもそも自爆するならその前に自殺しているのではないか?という反論は可能である。それにしても、車がそれほど危険な存在であることを、今回の事件で一体どれほどの人が自覚できたのだろうか、と私は素朴に思ってしまう。しかもナイフのように規制できないため、ある意味で車の方がよほど深刻な問題なのだ。


では、一体どうすればよいのだろうか?さっきの包丁の話も合わせて考えると、リスクを完全に排除するには、「街ごとにゲートを作るしかない」という結論になりそうだ。SFの世界という意味では「進化」だし、中世都市的という意味では「退化」と言えるが、そのような状況が健全とは正直私には思えない。である以上、個人レベルでの救済措置に力を入れていくしかない。後はそのうちに事故が起きない、というより起こせないような機会制御の車が完成することを祈るだけだ。

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