「コンサマトリー」とは「現状充足型」を表し、おおよそ「(未来より)今ココの充足感を大事にする志向性」ぐらいの意味である。
元々は社会学者のパーソンズが唱え始めた言葉で、日本においてはゼロ年代の若者の傾向を表すものとして古市憲寿らが使用し、一般社会にも多少は認知されるようになったタームと言っていいだろう。
(若者だけの志向性かはともかく)このような傾向分析がある程度正しいとすれば、前に述べた既得権益へのしがみつき(ある意味リスクヘッジとしては必然的な行動の一つ)と相まって、日本社会の停滞=相対的衰退の一因となっているし、これからますますそうなるだろうというのが私の予想である。
当然のことだが、コンサマトリーが通用するのは日常生活がある程度の水準を維持している時であろう。とするなら、GDPが世界3位と誇る状況も人口が減り続けることは確定しているので順位は下がっていくし、日本の賃金が上がらずいよいよ韓国にも一人あたりGDPが抜かれた状況だ。つまり、今の日本は成長はもちろん、現状維持すら困難な状況であると言える。するといつかは、「今ココの充足では、いつ奈落の底に落ちるかわからない」と気づくのだろう(ここで注意すべきは、アンケート調査からもわかる日本人の強烈な自己責任論[弱者を政府が救済すべきと考える割合が少ない]、及び共同体の解体により、日本の包摂機能は脆弱であるし、高齢者の増加=社会福祉費用の増大により、さらに包摂機能が弱まる可能性が少なくない、という点にある)。
その中でコンサマトリー的志向性は、「茹でガエル」と何ら変わるところはないと言える。注意せねばならないのは、これは「成長し続けなければならない」という話ではない。なるほどパーソンズがコンサマトリーを提唱した頃なら、それはウェーバーが「プロ倫」で喝破したようなプロテスタンティズム(現状の禁欲志向と未来への飽くなき投資が資本主義を駆動した)に対置したものであったから、それを否定するならやはり成長を志向するべきという話になるのも理解できるが、少なくとも現代日本の場合は、「現状維持すら極めて困難」なのである(人口減少の確定、経済規模の縮小、労働力不足、他国の成長により物価上昇[石油など]、海外労働者からも見限られるetcetc...このような不可避の状況を踏まえれば、適応のための変化が必要だが、コンサマトリー的志向はそれを阻害しかねない)。
もはや成長をイメージし続けられる時代ではないし、むしろ「脱成長」さえ唱えられている。とはいえ、今や成長どころか現状維持すら困難な状況にあり、それをただ現状肯定するような志向性は害悪になりかねない、という認識は正しく持っておくべきではないかと思うのである。
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