さて、「サブキャラシナリオの批判性」を書いた上で前回はその草稿を掲載したわけだが、ここではさらに遡って覚書段階のものを掲載しようと思う。草稿とはアプローチの仕方が違うので、参考になる部分があるかもしれない(なお、分量が多いので二つに分ける)。
ところで、よくよく考えてみると、「終末の過ごし方」のレビューではアルマゲドンのような展開に慣れきった心性に疑問を呈したり、あるいは「沙耶の唄」(完全ネタバレ)に関するレビューをきっかけとして「説明不足」という評価が出てくる背景とその妥当性を疑ったり、あるいは主人公というものの理想像について考えたりしてきた。それらは反発や批判の前提になっている観念や枠組みを考え、その妥当性を問う行為であったわけだが、孝之=「ヘタレ」に関する記事もまた、その中に含めることができるだろう。
なお、今までの記事に以下の覚書を重ねて読んだときに予想される反論は「そんなシステム的な理由ではなくて、感覚的にどうしても受け入れられない言動や振舞があって、否定的な評価をしているという人もいるのではないか?」というものである。これに対する私の答えは明快だ。まずそもそも、システム的な理由が全てだと私は言っていない。そうではなく、(具体性の欠落=理論的なものではなく)人生観といったような一見個別具体的で感覚的な(つまり個人的な)領域に属するように思える「ヘタレ」という評価が、実はシステム的なものに強く影響されていると私は言っているのである(これについては「感覚と理論~二元論的作品理解の危険性~」を参照してもらいたい)。それに、実際には明確に強い不快感を感じた部分があったが、レビューでは具体的に書かなかった…という人もまあいることはいるだろう(正直なところ、そのようなやむを得ない事情によって婉曲性を帯びることになった、という雰囲気のレビューを今まで一つも見たことがないので全く信用する気にはならないが。この辺については後の覚書も参照)。まあそれはともかく、鳴海孝之の評価については、「感覚的にダメ。以上終了」となりそうなところを別のアプローチを試みることで掘り下げようとしている旨を理解してもらえればと思う(例えば小此木啓吾は、『自己愛人間』の中で「カサブランカ」の主人公への評価が著者の世代と娘の世代で異なっていることを指摘しているが、それはもちろん個人的なものもあるにせよ、[小此木はこのような表現を用いていないが]「大きな物語」に対する世代的な態度の違いとして捉える事が可能である)。なお、感覚的な側面から考える記事は、以前「「感情移入」の問題に向けて」でも触れたように、サバイバーズ・ギルトという観点でいずれ書くつもり(と言いつつもう半年以上経つのだがw)なのでそちらを参照してほしい。
<サブキャラシナリオの批判性>
メインシナリオが選択不可能性をテーマにしていること、あるいはそのような特徴を持っていることが明らかになったと思う。それを念頭に置いたとき、サブキャラのそれが選択可能性、あるいは多重人格的であることを特徴としているのが奇妙に思えてくる。そしてこのような違いに気づけば、サブキャラシナリオの破綻、ないしは必然性の欠落が別の意味を持って見えてくる→穂村シナリオの懲罰的内容、スケープゴートとしての星乃シナリオ。選択可能性そのもの、あるいはそれを自明のものとして疑わない人たちへの批判。メインシナリオとのソゴを問題にしている人を見たことがない=無理解→削除無難(※)
※
最後のは意味不明だが、蛍や穂村シナリオにアイロニーの可能性を見出していたレビュー(ちなみにそれぞれ別の人であり、サブキャラシナリオそのものが、という視点ではない)は存在し、それゆえに書いたのかもしれない…が、やはりよくわからない。
<サブキャラシナリオの批判性2>
さて、「感情移入できない」までの記事において、以下のような理解が共有されたと思う。すなわち、「感情移入」というのは選択可能性を基本とする「白紙の主人公」に適したものであり、それを鳴海孝之に適用しようとしたことに何の疑いも抱いていないことは、彼が一回性に縛られた存在であることを本質的に理解できていないことを示している。それはつまり、一回性が選択に及ぼす影響についても理解できていないことを意味する。「ヘタレ」という評価は、そのような無理解から生まれたのだ、と。これにかつて書いた心理描写や演技力の話を付け加える(※2)。
※2
やはり最後の一文が意味不明。一応孝之を始めとする各キャラの状況設定が、細かな心理描写と演技力と結合したことによって君が望む永遠は比類なき傑作になった、とか書いた過去の記事には関連するのだろうが、それを付け加えることによってどんな効果を狙っていたのか今となっては記憶の彼方である。何せ三か月前のものだからなあ…
<サブキャラシナリオの批判性3>
付け加えるなら、君が望む永遠が一回的な生に伴う選択不可能性とその苦悩を、レベルの高いリアリズムで描いているにもかかわらず(=小説的※3)、それを選択可能であるという前提を通して「しか」見れないことが、孝之が「ヘタレ」と評価され、しかもその内実が語られない要因なのである。次の段階に移ろう。単にものの見方、描き方の問題なのだろうか?ここで重要になってくるのがサブキャラシナリオである。ある人はこう考えるだろう。一回的で文脈に縛られるのが鳴海孝之であると言うのなら、サブキャラシナリオにおける脈絡のない行動は一体何なのか?と。
※3
これは単に小説が一回的で読者の視点からすると(基本的に)選択不可能なものであり、君が望む永遠は選択肢の多いゲームにもかかわらずそれと同じ特徴を持つ「小説的なゲーム」という程度の意味である。実はこないだ東浩紀のLSDシリーズ第三段(Dialogue)に収録されている元長柾木たちとの対談を読んでいた時、掲載されている図に全く同じ表現が出てきていて萎えた、ということもあった。あるいは記憶の片隅にあったそれをさも発見したかのように錯覚した可能性も……やれやれだ。
<サブキャラシナリオの批判性4>
私も何度かサブキャラシナリオの批判を書いているように、そのものの質の低さに異論はない。しかし、ここで疑問が湧いてくる。なぜ[メインシナリオで孝之に]「ゲームの主人公じゃない」とわざわざ言わせるほど一回性にこだわったのに、あれほど脈絡のないシナリオを作ったのだろうか?と。様々な解釈。単に力量の問題、人気取り。バッドエンドや穂村・星乃シナリオの性質。サブキャラシナリオ=「誤り」、懲罰的内容→白紙の主人公への批判性。つまりは、単にドラマツルギー―の差異[正しくは優劣]に関する問題にとどまらず、むしろ「白紙の主人公」への強い批判性を持っており、それに気付かない、あるいはもしかすると否認が見られるということである。
<サブキャラシナリオの批判性5>
メインシナリオは、まさに「ゲームの主人公ではない」という言葉の示すとおり、一回性・選択不可能性を軸に描かれていた。このことと、サブキャラシナリオに特徴的な選択可能性(主人公の可変性)、そしてそこに脈絡のない選択肢と懲罰的エンディング(さらに言えば、サブキャラシナリオは基本全員がバッドエンド)さえ見られるのを考え合せる時、サブキャラシナリオに見られる質の悪さはむしろ「白紙の主人公」なるもののグロテスクさを浮き彫りにしており、結果としてそれへの痛烈な批判になっていることに気づくだろう。それに全く言及せず、無邪気に「感情移入」、つまりサブキャラシナリオが批判の対象にしている「白紙の主人公」を求める言動→全くの無理解、バイアスの強さ。否認?
ところで、よくよく考えてみると、「終末の過ごし方」のレビューではアルマゲドンのような展開に慣れきった心性に疑問を呈したり、あるいは「沙耶の唄」(完全ネタバレ)に関するレビューをきっかけとして「説明不足」という評価が出てくる背景とその妥当性を疑ったり、あるいは主人公というものの理想像について考えたりしてきた。それらは反発や批判の前提になっている観念や枠組みを考え、その妥当性を問う行為であったわけだが、孝之=「ヘタレ」に関する記事もまた、その中に含めることができるだろう。
なお、今までの記事に以下の覚書を重ねて読んだときに予想される反論は「そんなシステム的な理由ではなくて、感覚的にどうしても受け入れられない言動や振舞があって、否定的な評価をしているという人もいるのではないか?」というものである。これに対する私の答えは明快だ。まずそもそも、システム的な理由が全てだと私は言っていない。そうではなく、(具体性の欠落=理論的なものではなく)人生観といったような一見個別具体的で感覚的な(つまり個人的な)領域に属するように思える「ヘタレ」という評価が、実はシステム的なものに強く影響されていると私は言っているのである(これについては「感覚と理論~二元論的作品理解の危険性~」を参照してもらいたい)。それに、実際には明確に強い不快感を感じた部分があったが、レビューでは具体的に書かなかった…という人もまあいることはいるだろう(正直なところ、そのようなやむを得ない事情によって婉曲性を帯びることになった、という雰囲気のレビューを今まで一つも見たことがないので全く信用する気にはならないが。この辺については後の覚書も参照)。まあそれはともかく、鳴海孝之の評価については、「感覚的にダメ。以上終了」となりそうなところを別のアプローチを試みることで掘り下げようとしている旨を理解してもらえればと思う(例えば小此木啓吾は、『自己愛人間』の中で「カサブランカ」の主人公への評価が著者の世代と娘の世代で異なっていることを指摘しているが、それはもちろん個人的なものもあるにせよ、[小此木はこのような表現を用いていないが]「大きな物語」に対する世代的な態度の違いとして捉える事が可能である)。なお、感覚的な側面から考える記事は、以前「「感情移入」の問題に向けて」でも触れたように、サバイバーズ・ギルトという観点でいずれ書くつもり(と言いつつもう半年以上経つのだがw)なのでそちらを参照してほしい。
<サブキャラシナリオの批判性>
メインシナリオが選択不可能性をテーマにしていること、あるいはそのような特徴を持っていることが明らかになったと思う。それを念頭に置いたとき、サブキャラのそれが選択可能性、あるいは多重人格的であることを特徴としているのが奇妙に思えてくる。そしてこのような違いに気づけば、サブキャラシナリオの破綻、ないしは必然性の欠落が別の意味を持って見えてくる→穂村シナリオの懲罰的内容、スケープゴートとしての星乃シナリオ。選択可能性そのもの、あるいはそれを自明のものとして疑わない人たちへの批判。メインシナリオとのソゴを問題にしている人を見たことがない=無理解→削除無難(※)
※
最後のは意味不明だが、蛍や穂村シナリオにアイロニーの可能性を見出していたレビュー(ちなみにそれぞれ別の人であり、サブキャラシナリオそのものが、という視点ではない)は存在し、それゆえに書いたのかもしれない…が、やはりよくわからない。
<サブキャラシナリオの批判性2>
さて、「感情移入できない」までの記事において、以下のような理解が共有されたと思う。すなわち、「感情移入」というのは選択可能性を基本とする「白紙の主人公」に適したものであり、それを鳴海孝之に適用しようとしたことに何の疑いも抱いていないことは、彼が一回性に縛られた存在であることを本質的に理解できていないことを示している。それはつまり、一回性が選択に及ぼす影響についても理解できていないことを意味する。「ヘタレ」という評価は、そのような無理解から生まれたのだ、と。これにかつて書いた心理描写や演技力の話を付け加える(※2)。
※2
やはり最後の一文が意味不明。一応孝之を始めとする各キャラの状況設定が、細かな心理描写と演技力と結合したことによって君が望む永遠は比類なき傑作になった、とか書いた過去の記事には関連するのだろうが、それを付け加えることによってどんな効果を狙っていたのか今となっては記憶の彼方である。何せ三か月前のものだからなあ…
<サブキャラシナリオの批判性3>
付け加えるなら、君が望む永遠が一回的な生に伴う選択不可能性とその苦悩を、レベルの高いリアリズムで描いているにもかかわらず(=小説的※3)、それを選択可能であるという前提を通して「しか」見れないことが、孝之が「ヘタレ」と評価され、しかもその内実が語られない要因なのである。次の段階に移ろう。単にものの見方、描き方の問題なのだろうか?ここで重要になってくるのがサブキャラシナリオである。ある人はこう考えるだろう。一回的で文脈に縛られるのが鳴海孝之であると言うのなら、サブキャラシナリオにおける脈絡のない行動は一体何なのか?と。
※3
これは単に小説が一回的で読者の視点からすると(基本的に)選択不可能なものであり、君が望む永遠は選択肢の多いゲームにもかかわらずそれと同じ特徴を持つ「小説的なゲーム」という程度の意味である。実はこないだ東浩紀のLSDシリーズ第三段(Dialogue)に収録されている元長柾木たちとの対談を読んでいた時、掲載されている図に全く同じ表現が出てきていて萎えた、ということもあった。あるいは記憶の片隅にあったそれをさも発見したかのように錯覚した可能性も……やれやれだ。
<サブキャラシナリオの批判性4>
私も何度かサブキャラシナリオの批判を書いているように、そのものの質の低さに異論はない。しかし、ここで疑問が湧いてくる。なぜ[メインシナリオで孝之に]「ゲームの主人公じゃない」とわざわざ言わせるほど一回性にこだわったのに、あれほど脈絡のないシナリオを作ったのだろうか?と。様々な解釈。単に力量の問題、人気取り。バッドエンドや穂村・星乃シナリオの性質。サブキャラシナリオ=「誤り」、懲罰的内容→白紙の主人公への批判性。つまりは、単にドラマツルギー―の差異[正しくは優劣]に関する問題にとどまらず、むしろ「白紙の主人公」への強い批判性を持っており、それに気付かない、あるいはもしかすると否認が見られるということである。
<サブキャラシナリオの批判性5>
メインシナリオは、まさに「ゲームの主人公ではない」という言葉の示すとおり、一回性・選択不可能性を軸に描かれていた。このことと、サブキャラシナリオに特徴的な選択可能性(主人公の可変性)、そしてそこに脈絡のない選択肢と懲罰的エンディング(さらに言えば、サブキャラシナリオは基本全員がバッドエンド)さえ見られるのを考え合せる時、サブキャラシナリオに見られる質の悪さはむしろ「白紙の主人公」なるもののグロテスクさを浮き彫りにしており、結果としてそれへの痛烈な批判になっていることに気づくだろう。それに全く言及せず、無邪気に「感情移入」、つまりサブキャラシナリオが批判の対象にしている「白紙の主人公」を求める言動→全くの無理解、バイアスの強さ。否認?
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます