〇〇人の血

2024-08-30 16:00:00 | フラグメント

さすがに最近は見かけなくなったが、ある民族などの特徴をとらえて「○○人の血だ」とか「○○人の血がそうさせる」というおかしな表現がかつては存在していた(もっとも、表現しないことはそのまま内面的に無効になったことを意味しない)。


なぜ「おかしな」表現と言えるのだろうか?例えば、もし仮に「日本人の血」なるものが行動を規定するとすれば、日本人というものは、いかなる社会で育とうとも、ある点においても同じ特徴を有することになる(念のため言っておくが、○○人の血という場合、外見などの生物学的特徴は除外されている)。


しかし、帰国子女の例などを考えてみるまでもなく、そのような事態は起こりえない。ジャングルで成長した人間も、日本で育った場合と同じように振舞うだろうか?ヨーロッパは?アメリカは?中近東は?etc...


要するに、「○○人の血」なるものの正体は「日本社会の特性」でしかないのである(それだって日々変化している)。そして前者のような表現が問題なのは、あたかもそれが生得的なものであるかのように錯覚させることにある。ゆえに、かような文言は使用を控えた方がよい。


ところで、例えばアメリカで成長した日本人が、その過程で違和感を覚えたり日本の文物にハマりこむ場合などはどう説明するのか?という疑問を呈する人がいるかもしれない。しかし、まず最初に強調しておくべきこととして、仮に日本で成長した日本人であっても、社会などの在り方に全く違和感や疑問を持たない人間というのはまずいない。つまり、違和感のみでは何の根拠にもならないのだ。また、周囲の社会がある民族・人種に対して持っているイメージ(事によってはスティグマ)が有形無形に押しつけられ、それに反発することもあるだろうが、それは「血」とは無関係であることに注意しなければならない(しかも、前述のような日本人が日本で成長する場合でも、「子供は~なものである」「女性は…であるべきだ」「男性は―であるべきだ」といったイメージの押しつけと無縁でいることはほとんど不可能である)。さらに言えば、違和感に出会った場合「その原因は異民族社会での生活にあり、自民族の作った国家やその文物に触れればそれは解消されるのではないか/されるはずだ」というある意味わかりやすい方向付けが存在することも忘れるべきではないだろう。そしてその方向付けに乗れば、実際には違和感に対する一つの対応策にすぎないにもかかわらず、自民族のものを求めたということで「○○人の血」と言われてしまうわけである。


このように、「○○人の血」という言い方は、フィクショナルなだけでなくそれが生得的・根源的なものというイメージを植え付けかねない害多き表現だと言えるだろう。


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