書きたいことが多すぎて、うまく回っていない。
何というか、四方八方から引っ張られて身動きが取れなくなっているような感じである。
それで昔の記事に注釈なんぞ付けつつお茶を濁してるうちに、
ますます覚書は溜まりなおいっそうまとめるのが困難になるというあべしな状態。
そういやゲーテとかいうおっさんも言っていたではないか。
「今日は時間がなかったから短い手紙を書けなかった」と。
これは手紙じゃ . . . 本文を読む
職場の人間カンケーでかなりトラブってて、精神的に結構キとります。
2年前はバイトの子と正社員の間でセクハラ問題が勃発して飛ばせだの解雇しろだのという話になり(→7月のウツ状態)、昨年はベテラン職員と新人の事務がつばぜり合いをし、そして今年は俺にお鉢が回ってきましたよと。
ただまあ自分のだらしなさがかなーり大きな原因になっているんで、相手を非難してばかりもおれん。
プライベートはとも . . . 本文を読む
しかし、だ。いくらラジオというメディアを通じてしか「暴徒」を描かないといった演出をしていると言っても、作品の側に誤解を招く要因はないのだろうか?
結論から言えば、間違いなくある。その主要因は、深刻な葛藤が描かれていないことに他ならない。たとえば、香織(メインヒロイン)のエンディングでは家族と一緒にシェルターに避難しようとするところへ知裕(主人公)が来て、終末を二人で過ごさないかと . . . 本文を読む
このゲームを私が最初にプレイしたのは大学一年(2000年)だったが、その時点ですばらしい作品だという確信があった。
そういうわけで周囲にもコ〇ーによる布教活動(笑)をしてもいたわけだが、そのうちの一人であるSさんは、「終末」を駄作だとするネットのレビューを見ながら、「そりゃそうだよなあ」と評した。なぜそういう評価になるんだろうと首を傾げはしたが、その時は特に突っ込まなかった。しか . . . 本文を読む
ブログを始めた頃のレビューには、「なぜその作品がそのように受け取られるのか?」という受容環境に対する問題意識が強く存在していた。その特徴は「君が望む永遠」や「ひぐらしのなく頃に」のものに顕著だが、最初に掲載した「終末の過ごし方」も同様である。
「終末の過ごし方」はレビューの再掲にあたって詳細に論じなおしたが、あえて震災の話などには触れなかった。そこで数回を使って、極限状況での振舞 . . . 本文を読む
父親が居間で見ていた番組を流して聞いていた時のこと。印象的なオルガンの曲が流れてきてそちらに注意を傾けた。「映像の世紀」を見るようになったのはそれからだ。
なお、その曲名が「パリは燃えているか」だと知ったのは随分後になってから。その時オーケストラバージョンを聞かせてもらい壮大な曲だと感じはしたが、感銘を受けたりするようなことはなかった(実際には番組中オーケストラでも流れていたのだ . . . 本文を読む
7月頭に記事を書いて以来ダラダラとプレイしてまいりましたが、1月半ぶりの連休を使って何とか「学校であった怖い話 特別編」をコンプリート。
いや~、すさまじいボリュームでしたわ。途中からは攻略サイトも使いまくったのに30時間かかったし。追加ディスクを合わせて4000円弱したが、十二分に元がとれたと思う。修ちゃんや明美様以外にも萌えキャラがいっぱいいたしねw
ただ、 . . . 本文を読む
かつてYU-NOエンディング批評の前置きをしてこの記事を書いたわけだが、それは単なる批判記事にならないよう問題点(短所)を考える前にまずその意味と効果(長所)を明らかにしておきたい、という狙いがあった。これ以上の説明は必要ないと思うので、あとは原文に譲る。
<原文>さて今回は、「YU-NOエンディング批評」に引き続き、YU-NOのエンディングが持つ意味・効果について述べてみたい( . . . 本文を読む
先日「私的傑作PCゲームランキング」という記事を再掲し、「YU-NO」の他に「君が望む永遠」、「沙耶の唄」、「ひぐらしのなく頃に」の3作品を殿堂入りとして取り上げた。それらは何らかの形で私の認識の仕方に影響を与えたものばかりだが、その中でYU-NOだけは例外となっている。逆に言えば、甚大な影響を受けていないにもかかわらず、エンターテイメント性、ゲーム性、世界観などにおいて比類なき作品と確信を持って . . . 本文を読む