山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

アニメ「ナウシカ」の自省からマンガ「ナウシカ」へ

2018-05-02 18:11:42 | 読書

 宮崎駿のアニメとマンガとの違いは、アニメ「風の谷のナウシカ」で描ききれなかった課題を、マンガ「風の谷のナウシカ」で対峙したという。宮崎駿のアニメ論は100冊を越える書籍があるというが、彼のマンガ論の評論は少ない。宮崎駿の本質はマンガ「ナウシカ」にあるとみる、小山昌宏『宮崎駿マンガ論/風の谷のナウシカ精読』(現代書館、2009.6)を読む。(画像はマンガ版『風の谷のナウシカ』)

 

                  

 物語の構造について小山氏は、「西洋の物語が、単線的、成長物語であるのに対し、日本の物語は、円環的、非成長物語傾向にあり、幸福追求ではなく、あらかじめ失われた幸福(不幸)を運命的に受け入れる情緒性が色濃く漂う」と比較する。確かに、マンガ「ナウシカ」の終末は、めでたしめでたしで終わらず、世界(人間)の混沌の深さを提示したままだ。 

 

                  

 ナウシカと世界の関係について小山氏は、「ナウシカにとって大地とは、土にとどまらず、水と緑、空と風を含む、あらゆる生命を育む無尽蔵の泉である」とし、「理想は常に現実とともにあり、救済は民の中に、そして大地とともにあり、そして何よりも生命のなかに宿っているのである。」と述べ、大地・生命が宮崎駿の心性のキーワードであることを示唆している。

 

   

 人類は技術と文明で快適を確保したが、かつて人間に恵みをもたらした自然をも疎外するほどに「進化」してしまった。とりわけ、火の使用は人類の生活向上をもたらしたが、「過剰な火」は核兵器や原発を生み出し、「人間の手を超えて災いになることであった」。

 

              

 ナウシカがその「火」を使って最終的に破壊したものは、「シュワの墓所」だった。そこには「文字」盤があったが、そこに象徴される人間の進歩主義的理性、欺瞞の技術・科学ということだった。この辺はわかりにくいところだが、要するに科学文明の暴力・歪曲が文明の破局を招いたことに対し、ナウシカは「円環的時空」の世界、大地・生命・自然に根ざした循環的社会への回帰を示したのだった。

 

   

 「ナウシカが住む<黄昏の世界>は、私たちの住む世界の未来の姿である」が、原発のメルトダウンがチェルノブイリ・福島で炸裂し、すでに「臨界点」の前に立たされている。そうしたなかで小山氏は、ナウシカの苦闘について、「人類の過去責任を現在から未来へと先送りするのではなく、過去に生きた人々の無念を現在から未来へと引き受け、常に<今・この場>においてその責任をまっとうし、行動によってその責任をわかちあう生き方なのである」と結ぶ。

 

                   

 続けて、マンガ「ナウシカ」が「たどり着いた場所」は、「その物語は私たち人間の過去の所業を告発し、今をどう生きればより良い未来を選ぶことができるのか?というメッセージに満ちている。…ナウシカの最後の選択は、文明と自然の調和という課題だけではなく、その調和を実現する社会、家族、人間精神そのものの腐敗とその陶冶を問題にしているのである」と述べているが、ここはアニメでも伝わってくる。 

 このマンガ論を読んで、マンガ「ナウシカ」で宮崎駿が言いたいことを読み過ごしてしまった箇所がかなりあったことがわかった。改めてナウシカの葛藤は宮崎駿そのものの葛藤であり、彼にとってナウシカが「救い」・闇の中の希望であったのを、マンガ版で発見・確認した次第だ。 

 

     

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする