一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

映画『市子』 ……杉咲花の代表作となった戸田彬弘監督の傑作……

2024年01月07日 | 映画


※レビューの途中よりネタバレしています。これから映画を見ようとしている方(で、白紙の状態で見たい方)は、映画鑑賞後にお読み下さい。


第10回「一日の王」映画賞(2023年公開作品)の発表はいつですか?
と、訊かれることがある。
今のところ2月上旬を予定しているが、
それは、私が見たいと思っていた昨年(2023年)公開映画の数作が、
佐賀ではまだ公開されていないからである。
そのまだ公開されてない「私が見たいと思っていた昨年公開の映画」の1本が、
(私の好きな女優である)杉咲花の主演映画『市子』であった。
監督は、『名前』(2018年)、『僕たちは変わらない朝を迎える』(2021年)の戸田彬弘。


自身の主宰する劇団チーズtheaterの旗揚げ公演として上演した舞台「川辺市子のために」を、
杉咲花を主演に迎えて映画化した人間ドラマで、
杉咲花だけではなく、(私の好きな)中村ゆり、中田青渚、石川瑠華なども出演しており、
映画『市子』の存在を知ったときから、見たいと思っていた。
昨年(2023年)12月8日に公開された作品であるが、
佐賀では今年(2024年)1月5日よりシアターシエマ(佐賀市)で公開された。
で、佐賀での公開初日に鑑賞したのだった。



川辺市子(杉咲花)は、


3年間一緒に暮らしてきた恋人・長谷川義則(若葉竜也)からプロポーズを受けるが、
その翌日に、こつ然と姿を消してしまう。


途方に暮れる長谷川の前に、市子を捜しているという刑事・後藤(宇野祥平)が現れ、
彼女について信じがたい話を告げる。
市子の行方を追う長谷川は、
昔の友人や幼なじみ、高校時代の同級生など、
彼女と関わりのあった人々から話を聞くうちに、
かつて市子が違う名前を名乗っていたことを知る。


やがて長谷川は部屋の中で1枚の写真を発見し、その裏に書かれた住所を訪ねることに。
捜索を続けるうちに長谷川は、
彼女が生きてきた壮絶な過去と真実を知ることになる……




その「彼女が生きてきた壮絶な過去と真実」とは何か?
これを書かずにレビューを書くことは難しい。
なので、ここからネタバレをするのだが、
正直、これがネタバレになるのかどうかはよく分からない。
なぜなら、先程も述べたように、本作は、
戸田彬弘監督が主宰する劇団チーズtheaterの旗揚げ公演として、
2015年に上演した舞台「川辺市子のために」を映画化したもので、
2016年、2018年に再演されたが、
映画『市子』の公開を記念し、舞台の「川辺市子のために」も、
今年(2024年)2月3日から12日に再上演されることが決まっている。




そのフライヤーには「あらすじ」が紹介されていて、
そこには、私がネタバレになるかもしれないと思っていることが書かれているからだ。


そう、本作『市子』は、無戸籍児「離婚後300日問題」が重要な鍵となっているのだ。

「離婚後300日問題」とは、
妻が元夫との離婚後300日以内に子どもを出産した場合、
その子どもは民法上元夫の子と推定されるため、
実際には子どもの血縁上の父と元夫とが異なっていたとしても、
原則として元夫を父とする出生の届出しか受理してもらうことができず、
戸籍上も元夫の子どもとして扱われることになるという問題、
あるいは、このような戸籍上の扱いを避けるために、
母が子どもの出生の届出をしないことによって、
子どもが戸籍に記載されず無戸籍になっているという問題のこと。
(ドメスティックバイオレンスなどによって前夫と離婚した場合などで協力を得たくない場合や、心情的な理由から協力が得られないために出生届を提出せず、子が無戸籍者になってしまう等)

※「300日問題」とされる、この嫡出推定の制度は見直され、2024年4月からは、離婚後300日以内に生まれた子であっても、出産の時点で母親が再婚していれば、再婚した夫の子どもであると推定されることになる。

主人公の市子は、所謂「離婚後300日問題」で無戸籍となった者で、
それだけなら、なんらかの手続きを踏めば問題は解決できるのだが、
市子には更なる複雑な家庭の事情が絡んでおり、ここに市子の不幸があった。

市子の母、川辺なつきは結婚し妊娠したものの、夫がDVだったため離婚。
その後すぐに資産家と出会って一緒に暮らし、
出産を機に再婚し産んだ子を籍に入れようとするが、
民法772条により前夫の子と見なされ、籍に入れられなかった。
市子は俗にいう“300日問題”と呼ばれる法制度により、
無戸籍で今まで生きて来たのだ。
さらに、なつきは市子の妹にあたる月子を再婚相手との間に産むが、
難病の筋ジストロフィーと診断され、
その後、夫は事業に失敗し、なつきはこの夫と離婚する。
その後、なつみは、月子のことで相談に行った市の福祉課で、
ソーシャルワーカーの小泉(渡辺大知)に会い、深い関係になる。
市子が小学校入学の年になっても、無戸籍のため通知が届くことはなく、
そのためなつみは、市子を人目から避けて育てていたが、
月子の年齢が就学年に近づき、月子宛に“就学通知”が届いたときに、
なつみは市子を月子に仕立て学校に通わせる。
無戸籍だった市子は、難病で寝たきりの妹・月子の戸籍を使い、
小学校に通い始め、以後“月子”として生きていくことになる。
高校に入学した市子は、
北秀和(森永悠希)からストーカーされるが、
田中宗介(倉悠貴)と交際をはじめる。
はじめての恋に夢中になった市子は、
呼吸器が必要にまでなった月子の介護をおろそかにするようになる。
そして、あるとき月子の酸素マスクを外し、命を奪ってしまう。
母親は、市子に「ありがとう」とお礼を言い、
同居していた小泉は、月子の遺体を生駒山中に埋めに行く。
市子と罪を共有している小泉は、市子にセクハラ行為を行うようになる。
そして、小泉が市子に乱暴しようとしたとき、抵抗した市子に刺殺される。
偶然その場を見ていた同級生の北は、
小泉の遺体を線路に横たえ自殺にみせかける。
その後、月子は、ある時から“市子”を名乗り、様々な経験を経て、長谷川と暮していたのだ。


長谷川義則(若葉竜也)と、後藤(宇野祥平)は、
市子を捜すうちに、市子のこれらの過去を知っていく。
そして、市子は、更なる罪を犯そうとしていた……


市子の過去は、様々な要素が複雑に絡み合ったグチャグチャな過去なので、(笑)
何の予備知識も持たずに見ると、ちょっと解りにくい映画になっているかもしれない。
私が書いたネタバレ程度は(むしろ)知っていた方が、
本作をより理解できるような気がする。(コラコラ)

ここまで書いて言うのも何だが、
(正直に言うと)本作『市子』の題材には、新しさを感じなかった。
常に、既視感がつきまとっていた。
例えば、「離婚後300日問題」に関しては、
「息もできない夏」(2012年、フジテレビ系)というTVドラマを思い出すし、
一緒に住んでいた人は、知らない人でした……というシチュエーションは、
映画『ある男』(2022年)などの作品を思い出す。
手垢の付き過ぎた題材、ストーリーなので、
普通ならツマラナイ作品になるところなのだが、本作はそうなっていない。
なぜか?
それは、主人公の市子を演じている杉咲花の演技が圧倒的だからだ。
杉咲花の演技が、他の似た題材の一群と違ったものにしているのだ。
一線を画すものにしているのだ。
杉咲花は良い俳優だとは思っていたが、予想以上であった。
これまで、
『映画 妖怪人間ベム』(2012年)
『繕い裁つ人』(2015年)
『愛を積むひと』(2015年)
『スキャナー 記憶のカケラをよむ男』(2016年)
『湯を沸かすほどの熱い愛』(2016年)
『無限の住人』(2017年)
『パーフェクトワールド 君といる奇跡』(2018年)
『楽園』(2019年)
『弥生、三月-君を愛した30年-』(2020年)
『青くて痛くて脆い』(2020年)

などの作品を鑑賞し、レビューも書いてきたが、(一部書いていないものもある)
代表作と言えるものは無かったように思う。
(しいて挙げるとすれば『湯を沸かすほどの熱い愛』か『青くて痛くて脆い』か……)
なので、本作『市子』は(記念すべき)杉咲花の初の代表作と言えよう。
それほどのインパクトを私に与えた。
戸田彬弘監督の一番の功績は、市子に杉咲花をキャスティングしたことであるし、
本作が傑作になっているのも、市子を杉咲花が演じたことにある。



市子の母・川辺なつみを演じた中村ゆり。


今泉力哉監督作品『窓辺にて』(2022年)での素晴らしい演技が記憶に新しい。
本作『市子』では、性依存症の母親という難しい役で、
市子が、月子の酸素マスクを外し、命を奪ってしまったときに、
市子に「ありがとう」とお礼を言うシーンに身震いしてしまった。
濡れた冷たい手で心臓を鷲掴みされたような感覚を味わった。



市子の昔の友人・吉田キキを演じた中田青渚。


中田青渚とは、今泉力哉監督作品『あの頃。』(20021年)で出逢い、レビューに、

劔(松坂桃李)が思いを寄せる女子大生・靖子を演じていた中田青渚。
劔がハロプロを通して出会った仲間たちと結成したバンド「恋愛研究会。」のイベントに、
友人とともに訪れるシーンや、



イベントを笑顔で楽しそうに観覧する姿に、何か光るものを感じた。


と書き、

同じ今泉力哉監督作品『街の上で』(2021年)のレビューでは、

もっとも感心したのは、
青がイハ(中田青渚)の住むマンションに行き、“恋バナ”をするシーン。
これが実にリアルで、
青(つまり若葉竜也)がちょっと考えるような、口ごもるようなシーンもあったりしたので、
〈アドリブもあったのかな……〉
と思っていたら、
アドリブは一切なかったとのこと。


ちなみに、あのくだりは全部セリフ通りなんです。でも、僕は途中でセリフが吹っ飛んで、中田さんに助けてもらうという展開に(笑)。それでもOKが出たんですよ。(「映画.com」インタビューより)

と、若葉竜也は語っていたが、
若葉竜也の(それに中田青渚も)演技が素晴らしかったこともあって、
この「17分ワンカット」のシーンは、
(語り継がれるであろう)本作の名シーンとなっている。




町子の映画の衣装スタッフ・城定イハを演じた中田青渚。


青との“恋バナ”シーンが素晴らしかったのは、
若葉竜也の演技の良さもあるが、
相手が中田青渚でなかったならば、もっとギクシャクしたものになっていたかもしれない。
中田青渚の演技には弾力性があり、
それは相手を撥ね返しもするが、
ときに優しく包み込み、受け入れる。
実に稀有な才能を持った女優だと思う。



と書いた。

そして、昨年(2023年)観たTVドラマ「しょうもない僕らの恋愛論」のレビューでは、
……中田青渚が魅力的な大人の為のドラマ……
とサブタイトルを付して中田青渚を絶賛した。(コチラを参照)

本作『市子』では、出演シーンは少ないものの、
市子を信じ、市子と一緒にケーキ屋さんをやろうとする健気で明るい女性を演じた。
絶望の中に差す一筋の光のような存在で、
市子にとっても、映画を見る観客にとっても、唯一の安らぎの存在であったと思う。



失踪した市子と接触していた女性・北見冬子を演じた石川瑠華。


児山隆監督の傑作『猿楽町で会いましょう』(2021年)での演技が素晴らしく、
石川瑠華という女優の名が私の記憶に刻まれていたので、
本作も楽しみにしていた。
中田青渚と同様、出演シーンは短いが、鮮烈な印象を残す。



市子の幼馴染・山本さつきを演じた大浦千佳。


2022年NHK連続テレビ小説「舞いあがれ!」で、
合コン好きのツンデレ従業員・山田紗江を演じていたので顔は知っていたが、
劇団チーズtheaterの旗揚げ公演「川辺市子のために」で、
主役の市子を演じていたとは知らなかった。

戸田監督の代表作でもある舞台「川辺市子のために」が、『市子』となり映画となった。
舞台版は、市子に関わった人たちが「市子」の存在を語る構成、そう、市子を探していた。
映画『市子』の中に、ずっと探していた、ずっと会いたかった市子がそこにいる。それだけで胸が熱くなるし、市子が笑顔になるだけで泣けてくる。
こんなに主人公を抱きしめたくなる映画は無いと思う。


と、映画『市子』について語っていたが、
できれば自身が市子を演じたかったのではないか……と推測した。
映画「市子」の公開を記念し、
舞台「川辺市子のために」も今年(2024年)2月3日から12日に、
東京・サンモールスタジオで再上演されるが、
この舞台での市子役には、初演から演じてきた大浦千佳が続投することになっている。
杉咲花とは違う市子像を創り上げることだろうが、
九州に住んでいる私は、それを観ることができないのが残念でならない。



その他、
市子と3年間一緒に暮らしていた恋人・長谷川義則を演じた若葉竜也、


市子を捜索中の刑事・後藤修治を演じた宇野祥平、


市子の高校時代の同級生・北秀和を演じた森永悠希、


ソーシャルワーカーで市子の母・なつみの元恋人・小泉雅雄を演じた渡辺大知、


市子の最初の恋人・田中宗介を演じた倉悠貴などが、
確かな演技で本作を傑作へと押し上げていた。



かつて、映画『よこがお』(2019年)を見て、
……筒井真理子、市川実日子の演技が秀逸な深田晃司監督の傑作……
とのサブタイトルを付してレビューを書いた。(コチラを参照)
この作品の主人公は(筒井真理子が演じている)リサという女なのだが、
このリサは偽名で、彼女の本当の名前は市子。


不条理な現実に巻き込まれたひとりの善良な女性の、
絶望と希望を描いたサスペンスであったのだが、
この映画は、現在と過去を“行きつ戻りつ”する。
題材は違うものの、二つの名を使う女性の物語で、
一つの名は、市子。
過去と現在を交互に描きながら進行する等、
似た部分がいくつかあり、この『よこがお』を思い出してしまった。


この市子という名は、巫女の一名で、地方によってはイタコのような歩き巫女を指すらしい。

【市子】
1 神霊・生き霊りょう・死霊しりょうを呪文を唱えて招き寄せ、その意中を語ることを業とする女性。梓巫あずさみこ。巫女みこ。口寄くちよせ。
2 神前に奉仕して、神楽かぐらを奉納する少女。神楽女かぐらめ。神女みこ。


市子の口から出るのは、
シャーマン(巫者)が超越霊の憑依をうけて自我喪失の形で発する言葉であったのかもしれない。
そういえば、「A-Studio+」に杉咲花が出演したとき、


憧れのアーティストとして青葉市子という名を挙げていた。(この方も「市子」)
動画を探して聴いたら、これが素晴らしかった。


話が脱線してしまったが、
映画『市子』は、
杉咲花の代表作となる戸田彬弘監督の傑作であった。
一度見ただけでは、全部を理解するのは無理であったし、
もう一度見て、細部の細部まで知りたいと思わせるほどの傑作であった。

この記事についてブログを書く
« 朝駆け「天山」 ……年の初め... | トップ | 鬼ノ鼻山 ……裏山散歩で、素... »