一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

映画『ザリガニの鳴くところ』 ……湿地帯、孤独、初恋、裏切り、後悔、衝撃……

2022年11月22日 | 映画


今年(2022年)10月にレビューを書いた映画『渇きと偽り』と同じく、
公開前に映画館で本作『ザリガニの鳴くところ』のフライヤーを手にし、


『ザリガニの鳴くところ』というタイトルと、
「真相は、初恋の中に沈む――」というキャッチコピーに惹かれ、
鑑賞を決めた作品である。
原作は、
全世界で累計1500万部を売り上げたディーリア・オーエンズの同名ミステリー小説。


【ディーリア・オーエンズ】
アメリカ・ジョージア州出身の動物学者。当時夫であったマーク・オーエンズ(現在は離婚)と共にアフリカでの生活について書いた3冊のノンフィクション「カラハリが呼んでいる」、「The Eye of the Elephant」、「Secrets of the Savanna」が世界的にベストセラーとなった。
「ザリガニが鳴くところ」は、ディーリアが69歳にして初めて執筆したフィクション小説である。
現在は本作の舞台と同じノースカロライナ州に在住している。



動物学者が69歳にして初めて書いたミステリー小説というのにも、
(現在68歳の私は)とても魅力を感じた。

そして、この小説を読んだ女優のリース・ウィザースプーンが、
「読み始めたら止まらなかった」
と、惚れ込み、
自身の製作会社ハロー・サンシャインを通して映像化権を得て自らプロデューサーを担当。
リース・ウィザースプーンといえば『わたしに会うまでの1600キロ』という映画を思い出すが、極私的に大好きな映画で、(レビューはコチラから)
そのリース・ウィザースプーンがプロデューサーを担当しているならば「間違いはない」と思った。


主人公のカイアを、
英ドラマ「ふつうの人々(ノーマル・ピープル)」で2021年ゴールデン・グローブ賞テレビ部門(ミニシリーズ・テレビ映画部門)主演女優賞にノミネートされて注目を浴びた、新星デイジー・エドガー=ジョーンズが演じ、


さらに本作は、世界的シンガーソングライターのテイラー・スウィフトが、
原作を愛するあまり、
「この魅力的な物語に合うような、心に残る美しい曲を作りたかった」
と自ら懇願して楽曲を書き下ろしたことでも話題になっている。


このように、本作の制作陣は、
プロデューサーや監督をはじめとして、女性が大半を占めており、


スタッフ全員が、世界中の読者にとって大切な小説である「ザリガニの鳴くところ」の世界観や雰囲気をキープしようと、細心の注意を払って制作に取り組んだという。
期待は弥が上にも高まり、
公開初日(2022年11月18日)に、映画館(109シネマズ佐賀)に駆けつけたのだった。



1969年、
米国南部・ノースカロライナ州の湿地帯で、
裕福な家庭で育ち将来を期待されていた青年・チェイス(ハリス・ディキンソン)の変死体が発見された。


何者かによってやぐらから突き落とされたと見た警察は、
湿地に一人で暮らす若い娘・カイア(デイジー・エドガー=ジョーンズ)を殺人容疑で逮捕。


「あの野蛮な女を極刑にせよ」との声が上がるなか、
弁護士のミルトン(デヴィッド・ストラザーン)は疑問をいだく。
はたしてカイアに犯行は可能だったのか。


そもそもこれは殺人ではなく、ただの事故だったのではないか。
「弁護をするために君のことを知りたい」というミルトンに、
カイアは自分の人生を語りはじめる。
それは想像を絶する過酷な物語だった。
「ザリガニが鳴く」と言われる湿地帯で、たったひとり育った無垢な少女カイアは、


6歳の時に両親に見捨てられ、
学校にも通わず、花、草木、魚、鳥など、湿地の自然から生きる術を学び、
ひとりで生き抜いてきた。


そんな彼女の世界に迷い込んだ、
心優しきひとりの青年・テイト(テイラー・ジョン・スミス)。
彼との出会いをきっかけに、
すべての歯車が狂い始める……




原作を読んでから映画を見ようとかとも思ったが、
それでは映画を見る楽しみが半減するような気がして、
原作は読まずに映画を鑑賞した。
で、大いに楽しむことができた。
ミステリーではあるが、
ミステリー抜きでも楽しめる内容であったし、
ひとりの少女の成長物語、
もしくは「女の一生」とも言え、
プロデューサーや監督をはじめとしてスタッフの大半を女性が占めているだけあって、
主人公の少女のみならず、風景描写も含め、
隅々まで美しくきめ細やかな映像美に魅了された。





「結末は、正真正銘の衝撃!」
とフライヤーに謳われていたのだが、
普段からミステリー小説やミステリー映画に慣れ親しんでいる私にとっては、
それほどでもなかった。
ところが、時間が経つにつれ、ジワジワとくるものがあった。
著者が動物学者だけあって、
本作の随所に動物学的な知識に裏打ちされた言葉がちりばめられていたからだ。

「一番の理解者は“自然”」

「どんな生き物も生存のために奮闘する」

「季節は秋から冬へ、冬から春へ、自然は常に変わりゆく」

「私は生物学の世界に、子供の元を去る母の理由を探した」

「鳥が朝鳴くのは、涼しく湿った空気がさえずりを遠くまで運ぶから」

「学校はあの日だけ。自然が私の教師」

「沼は死を熟知している。死を悲劇にしないし、罪にもしない」

「湿地は沼地とは違う。湿地は光の世界。水は緑を育み、空へと流れてゆく」

等々。

これらの言葉が伏線となっていたことを、
観客は鑑賞後に知ることになる。
そこには“善”も“悪”もなく、
ただ動物(生物)としての営みがあるだけなのだ。
カマキリの雌(メス)が交尾時に雄(オス)を食べるように……
ここに至り、オスである私は震撼することになる。(笑)
「ジワジワきた」とはそういうことなのだ。

湿地帯のある小さな町で起こった事件、


孤独、


初恋、


裏切り、


後悔、


兄弟愛、


隣人愛……


『渇きと偽り』と同じく、『ザリガニの鳴くところ』には、
私がミステリーに要求するすべてのものが含まれていた。
至福の125分であった。



湿地に一人で暮らす若い娘・カイアを演じたデイジー・エドガー=ジョーンズ。


〈湿地帯の奥に、こんな美しい娘がいるのか……〉
と思ったし、
〈もう少し野性味があってもよかったかな……〉
と思ったりもしたのだが、
自然に抱かれて逞しく生きながらも、
(本を出版するほどの)知性のある少女を繊細に演じ、素晴らしかった。


初恋の人からの裏切りを経て、
町の人気者からのアプローチに、
〈好きか嫌いか分らない、でも孤独じゃない、それで十分だった〉
と、付き合うようになるが、
その男からも裏切られ、暴力をふるわれ、
〈孤独に生きることと、おびえて生きることは、まるで違う〉
〈母が去った理由がやっと分った〉
と悟るに至る過程は切なく、見る者は共感させられる。
拒絶され、差別され、孤立してもなお生きる希望を失わず、
しなやかな強さを持っていて自立しようとする少女を演じたデイジー・エドガー=ジョーンズに、誰もが魅了されることであろう。



弁護士のミルトンを演じたデヴィッド・ストラザーン。


ここ数年だけでも、このブログにレビューを書いた、
『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』(2019年5月31日・日本公開)
『ノマドランド』(2021年3月26日・日本公開)
『ナイトメア・アリー』(2022年3月25日・日本公開)
などの作品に出演している名優。
本作『ザリガニの鳴くところ』では、
町の住人の一人で、引退した弁護士・ミルトンを演じているのだが、
カイアが犯人として逮捕されたことを知ると、カイアの弁護士をすると名乗り出て、
「弁護をするためには君のことを知らないといけない」
と、カイアからこれまでの半生を聞き出す役割を果たしている。
カイアを偏見の目で見る町の人と違い、
ミルトンは対等に同じひとりの人間としてカイアに向き合う。
裁判の最後に、陪審員に向け、
「この裁判で裁かれるのは彼女じゃない、私たちなのだ!」
「主張ではなく、事実のみで判断を!」
と言い放つシーンは圧巻で、
デヴィッド・ストラザーンなればこその名シーンであったと思う。



カイアを応援する黒人の夫妻、ジャンピンとメイビルを演じた、
スターリング・メイサー・Jrとマイケル・ハイアット。


町はずれで舟の燃料店を細々と営む黒人夫婦のジャンピンとメイベルは、
カイアが採ってきたムール貝などを、
(服など)カイアに必要と思われるものと交換してやり、
いつもカイアの味方でいてくれる存在。
特にメイベルを演じたマイケル・ハイアットの演技は、


その慈愛に満ちた眼差しが素晴らしく、感動させられた。



ちなみに、『ザリガニの鳴くところ』というタイトルの意味であるが、
映画では、
父の暴力に耐えかねて出ていった母が、
「ザリガニが鳴くところまで逃げなさい」
と言っていたとカイアが述懐するシーンがあり、
単に、湿地帯の奥の奥……というような意味かと思っていたのだが、
原作では、
「母がよく言っていた“ザリガニが鳴くところ”ってどういう意味なの?」
と、カイアがテイトに尋ね、
「茂みの奥深く、生き物たちが自然のままの姿で生きてる場所ってことさ」
とテイトが答える場面があるらしい。
「ザリガニが鳴くところ」とは、
湿地帯で生まれ、6歳からたったひとりで生きてきた少女にとって、
さらに「茂みの奥深く、生き物たちが自然のままの姿で生きてる場所」なのだ。
それは、
誰にも邪魔されずにカイアがカイアのままでいられる場所なのかもしれないと思った。
そして、
心の奥の奥にも、そういう場所はあるのかもしれないと思った。

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