数人の山友から、
「映画『127時間』をどう見ますか?」
との質問メールが来た。
まだ見ていなかった(というか、見に行く予定がなかった)し、
できればスルーしたいと思っていたので、
山友からの「当然見に行くだろう」みたいな感じの質問には、正直困った。
単独行の青年が、
身動きのとれない断崖で、
生と死のはざまで127時間を過ごす……
という、実話をもとにした作品であるのだから、
山好き人間なら、本来無関心でいられず筈がない。
だが、私は、あまりこの実話の映画化に興味を持てないでいた。
なぜなら、この映画の原作本ともいうべき
『アーロン・ラルストン 奇跡の6日間』(小学館/2005年6月刊)
を、発刊時に読んでいたからだ。
そして、私は、この本の中の青年に、あまり好感を抱いていなかったのだ。
映画を見た感想はさておくとして、
まずは原作本の『アーロン・ラルストン 奇跡の6日間』について……
まず、ざっと内容を紹介する。
アウトドアに熱中し、冒険好きな若者アーロンは、誰にも行き先を告げずにユタ州にあるブルージョン・キャニオンに向かう。
途中、ふたりの若い女性、ミーガンとクリスティと出会い、楽しいひとときを過ごす。
彼女たちと別れたアーロンは、
砂岩がえぐられてできた深く狭い溪谷で、
落石に腕をはさまれ動けなくなる。
ほとんど日射しも届かない地底に閉じこめられ、
食料も水もなく、自分の尿を飲みながら5日間を過ごす。
そしてついに彼は、マルチツールで自分の腕を切断し、
脱出に成功する。
本書の巻末の「訳者あとがき」によると、
この本が出た当時、著者の名前をネット検索すると、
勇敢、勇気、タフガイ、ヒーロー、戦士、国民的英雄、クール、バッドアス(すごいやつ)などと最高級の讃辞が躍っていたとか。
アメリカの最有力紙『ワシントンポスト』は、
「ジェネレーションXのアクションヒーロー」と称し、
70年代後半以降に生まれ「生きがいを見つけられない世代」に希望を与えたと記し、
ブッシュ前大統領も、
アーロンの腕を押し潰した岩石を「悪の枢軸に加えよう」と冗談まじりにその勇気を称えたそうだ。
この本が日本で翻訳出版された時点で、もう彼(アーロン)はすでにヒーローであったのだ。
アメリカでは、こういった人物がよくヒーローになるが、
私は、なぜ彼がヒーローなのかが解らなかった。
彼は、遭難するべく遭難したように見えたからだ。
いつもは詳細なスケジュールをルームメイトに残すのだが、今度はなにも告げないでアスペンを出たまま、行き先については「ユタに行く」とだけ言っておいた。
実際ぼくは、木曜日の夜にソプリズ山からユタまで車を走らせながら、行き先は決めていなかった。こうして前もって用意することもなく、行きあたりばったりで移り気なバカンス。久しぶりの自由を満喫したかった。(11頁)
単独行なのに、誰にも行き先を告げてないこと。
これが遭難するべく遭難した理由「その一」。
ウォークマンで好きなCDを聴きながら、獣道で近道をする。(16頁)
ウォークマンの「フィッシュ」は、聖歌のようなリフをエレキで繰り返し、それにあわせてぼくは、気取った歩き方でこぶしを突き上げる。(26頁)
音楽にあわせて首をふりながら、3個の岩塊の上に乗り、20メートルほど進む。(26頁)
遭難するべく遭難した理由「その二」は、
ヘッドホンで音楽を聴きながら行動していたこと。
「ヘッドホンで外の音を遮断して歩くなんて自殺行為に等しい」ということが、なぜ判らないのだろうか。
岩場では、少しの物音にも敏感に反応し、落石などの危険を予知しながら行動しなければならないのに……
アーロンが岩に挟まれた腕を(実際は手首より数センチ肘に近い部分)勇敢に自分で切断して窮地を脱したように語られているが、本当は少し違っている。
石に右手を押し潰されて血行がとまり、壊死している。
手を切り落とすことを思いついたのは、たとえ救出されても、すでに手は死んでおり、いずれにしても手は切断せざるをえないと考えたからだった。(251頁)
ぼくは怒り狂った。石の手枷から右腕を引き抜こうとした。
この腐敗した局部から、残りの肉体を引きはがしたいと思った。
これはいらない。
ぼくの一部ではない。
生ごみだ。(251頁~252頁)
おそらく神経の方も死んでいたのだろう、アーロンは、自分自身をふりまわす。
右から左に、上から下へ、下から上へ。
そうしているうちに、手首から5cmくらいの所の骨がバーンと折れる。
そのことにより、腕の切断が可能になったことを知る。
本を読む限り、腕の切断は、肉の腐敗と神経の麻痺が生み出したものと言えるのではないかと思う。
このように、腕切断の条件が整ってからの切断であり、ヒーローに仕立てるには無理がある。
それに、挟まれた部位が手首付近だったから脱出できたものの、
腹部や大腿部だったら、おそらく無理だったろう。
ママ、パパ。ぼくはとても愛しているよ。これまで口で言ったことはないけど、一緒に過ごした日々は、本当に素晴らしかったな。なんと表現すればいいかわからないほどだよ。ママ、ぼくはママが大好きだ。アスペンを訪ねてくれてありがとう。パパ、去年は一緒にゴールデンリーフに行ったね。とても楽しかったよ。長い時間一緒に過ごせてうれしかった。ママ、パパ。ぼくのことを理解してくれて、支えてくれて、勇気づけてくれて、本当に感謝してる。おかげで去年、ぼくはやっていけたんだと思う、多くのことを教えてもらった。愛してる。いつまでも忘れない。(138頁)
アーロンは、家族や友人たちに語り続ける。
絶望的な状況に追いつめられて初めて家族や友人たちの存在の有り難さに気づくのだ。
これは、映画 『イントゥ・ザ・ワイルド』の原作本『荒野へ』を読んだときと同じだ。
『荒野へ』の主人公クリスが、死ぬ間際に悟ったこととは……
「Happiness is only real when shared」(幸福が現実になるのは誰かとわかちあった時だ)
ということ。
最後の最後に、家族の大切さに気づくのだ。
「こんな当たり前のことを悟る為に、君はアラスカへやってきたのか?」
「だったらなおのこと、君は死んではならなかった」
と私は記している。
『アーロン・ラルストン 奇跡の6日間』のアーロンと、
『荒野へ』のクリスは、とてもよく似ている。
ただ一点違うのは、クリスは死んでしまったが、
アーロンは生還したということ。
クリスの母親は、
彼がやろうとしたことはすごいことだって、おおぜいの人が言ってくれました。彼が生きていたら、わたしもそう思ったでしょう。でも、生きてはいない。この世に呼びもどすことはもうできません。取り返しのつかないことです。ほとんどのことはやり直しがきくものだけど、こればかりはね。あなたもこういう不幸に打ち克ったことがあるかどうかは知りませんけど。クリスが亡くなったのは事実ですし、わたしはそのことで毎日毎日ひどく辛い思いを味わっています。ほんとうに耐えがたいことです。いくらかましな日もときにはありますけど、これからは一生、毎日が辛いでしょうね。
との言葉を残すが、
アーロンの母親は、
ああ! ありがとう! 本当にありがとう! 息子を返してくれてありがとう!(331頁)
と歓喜の言葉を発する。
アーロンの救出に当たったレンジャーに向かって、
アーロンに関する報告書をまとめて、報道陣にも話すことになるのでしょうね。どうか批判的な私見は加えないでくださいね。(331頁)
とお願いまでしている。
批判にさらされるどころか、一躍ヒーローになるのだが、生きて還ってきたことの意味は、殊の外大きかった。
で、映画である。
映画『127時間』はどうだったかというと、これが稀に見る傑作だったのだ。
原作本では好感を抱かなかったアーロンが好きになってしまうほどの傑作。
正直、最初はイジワルな目で見ていたのだが、
途中からは、この傑作を楽しもうと切り替えたほど。
それほどの秀作。
さすが、『スラムドッグ$ミリオネア』でアカデミー賞を受賞したダニー・ボイルだけのことはある。
映像、音楽、演出、文句なし。
原作本ではあれほど音楽を毛嫌いしていたのに、
映画で使われる音楽のリズムに乗せられ、ググッと映像空間に惹き込まれてしまった。
アーロンを演じたジェームズ・フランコの演技も見事の一言。
一部フィクションも加えられていたが、実物以上にワイルドなアーロンに魅了された。
批判的な目で見ていた私の考えを覆させる作品たりえたのは、
ダニー・ボイル監督と、
アーロンに成りきったジェームズ・フランコが、
全力を注ぎ込み、
一瞬たりとも目が離せないほどの傑作に仕上げたからであろう。
それは、まるで、
127時間を94分に濃縮させ、絞り出した極旨の一滴の味わいであった。
2010年11月5日に、全米で、わずか4館のみで封切られた作品。
口コミで瞬く間に全米を席捲し、今や全世界へと感動の輪を広げている。
見て、ヨカッタ!
見る機会を与えてくれた山友に、感謝!
単独行を主体に山歩きしている私にとって、
ヒリヒリするような痺れる作品であった。
生きていく力、エネルギーを、満タンになるまで注入されたような気がする。
明日からの私は、危ないぞ~(笑)
近寄ると火傷するぜ!(爆)
「映画『127時間』をどう見ますか?」
との質問メールが来た。
まだ見ていなかった(というか、見に行く予定がなかった)し、
できればスルーしたいと思っていたので、
山友からの「当然見に行くだろう」みたいな感じの質問には、正直困った。
単独行の青年が、
身動きのとれない断崖で、
生と死のはざまで127時間を過ごす……
という、実話をもとにした作品であるのだから、
山好き人間なら、本来無関心でいられず筈がない。
だが、私は、あまりこの実話の映画化に興味を持てないでいた。
なぜなら、この映画の原作本ともいうべき
『アーロン・ラルストン 奇跡の6日間』(小学館/2005年6月刊)
を、発刊時に読んでいたからだ。
そして、私は、この本の中の青年に、あまり好感を抱いていなかったのだ。
映画を見た感想はさておくとして、
まずは原作本の『アーロン・ラルストン 奇跡の6日間』について……
まず、ざっと内容を紹介する。
アウトドアに熱中し、冒険好きな若者アーロンは、誰にも行き先を告げずにユタ州にあるブルージョン・キャニオンに向かう。
途中、ふたりの若い女性、ミーガンとクリスティと出会い、楽しいひとときを過ごす。
彼女たちと別れたアーロンは、
砂岩がえぐられてできた深く狭い溪谷で、
落石に腕をはさまれ動けなくなる。
ほとんど日射しも届かない地底に閉じこめられ、
食料も水もなく、自分の尿を飲みながら5日間を過ごす。
そしてついに彼は、マルチツールで自分の腕を切断し、
脱出に成功する。
本書の巻末の「訳者あとがき」によると、
この本が出た当時、著者の名前をネット検索すると、
勇敢、勇気、タフガイ、ヒーロー、戦士、国民的英雄、クール、バッドアス(すごいやつ)などと最高級の讃辞が躍っていたとか。
アメリカの最有力紙『ワシントンポスト』は、
「ジェネレーションXのアクションヒーロー」と称し、
70年代後半以降に生まれ「生きがいを見つけられない世代」に希望を与えたと記し、
ブッシュ前大統領も、
アーロンの腕を押し潰した岩石を「悪の枢軸に加えよう」と冗談まじりにその勇気を称えたそうだ。
この本が日本で翻訳出版された時点で、もう彼(アーロン)はすでにヒーローであったのだ。
アメリカでは、こういった人物がよくヒーローになるが、
私は、なぜ彼がヒーローなのかが解らなかった。
彼は、遭難するべく遭難したように見えたからだ。
いつもは詳細なスケジュールをルームメイトに残すのだが、今度はなにも告げないでアスペンを出たまま、行き先については「ユタに行く」とだけ言っておいた。
実際ぼくは、木曜日の夜にソプリズ山からユタまで車を走らせながら、行き先は決めていなかった。こうして前もって用意することもなく、行きあたりばったりで移り気なバカンス。久しぶりの自由を満喫したかった。(11頁)
単独行なのに、誰にも行き先を告げてないこと。
これが遭難するべく遭難した理由「その一」。
ウォークマンで好きなCDを聴きながら、獣道で近道をする。(16頁)
ウォークマンの「フィッシュ」は、聖歌のようなリフをエレキで繰り返し、それにあわせてぼくは、気取った歩き方でこぶしを突き上げる。(26頁)
音楽にあわせて首をふりながら、3個の岩塊の上に乗り、20メートルほど進む。(26頁)
遭難するべく遭難した理由「その二」は、
ヘッドホンで音楽を聴きながら行動していたこと。
「ヘッドホンで外の音を遮断して歩くなんて自殺行為に等しい」ということが、なぜ判らないのだろうか。
岩場では、少しの物音にも敏感に反応し、落石などの危険を予知しながら行動しなければならないのに……
アーロンが岩に挟まれた腕を(実際は手首より数センチ肘に近い部分)勇敢に自分で切断して窮地を脱したように語られているが、本当は少し違っている。
石に右手を押し潰されて血行がとまり、壊死している。
手を切り落とすことを思いついたのは、たとえ救出されても、すでに手は死んでおり、いずれにしても手は切断せざるをえないと考えたからだった。(251頁)
ぼくは怒り狂った。石の手枷から右腕を引き抜こうとした。
この腐敗した局部から、残りの肉体を引きはがしたいと思った。
これはいらない。
ぼくの一部ではない。
生ごみだ。(251頁~252頁)
おそらく神経の方も死んでいたのだろう、アーロンは、自分自身をふりまわす。
右から左に、上から下へ、下から上へ。
そうしているうちに、手首から5cmくらいの所の骨がバーンと折れる。
そのことにより、腕の切断が可能になったことを知る。
本を読む限り、腕の切断は、肉の腐敗と神経の麻痺が生み出したものと言えるのではないかと思う。
このように、腕切断の条件が整ってからの切断であり、ヒーローに仕立てるには無理がある。
それに、挟まれた部位が手首付近だったから脱出できたものの、
腹部や大腿部だったら、おそらく無理だったろう。
ママ、パパ。ぼくはとても愛しているよ。これまで口で言ったことはないけど、一緒に過ごした日々は、本当に素晴らしかったな。なんと表現すればいいかわからないほどだよ。ママ、ぼくはママが大好きだ。アスペンを訪ねてくれてありがとう。パパ、去年は一緒にゴールデンリーフに行ったね。とても楽しかったよ。長い時間一緒に過ごせてうれしかった。ママ、パパ。ぼくのことを理解してくれて、支えてくれて、勇気づけてくれて、本当に感謝してる。おかげで去年、ぼくはやっていけたんだと思う、多くのことを教えてもらった。愛してる。いつまでも忘れない。(138頁)
アーロンは、家族や友人たちに語り続ける。
絶望的な状況に追いつめられて初めて家族や友人たちの存在の有り難さに気づくのだ。
これは、映画 『イントゥ・ザ・ワイルド』の原作本『荒野へ』を読んだときと同じだ。
『荒野へ』の主人公クリスが、死ぬ間際に悟ったこととは……
「Happiness is only real when shared」(幸福が現実になるのは誰かとわかちあった時だ)
ということ。
最後の最後に、家族の大切さに気づくのだ。
「こんな当たり前のことを悟る為に、君はアラスカへやってきたのか?」
「だったらなおのこと、君は死んではならなかった」
と私は記している。
『アーロン・ラルストン 奇跡の6日間』のアーロンと、
『荒野へ』のクリスは、とてもよく似ている。
ただ一点違うのは、クリスは死んでしまったが、
アーロンは生還したということ。
クリスの母親は、
彼がやろうとしたことはすごいことだって、おおぜいの人が言ってくれました。彼が生きていたら、わたしもそう思ったでしょう。でも、生きてはいない。この世に呼びもどすことはもうできません。取り返しのつかないことです。ほとんどのことはやり直しがきくものだけど、こればかりはね。あなたもこういう不幸に打ち克ったことがあるかどうかは知りませんけど。クリスが亡くなったのは事実ですし、わたしはそのことで毎日毎日ひどく辛い思いを味わっています。ほんとうに耐えがたいことです。いくらかましな日もときにはありますけど、これからは一生、毎日が辛いでしょうね。
との言葉を残すが、
アーロンの母親は、
ああ! ありがとう! 本当にありがとう! 息子を返してくれてありがとう!(331頁)
と歓喜の言葉を発する。
アーロンの救出に当たったレンジャーに向かって、
アーロンに関する報告書をまとめて、報道陣にも話すことになるのでしょうね。どうか批判的な私見は加えないでくださいね。(331頁)
とお願いまでしている。
批判にさらされるどころか、一躍ヒーローになるのだが、生きて還ってきたことの意味は、殊の外大きかった。
で、映画である。
映画『127時間』はどうだったかというと、これが稀に見る傑作だったのだ。
原作本では好感を抱かなかったアーロンが好きになってしまうほどの傑作。
正直、最初はイジワルな目で見ていたのだが、
途中からは、この傑作を楽しもうと切り替えたほど。
それほどの秀作。
さすが、『スラムドッグ$ミリオネア』でアカデミー賞を受賞したダニー・ボイルだけのことはある。
映像、音楽、演出、文句なし。
原作本ではあれほど音楽を毛嫌いしていたのに、
映画で使われる音楽のリズムに乗せられ、ググッと映像空間に惹き込まれてしまった。
アーロンを演じたジェームズ・フランコの演技も見事の一言。
一部フィクションも加えられていたが、実物以上にワイルドなアーロンに魅了された。
批判的な目で見ていた私の考えを覆させる作品たりえたのは、
ダニー・ボイル監督と、
アーロンに成りきったジェームズ・フランコが、
全力を注ぎ込み、
一瞬たりとも目が離せないほどの傑作に仕上げたからであろう。
それは、まるで、
127時間を94分に濃縮させ、絞り出した極旨の一滴の味わいであった。
2010年11月5日に、全米で、わずか4館のみで封切られた作品。
口コミで瞬く間に全米を席捲し、今や全世界へと感動の輪を広げている。
見て、ヨカッタ!
見る機会を与えてくれた山友に、感謝!
単独行を主体に山歩きしている私にとって、
ヒリヒリするような痺れる作品であった。
生きていく力、エネルギーを、満タンになるまで注入されたような気がする。
明日からの私は、危ないぞ~(笑)
近寄ると火傷するぜ!(爆)