特集:映画の授業 現代映画編
-年/フランス
映画について私が知っている二、三の事柄
総合
100点
ストーリー
0点
キャスト
0点
演出
0点
ビジュアル
0点
音楽
0点
まさか、女性しか出演していない『ぺトラ・フォン・カントの苦い涙』を観て、離婚後にブレーメンにおいてアパレル事業で成功した主人公のぺトラが‘恋人’のカリンを男に取られたことや、そんなぺトラに文句一つも言わずに尽くしていた使用人のマルレーネが結局最後は彼女に愛想を尽かせて出て行ったことに、レズビアンの悲しみみたいなものを見出して思わず号泣しちゃっている人がいるとは思わないが、この映画は間違っても‘その手’の作品ではない。ぺトラの35才の誕生日にぺトラの母親や娘ガビーや友人のシドニーが集まった時の様子を見ても分かるように、この作品の主題は、言葉によるコミュニケーションが却って愛情を遠ざけてしまうということだ。だから終始無言でいたマルレーネはぺトラのそばに居られたのであり、ラストでぺトラが「あなたの話を聞かせて」とマルレーネに言った時、彼女は何も言わずに出て行ったのだ。
まさか、『タロット』を観て、主人公の女優シャルロッテが、夫の映像作家エドワルトと彼の友人の脚本家オットーと一緒にいるリビングで、彼女の姪オッティリエにしたタロット占いが次々と当たっていくストーリー展開だけで「不思議だったね」と満足してしまっているとしたら、せめて、わざわざアテネ・フランセが1000円取って上映しているくらいの作品であるのだから何か‘裏’があるのだろうという疑問くらいは持たなければ、全てが徒労に帰してしまうだろう。勿論、この作品は劇中で議論していた映画の映画化である。前半でエドワルトが映画館で観ていた映画はその前のシーンでシャルロッテとエドワルトがしていた会話とそっくりにしてあることはその暗示であり、この作品の途中から現れたオッティリエの役回りはそのまま劇中で次回作の主役であるはずのシャルロッテに対するオッティリエの役回りと符合する。ラストでオットーが心臓発作で死んだエドワルトについて「彼は彼自身のシナリオを生きた」と言っていることもその暗示である。つまりタロット占いと同じように‘カード’の解釈次第でこの作品は意味が変わるということであり、さらにはこの作品に限らず映画そのものがタロット占いのようなものではないのかということである。オズワルトの寝室に『アナタハン』(ジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督 1953年)のポスターが貼ってあったのが意味深長。
まさか、4時間15分もかけて『ルート・ワン/USA』を観た後「退屈なドキュメンタリー映画だった」という感想を聞くことになるとは想像さえしていなかった。せめて途中に入る10分の休憩の時点でこの映画がドキュメンタリーでないことくらいは気付いて欲しいものだ。一般的に、明確なテーマを持つドキュメンタリー映画と違い、この作品ははっきりとしたテーマを持たない。因ってこの作品は、友人の映画監督のロードムービーの出演を請われて10年振りに母国アメリカに戻った医師ドクが、国道1号の始点から南下しながら、ネイティブアメリカンや黒人や友人などの話を聞くに及んで、自分も医師の端くれとして少しでもアメリカを良くしたいという思いから撮影の途中で降板してしまい、フロリダのキーウエスト近辺に居を構えて恋人も見つけ、年収2万ドルでがんばろうとする矢先、契約上の手違いから借りたばかりの家を追い出されることになってしまう(勿論、主人公だけではなくアメリカの)‘挫折の物語’として観なければ、この作品はただの散漫な話の連なりだけのものになってしまうだろう。