エディット・ピアフ ~愛の賛歌~
2007年/フランス=チェコ=イギリス
何故ラストで「愛の讃歌」は歌われなかったのか?
総合 40点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
この作品を観るにあたってラストシーンでピアフが「愛の讃歌」を歌って劇的に幕を閉じることを期待していた人は私だけではないと思う。この作品を高く評価する人でもその点に不満がないことはないと思うのだがどうなのだろうか。
恐らく制作者サイドもラストを「愛の讃歌」で終わらせたかったのだと思う。では何故そのようにならなかったのか? 簡単に言えばピアフの生涯を映画化するのがあまりにも遅すぎたということだろう。
この作品はピアフが残した実際の歌声が使われているのだが(そうする以外ないのだが)、「愛の讃歌」をラストのコンサートシーンで使うには大きな問題があった。音源が古いため(1949年)最近の音響設備の整った映画館で流すには粗が目立ち過ぎるのだ。そのためラストで使用された曲はステレオで録音されていた「水にながして」だったのだ。作品途中にあったコンサートシーンでピアフの歌が流れずにBGMに代えられていた不可解な演出もこれで理解できるだろうし、時間軸を錯綜させた演出も、時間軸に沿って演出すれば「この時期にあの歌を歌わないのはおかしい」という熱心なピアフファンに指摘されるのをかわすためだということも理解できる。そのため演出自体がダイジェスト版を見せられているように深みがなく甘くなり、伝記映画としても失敗しているように感じる。
ラストの曲が「愛の讃歌」か「水にながして」では作品自体の性格が変わってしまう。愛を讃えるポジティヴな歌と「後悔なんかしていない」とポジティヴに歌うネガティヴな歌では‘後味’の違いは明らかであろう。最後の方でインタヴューを受けたピアフが「愛しなさい」を繰り返して言うシーンは「愛の讃歌」の代わりに思えてならない。
男性のメタボ基準、厳しすぎる?学会で検討(読売新聞) - goo ニュース
この日本のメタボリックシンドロームの診断基準というものは当てになるものなの
だろうか? 例えば身長150センチの人と180センチの人に同じ数値を当てはめて
判断することなど可能とは思えない。国籍によっても数値が変わるのも理解し難い。
例えば日本人とアメリカ人のハーフの人はどちらの基準を適用すればいいのか。
この診断基準の厳しい設定は明らかに“患者”を増やして、医者の収入を増やそうと
する医学界の意図が見え見えなのだ。