忠海の歴史を『芸南風土記 / 芸南新聞社(昭和三十六年)』はこうまとめている。
忠海町は平安時代の保元元年(一一五六)平忠盛が瀬戸内海の海賊を追計、その功によつて領土を賜わり、約四百五十年前小早川氏の一門浦宗勝が忠海賀義山に居城し小早川氏の海将であつた。忠海は早くより海港として発展したもので豊田郡の地形状からみて位置交通の中心であつたため、明治十二年郡役所の設置、官公衙の所在地であつた。今次大戦により一切の軍事施設は撤去されたが依然として豊田郡中心の町であつた。
『安芸の小京都たけはら / 太田雅慶(昭和62年)』には船入堀についての詳しい記述があるので参考までに引用しておく。
船入堀
寛文3年(1663)三次支藩5万石の浅野長治公により築調され蔵屋敷が設けられ堀の守護神として三次の岩上弁財天が勧請された。東堀は北側53間、南側52間、横幅26間、享保11年(1726)、寛政3年(1791)に藩営により堀浚えが行われている。文化13年、東堀入口に常夜灯が設けられ夜の入港が便利となった。西堀は塩浜明神の前が入口であった。享保5年(1720)、三次支藩廃藩後も港町として栄え御蔵所、酒造家3、万問屋1、医師4、等あり明治14年頃は問屋10軒、仲買い11軒もあった。
船入堀への土砂堆積が船の通行に支障をきたしていたことは非常に興味深い。というのは私の生まれ故郷・福山(備後10万石の城下町)の入江においても同様の問題が発生しており結局昭和10年代に埋め立てられた。忠海中町在住のお婆さんの話では戦前船入堀にはカキ船が浮かんでいたそうだが、これもまた福山との共通点である。私は忠海の町に親近感を覚えた。

忠海町は平安時代の保元元年(一一五六)平忠盛が瀬戸内海の海賊を追計、その功によつて領土を賜わり、約四百五十年前小早川氏の一門浦宗勝が忠海賀義山に居城し小早川氏の海将であつた。忠海は早くより海港として発展したもので豊田郡の地形状からみて位置交通の中心であつたため、明治十二年郡役所の設置、官公衙の所在地であつた。今次大戦により一切の軍事施設は撤去されたが依然として豊田郡中心の町であつた。
『安芸の小京都たけはら / 太田雅慶(昭和62年)』には船入堀についての詳しい記述があるので参考までに引用しておく。
船入堀
寛文3年(1663)三次支藩5万石の浅野長治公により築調され蔵屋敷が設けられ堀の守護神として三次の岩上弁財天が勧請された。東堀は北側53間、南側52間、横幅26間、享保11年(1726)、寛政3年(1791)に藩営により堀浚えが行われている。文化13年、東堀入口に常夜灯が設けられ夜の入港が便利となった。西堀は塩浜明神の前が入口であった。享保5年(1720)、三次支藩廃藩後も港町として栄え御蔵所、酒造家3、万問屋1、医師4、等あり明治14年頃は問屋10軒、仲買い11軒もあった。
船入堀への土砂堆積が船の通行に支障をきたしていたことは非常に興味深い。というのは私の生まれ故郷・福山(備後10万石の城下町)の入江においても同様の問題が発生しており結局昭和10年代に埋め立てられた。忠海中町在住のお婆さんの話では戦前船入堀にはカキ船が浮かんでいたそうだが、これもまた福山との共通点である。私は忠海の町に親近感を覚えた。
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