注連柱のすぐ後ろに天保九年(1838)の銘が入った狛犬が置かれている。これは尾道の商人油屋が寄進したもので、商売上の深いつながりがあったことが推測される。
岩上弁財天社のある船入堀(内堀)の南側が向町である。忠海中町の古老は江戸期の町名を「むこうちょう」と発音していた。『忠海案内(昭和十年十月発行)』は向町の様子を生々しく描写する。
…遊女は此等の制度から、宿駅、海駅等に繁栄せり
当町も昔向町に、浜屋、姫路屋、金屋、大要、其他軒を並べ全盛時代に其の数百五十人余人を算せりと記録せり。聞くに、現在『ありーす』なる言葉あるが、遊女より仲仕に移れるものなりと。当地の仲仕倉、浜町に在るを見ても当時の大商港を想起し得べし。
船着場近くに遊里が形成され町全体が潤った歴史は忠海も福山も全く同じである。ただし新町遊廓の認可が下りて建設されたのは明治十八年(1885)であった。
※著者注
仲仕(なかし)…港湾労働者
浜町…現・忠海中町2丁目20番・21番辺りと思われる

岩上弁財天社のある船入堀(内堀)の南側が向町である。忠海中町の古老は江戸期の町名を「むこうちょう」と発音していた。『忠海案内(昭和十年十月発行)』は向町の様子を生々しく描写する。
…遊女は此等の制度から、宿駅、海駅等に繁栄せり
当町も昔向町に、浜屋、姫路屋、金屋、大要、其他軒を並べ全盛時代に其の数百五十人余人を算せりと記録せり。聞くに、現在『ありーす』なる言葉あるが、遊女より仲仕に移れるものなりと。当地の仲仕倉、浜町に在るを見ても当時の大商港を想起し得べし。
船着場近くに遊里が形成され町全体が潤った歴史は忠海も福山も全く同じである。ただし新町遊廓の認可が下りて建設されたのは明治十八年(1885)であった。
※著者注
仲仕(なかし)…港湾労働者
浜町…現・忠海中町2丁目20番・21番辺りと思われる
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