船町(北)交差点から本通りを望む。大正生まれの人であれば「天下橋(=本橋)が架かっていた所じゃが」と思われたことだろう。入江の両岸(当時は船町と呼んだ)には荷揚げ場があり、北浜と南浜を結ぶ天下橋の下を石炭船が行き交っていたという。きたはま通り左手の歩道辺りが船町の北浜、右手の歩道からかなり奥に入った商店の並び(現・JOYふなまち)が船町の南浜にあたる。
…入川は本橋・新橋あたりで幅十四~五間 約三一・七~三四メートル、そこから河口までは約二十間 約四五・三六メートル程度の川幅であったようである。
この入川は、いわば城下町商業の生死を決するものであっただけに、土砂が埋まって浅くなったときには、川さらえをしなければならなかった。藩府の直接管理のもとで行ない、経費も藩府の会計から支払われていた 福山語伝記。
福山城下町の由緒について 備陽六郡志
船町 入川の両岸にあって船着場、船持や船宿が多かった。
『福山市史 近世編』

…入川は本橋・新橋あたりで幅十四~五間 約三一・七~三四メートル、そこから河口までは約二十間 約四五・三六メートル程度の川幅であったようである。
この入川は、いわば城下町商業の生死を決するものであっただけに、土砂が埋まって浅くなったときには、川さらえをしなければならなかった。藩府の直接管理のもとで行ない、経費も藩府の会計から支払われていた 福山語伝記。
福山城下町の由緒について 備陽六郡志
船町 入川の両岸にあって船着場、船持や船宿が多かった。
『福山市史 近世編』

