2016年3月11日、午後2時46分。東日本大震災から五度目のこの時が巡り来てしまいました。私どもの職場では総員起立して、黙祷を捧げました。
あの時から帰り来ぬ方に、災害故に健康を害して去られた方に、哀悼の意を捧げます。
苦しみを抱えて、それでも暮らしていかなくちゃと頑張ってこられた方々に、お疲れ様でしたと、申し上げたく存じます。
未曾有の出来事を風化させてはならないけれど、一人ひとりの心に刻まれた恐怖や哀しみは、少しでも軽くなって欲しいと願っています。
外にいる人が忘れないように!という言葉を聞きましたが、「外」という言葉こそが違うように思うのです。難しいことだけど、共にありたいと思っています。
災害復興という空虚な言葉を、人々の毎日の暮らし作り、挨拶が交わせる街作り、遣ることがあって必要とされている関係が持続する日常、と置き換えてみるならば、五年の時間で、どれだけのことが叶ったでしょうか。
復興でなくていいから、あの日の暮らしを返して欲しい。。。そう、願う人の声に頭を垂れて聞き入る姿が、政治にどれだけあったでしょうか。
届かぬ声に歯ぎしりしながらも、活動し続ける方々を、その地にいないけれど忘れずに応援し続けたい。たとえ、忘れないことしか出来なくても。
案じた通り、原発事故にかかわることがらの遅れが、見える五年目になってきたように思います。
基地を抱える沖縄と同じように、福島の問題とくくらせてはならないと思うのです。日本という国の在り方を、未来にどう引き継ぐのか? 自分に関係ない話ではないと思うのです。
これからも考え続けていきます。
※※※※※
天災である地震と津浪に、ひとは非力であるけれど、次の世代に引き継ぎたい教訓だけは見えてきたように、私は思います。
「防災は無理でも、減災は工夫できるはず!」
岩手県田老町の防潮堤を津浪は越えてしまいました。ですが、この防潮堤に添って波は遡上し分散し、破壊力を弱める効果があったことが、検証されています。
引き波の力を弱めることで、多くの形が沖につれさられず残ったという報告もありました。助けることは出来ずとも、家族の手で旅立たせることができた、それが救いだった、と聞きました。
あの防潮堤には「減災」の力があったのです。
災害から受ける被害を小さくするために、過去を活かし、知恵を絞ることは、できるはずです。
高さだけではなく、地形も取り入れて津浪の力を少しでも削ぐ設計にも意識をむけて欲しいと考えます。
波がたつ異常を感知するために、海が見えた方がいい。壁の向こうでは忘れてしまう、という意見もあるそうです。
いざという時に、減災に役立つ人間の観察力と判断力を維持し、育てていくことも大事と思います。
これらの技術や対策は、島国日本全体を助けてもくれるはずです。自分達の未来は、無関心からは生まれないのです。
減災……これを課題にするなら、今ですら、間に合わないかもしれない課題が見えてきます。
「原発の廃炉にむけての長い道のりの、現場にたつエキスパートは、まだ居るのだろうか?」
エキスパートとは経験と知恵をもち、現場にいて、自分で判断し行動できる人をさします。
寄せ集めの兵隊を指揮し、危機を抜けて戻ってくる軍曹みたいな役割を想像してください。
僥倖で助かった、髪の毛一筋だった、という際には、こういう存在があると、修羅場を見てきた(笑)ので知っています。
廃炉にむけて活動する未体験の先陣にたつ人のなかに、現場のエキスパートは、まだいるのでしょうか?
放射線量限度を考えた時に、同じ人間が継続して、現場に居られるわけがありません。
思い出してください。
国際放射線防護委員会(ICRP)の1990年、線量限度勧告では、放射線従事業者の場合は、五年間で100mSv、かつ一年間の最大は50mSvです。(一般の方の場合は、一年間で1mSvです。)
2011年の原発事故に際して、政府は公務員に対して、この未曾有の危機を乗りきるために、一時的に安全基準を100mSvから250mSvに引き上げました。
そうしなければ乗りきれない戦場がまっているのかと、あの日の戦慄を忘れません。
五年がたったのです。もっと前から現場の班長を勤めるような人は、減っていっているはずです。お金で作業員を買い集めることはできても、それでは足りない。現場の安全を守ることは勿論、異常を感知し判断できる人を育て、経験者の知恵を引き継いで欲しいと思うのです。
あれから五年。あの日を知る、何かが起きたことを解るエキスパートは、まだ在野にいるのではないでしょうか。その人たちに協力してもらって、その経験を次に引き継いでもらう。教育や研修を続けなくては、あるいは、始めなくてはならないと思います。
これから30年近くかかる悲しい事業が、二次災害を招いてはならない。想定できなかったと繰り返す、禍根を残してはならないと思います。
国家百年の計は、原子の火を灯すだけではなく、その火を安全に消すまで、シナリオを書かねばならないと思います。
※※※※※
3月11日は記憶に留め、考える日であるけれど、誰かの誕生日、お祝いの日でもあるでしょう(ニッコリ)。
それぞれの気持ちを、そっと尊重し合いたい…。ヒトは生きていかねばならないのです。
忘れない。自分ならどうするって考えることを止めません。
あの日を覚えている人たちに、ひとつでも笑うことが増えますように。
過労死予備群 謹書、20160311
あの時から帰り来ぬ方に、災害故に健康を害して去られた方に、哀悼の意を捧げます。
苦しみを抱えて、それでも暮らしていかなくちゃと頑張ってこられた方々に、お疲れ様でしたと、申し上げたく存じます。
未曾有の出来事を風化させてはならないけれど、一人ひとりの心に刻まれた恐怖や哀しみは、少しでも軽くなって欲しいと願っています。
外にいる人が忘れないように!という言葉を聞きましたが、「外」という言葉こそが違うように思うのです。難しいことだけど、共にありたいと思っています。
災害復興という空虚な言葉を、人々の毎日の暮らし作り、挨拶が交わせる街作り、遣ることがあって必要とされている関係が持続する日常、と置き換えてみるならば、五年の時間で、どれだけのことが叶ったでしょうか。
復興でなくていいから、あの日の暮らしを返して欲しい。。。そう、願う人の声に頭を垂れて聞き入る姿が、政治にどれだけあったでしょうか。
届かぬ声に歯ぎしりしながらも、活動し続ける方々を、その地にいないけれど忘れずに応援し続けたい。たとえ、忘れないことしか出来なくても。
案じた通り、原発事故にかかわることがらの遅れが、見える五年目になってきたように思います。
基地を抱える沖縄と同じように、福島の問題とくくらせてはならないと思うのです。日本という国の在り方を、未来にどう引き継ぐのか? 自分に関係ない話ではないと思うのです。
これからも考え続けていきます。
※※※※※
天災である地震と津浪に、ひとは非力であるけれど、次の世代に引き継ぎたい教訓だけは見えてきたように、私は思います。
「防災は無理でも、減災は工夫できるはず!」
岩手県田老町の防潮堤を津浪は越えてしまいました。ですが、この防潮堤に添って波は遡上し分散し、破壊力を弱める効果があったことが、検証されています。
引き波の力を弱めることで、多くの形が沖につれさられず残ったという報告もありました。助けることは出来ずとも、家族の手で旅立たせることができた、それが救いだった、と聞きました。
あの防潮堤には「減災」の力があったのです。
災害から受ける被害を小さくするために、過去を活かし、知恵を絞ることは、できるはずです。
高さだけではなく、地形も取り入れて津浪の力を少しでも削ぐ設計にも意識をむけて欲しいと考えます。
波がたつ異常を感知するために、海が見えた方がいい。壁の向こうでは忘れてしまう、という意見もあるそうです。
いざという時に、減災に役立つ人間の観察力と判断力を維持し、育てていくことも大事と思います。
これらの技術や対策は、島国日本全体を助けてもくれるはずです。自分達の未来は、無関心からは生まれないのです。
減災……これを課題にするなら、今ですら、間に合わないかもしれない課題が見えてきます。
「原発の廃炉にむけての長い道のりの、現場にたつエキスパートは、まだ居るのだろうか?」
エキスパートとは経験と知恵をもち、現場にいて、自分で判断し行動できる人をさします。
寄せ集めの兵隊を指揮し、危機を抜けて戻ってくる軍曹みたいな役割を想像してください。
僥倖で助かった、髪の毛一筋だった、という際には、こういう存在があると、修羅場を見てきた(笑)ので知っています。
廃炉にむけて活動する未体験の先陣にたつ人のなかに、現場のエキスパートは、まだいるのでしょうか?
放射線量限度を考えた時に、同じ人間が継続して、現場に居られるわけがありません。
思い出してください。
国際放射線防護委員会(ICRP)の1990年、線量限度勧告では、放射線従事業者の場合は、五年間で100mSv、かつ一年間の最大は50mSvです。(一般の方の場合は、一年間で1mSvです。)
2011年の原発事故に際して、政府は公務員に対して、この未曾有の危機を乗りきるために、一時的に安全基準を100mSvから250mSvに引き上げました。
そうしなければ乗りきれない戦場がまっているのかと、あの日の戦慄を忘れません。
五年がたったのです。もっと前から現場の班長を勤めるような人は、減っていっているはずです。お金で作業員を買い集めることはできても、それでは足りない。現場の安全を守ることは勿論、異常を感知し判断できる人を育て、経験者の知恵を引き継いで欲しいと思うのです。
あれから五年。あの日を知る、何かが起きたことを解るエキスパートは、まだ在野にいるのではないでしょうか。その人たちに協力してもらって、その経験を次に引き継いでもらう。教育や研修を続けなくては、あるいは、始めなくてはならないと思います。
これから30年近くかかる悲しい事業が、二次災害を招いてはならない。想定できなかったと繰り返す、禍根を残してはならないと思います。
国家百年の計は、原子の火を灯すだけではなく、その火を安全に消すまで、シナリオを書かねばならないと思います。
※※※※※
3月11日は記憶に留め、考える日であるけれど、誰かの誕生日、お祝いの日でもあるでしょう(ニッコリ)。
それぞれの気持ちを、そっと尊重し合いたい…。ヒトは生きていかねばならないのです。
忘れない。自分ならどうするって考えることを止めません。
あの日を覚えている人たちに、ひとつでも笑うことが増えますように。
過労死予備群 謹書、20160311