


仮の手当てなのだが取水堰として設えた梁材に浚渫土をスコップで被せ漏水止めにした。これで漏水が止まりトンボ池に水が戻った。池の底が乾燥する前に気が付いて良かったと思うしかないのだが、粘土で固めても急な出水があればまた流出するのは目に見えている。「水よ水よ きれいな水よ・・・」なんて合唱曲があったような気がするが、何分少年期の頃の記憶なので正真正銘、修正申告しないでも追徴課税は発生しない。先日、だけでなくおおむね毎回「小人は必ず飾る」ものだと今更ながら実感したのだが、よくもイケシャアシャアと答えるものだと放映を眺めて感心した。
わが身を振り返れば「池ジャアジャア」であるし面の皮と同じに漏水の備えは薄い。心掛けるのは「送水は必ず止まる」で、まして水域の命運はたかだか毎分20リットル程度の送水に託されている。吐水口での水は冷涼で夏場には遊びに来る母子もいるけれど、その下流域に存在する環境こそが水を送り続ける手当の動機に他ならない。いわば小生の税務署も感知できない人知れずの財産みたいなものだろう。
隣り沢の中では点ほどの取水升につながれた50φ送水管の送水に委ねられた数知れない生命体の存在こそが隠れた趣味でもある。水遊び、ままごと等々、表現はあるけれど本質は爺事なので一代限りの蜃気楼に近い。泣く人はおらずとも殉死せざるを得ない生命体は数えきれないほどいる我が高齢期なのだった。老骨に鞭打つしかない自転車操業の水商売である。