澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

「司馬遼太郎はモンゴル通か?」(岡田英弘)

2017年02月03日 10時18分06秒 | 

 岡田英弘著作集第七巻「歴史家のまなざし」(藤原書店 2016年)を読んでいたら、「司馬遼太郎はモンゴル通か?」というエッセイが目に留まった。初出は「大航海」(No.25 1998年11月 新書館)と記されている。



 よく知られるように、司馬遼太郎は大阪外国語学校蒙古語科卒業。「街道をゆく5 モンゴル紀行」(朝日新聞社 1974年)の著作でも知られる。

 東洋史・モンゴル史の碩学・岡田英弘が、一般的には、モンゴル通と知られる司馬遼太郎をどう見ているのか、実に興味深く読んだ。

 岡田は司馬の「モンゴル紀行」を読んで「あきれた」「この不勉強ぶりは問題だ」と感想を記す。

 「”モンゴル紀行”でまず引っかかるのは、モンゴルはシナの支配下から独立した、と思い込んでいるらしいことである。」
 「清朝は満洲人が支配する帝国であって、シナはその植民地の一つにすぎず、漢人はシナの主人ではなかった。ましてモンゴルがシナに支配されたことは、歴史上、一度もなかった。」
 「…このことをしっかり認識しておかないと、”モンゴルは、もともと中国の領土の一部だった”という、現代中国人の政治的宣伝の嘘にだまされる恐れがあるから、なおさらだ。」(p.332-3)

 また、司馬遼太郎が「中国の歴史は歴代の王朝の武力で漢民族の居住区が拡大したというより、現実的に見れば百姓の鍬ひとつで耕地がひろがっていき、そのひろがったものを王朝が追認していくというかたちで広がったとみていい。その鍬が北にひろがって草原の土をひっ搔きはじめたのは、大規模なかたちとしては明朝から清朝いっぱいという時期であるらしい」と書くのに対し、岡田は「これはまた、あんまりなはったりだ。14~17世紀の明朝の時代には、モンゴルは元朝の子孫のもとに独立していて、シナの敵国だったし、清朝の時代には、漢人がモンゴルの地に立ち入ることは、厳重に禁止されていた。禁止が緩んで、漢人農民が今の内モンゴル自治区に入植を始めたのは、二十世紀に入ってからのことだ」と記す。
 
 私は本ブログの「中国・内モンゴルの砂漠緑化と遠山正瑛の”善意”」という拙文で、内モンゴルの緑化事業が、中共(=中国共産党)の少数民族支配に協力する結果になると書いたことがある。楊海英氏の著作を見ても、これは今や明らかな事実だろう。岡田英弘のすごさは、「今や明らかな事実」をずっと以前から、ただ一人指摘、警鐘を鳴らしてきた点にある。

 実はこのエッセイは「私は歴史家で、モンゴル史は私の専攻の一つだけれども、世間で文名の高い司馬遼太郎の作品は、読んだことがなかった。本当の歴史を書くのに忙しくて、フィクションにまで手が回らなかったのが、私の無関心の理由である」という書き出しで始まっている。「本当の歴史を書く」とは、いかにも岡田英弘らしいと思った。
 

《追記》 
「悼む 世界の史学界の財宝」(一橋大学名誉教授・田中克彦)

              2017年7月17日 毎日新聞

  

 



 


「中国の論理 歴史から解き明かす」(岡本隆司)を読む

2016年09月03日 23時37分15秒 | 

 最新刊の「中国の論理 歴史から解き明かす」(岡本隆司著 中公新書)を読む。
  
 筆者の「あとがき」によれば、「世はただいま”嫌中”一色。中国の悪口を書かないと売れない」「中国本はそれなりに売れても、中国学を尊重する人びとは減少の一途」だという。「筆者だって、中国・中国人が好きか、嫌いか、と聞かれれば、嫌いだ、と答えるだろう。しかしおもしろいか、つまらないかと聞かれれば、答えは断然、前者である。」と。

 中国に関する入門書は、これまで数え切れないほど書かれてきた。「日中友好」が全盛の頃には、主に「新中国」にスポットを当て、中国共産党の歴史観を肯定的に描く本が多数だったが、今や「伝統中国」の「構造」を分析する本書のような本が主流になった。
 その本書の内容は、次のとおり。

1 史学
 ① 儒教とは何か
 ② 史学の起源
 ③ 史学の枠組み
 ④ 史書のスタイル

2 社会と政治
 ① エリートの枠組
 ② 貴族制
 ③ 科挙体制

3 世界観と世界秩序
 ① 「天下」という世界
 ② 「東アジア世界」の形成
 ③ 「華夷一家」の名実

4 近代の到来
 ① 「西洋の衝撃」と中国の反応
 ② 変革の胎動
 ③ 梁啓超

5 「革命」の世紀
 ① あとをつぐもの
 ② 毛沢東
 ③ 「改革開放」の歴史的位置

 注目すべきは、梁啓超を採りあげて、日本が中国の近代化に与えた多大な影響を明記していること。今どきの類書では普通なのかも知れないが、往年の入門書はこの点については曖昧に書かれていた。つまり、左翼系の学者にとっては、「新中国」こそが日本より進んだ「心の祖国」であって、その近代化が日本の影響下にあったとは言いたくなかったのだろう。例外的に、岡田英弘氏はつとにこのことを指摘していたが、左翼主流の歴史学界では、異端視されてきた。

 「一つの中国」という強迫観念の由来、華夷秩序の構造など、中国という国家の論理を理解するための基本情報はすべて盛り込まれている。
 


「東アジア史の実像」(岡田英弘著作集6)を読む

2016年08月28日 17時04分26秒 | 

 「岡田英弘著作集Ⅵ 東アジア史の実像」を改めて手に取ってみた。岡田英弘氏は東洋史(モンゴル史)の碩学で、「岡田史観」というべき歴史観には数多くのファンがいる。もちろん、私もそのひとり。

 本書は、1968年から86年ころまでのエッセイ、史論を集めたもの。(詳細は、下記のとおり。)

 「欧米人も日本人も混同しているが、清朝は満洲人の国家である。しかも、清朝時代の二百六十数年間を通じて、清朝は一種の連邦であった。満洲、モンゴル、シナ、チベット、新彊が、連邦を構成する単位である。そして満洲人、漢人、モンゴル人、チベット人、それに新彊のいわゆるウイグル人に、それぞれ適用する別個の法典があり、それに基づき別々に統治されていた。
 しかも、漢人が帝国全体の統治に関与したという事実はない。帝国を支配していたのは満洲人である。したがって、日清戦争で日本が勝った相手は清帝国であり、中国ではなかった。日本に割譲される前の台湾は、満洲人の領土であった。つまり日清戦争は、日中戦争ではない。そのことを現在の中国人は故意にぼかしている。」(p.358 「高揚する”一つの中国、一つの台湾論”」)

「経済的な面でも、日本の植民地統治は、世界の帝国主義の中でも例のない統治であった。というのも、植民地への技術移転をたいへん積極的に行ったからである。資本を投下し現地で産業を興そうと、非常に努力した。砂糖も、じつはキューバ産を買えば、はるかに安く輸入できたにもかかわらず、台湾経済を維持するために、二割増しで台湾の砂糖を買っていた、ということも指摘された。これらはすべて、台湾の学者が指摘したことである。私としては、それを聴いて、日本統治がいかに良かったかがわかり、たいへん気をよくした。
 みなはそこまで口に出して言う勇気はないが、本音は、台湾人のアイデンティティと台湾文化は日本時代に作られたのであり、それ以前の清朝時代ではなかったと言いたいのである。」        (p.372 「李登輝の深謀、江沢民の焦慮」)

「台湾人の対日感情が良いのには、二つ理由がある。台湾では、1947年2月28日に起こった二・二八事件で、国民党の中国人が台湾人を大虐殺した。それ以来、こんなヤツらに統治されるのは嫌だと、中国人に対して気持ちが冷めてしまった。そして、少なくとも日本人は、裁判にかけないで銃殺するようなことはしなかったということで、日本の株が急に上がった。
 もう一つの理由は、日本領有以前の台湾が国家ではなく、蕃地だったからである。そこを日本が統治して開発したのであり、台湾の人たちの意識はまったく日本人になっていたのに、突然、1945年に中国人に切り換えさせられた。そこのところで、ずいぶん傷跡がある。
 韓国人が、日本を目の敵にして攻撃するのは、重大な理由がある。それは、韓国文化というものの実体がないからである。今の韓国文化と言われるものは、日本の文化の模倣に過ぎない。だから、今でも韓国では日本語の歌をそのまま放送することや、日本の映画を放映することに、断乎として反対している。日本からの文化の流入を自由化したとたんに、韓国文化が跡形もなく崩れ去ってしまう、という危機感にかられているからである。そのことを韓国人に言うと、烈火のごとく怒るが、本当のことである。そういう点を、われわれは理解しなければならない。韓国人のアイデンティティというのは、日本人を憎むことしかないのである。」(p.527-8 講演「台湾人は中国人か」)

 上記の引用は、アットランダムに過ぎず、他にも従来の歴史認識が覆されるような、鋭い指摘が目白押し。ネトウヨの中には、この岡田氏の著作を参考にして、引用する向きも多いようだ。
 だが、重要な点は、著者のエッセイは単なる思い付きなどではなく、世界的な東洋史学者としての実証的な文献研究から抽出された成果に基づく発言だということ。つまり、凡百の評論家や歴史学者が特定の政治的立場・イデオロギーで発言するのとは全く異なる。
   
  「岡田英弘著作集Ⅵ 東アジア史の実像」

台湾、満洲、チベット、韓半島……シナ文明と密接に関わる周辺地域を、どう見るか。
シナ文明の影響を歴史的にどのように受け、それぞれの緊張関係のなかで今日の複雑な関係を形成しているのか、鮮やかに一望してみせる。
[月報] 鄭欽仁/黄文雄/樋口康一/クリストファー・アトウッド

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 はじめに

第Ⅰ部 清朝とは何か
 満洲族はいかに中国をつくったか
 清朝史研究はなぜ重要か
  〈満洲族、シナ制覇の第一歩〉サルフの戦いを検証する 後金国ハン・ヌルハチと明国
  〈帝国を築き上げた三名帝〉康熙帝・雍正帝・乾隆帝とはどんな人物だったのか
 康熙帝・朱筆の陣中便り
 清朝の多様性を理解するためのキーワード

第Ⅱ部 台湾はどんな歴史をたどってきたか 紀元前から1970年代まで
 台湾通史 台湾人はこうして誕生した
 「ニクソン訪中声明」直後の台湾を訪れる
 田中訪中を前に蔣経国が言うべきだったこと
 日台空路はこうして切れた 大平外相がもたらした、北京も望まなかった断絶
 鄧小平はついに「二つの中国」を認めた
 国民党と台湾人と『美麗島』事件

第Ⅲ部 台湾の命運を握るもの 1980~90年代の情勢分析
 李登輝の登場と「台湾人の台湾」への道
 高揚する「一つの中国、一つの台湾」論
 李登輝の深謀、江沢民の焦燥
 総統選挙直前になぜ中国は軍事威嚇を強行したのか 総統直接選挙と台湾海峡危機
 台湾をめぐるコラム三題

第Ⅳ部 近隣諸国の歴史と社会
 近隣諸国は安保継続を望んでいる
 韓国史をどう見るか 東北アジア史の視点から
 高句麗の壁画発見余話
 チベットの運命 ダライ・ラマ十四世のノーベル平和賞受賞に寄せて
 パンチェン・ラマの悲劇
 イリのシベ族、広禄先生のこと 中華民国時代の新疆の風雲
 東南アジアが意識する文化大国日本
 ベトナム五百年の執念 歴史に見るカンボジア征服の経緯
 東南アジアの心と言葉
 中曽根ASEAN歴訪と日中関係

第Ⅴ部 発言集


 清朝史関連年表
 台湾史関連年表
 おわりに 初出一覧 図表一覧 人名索引 事項索引

出版社からのコメント

□シナの影響下で盛衰してきた地域□
 本書は、満洲、台湾、チベット、韓国、東南アジアなど、シナの周辺で、シナ文明の影響を受けながら盛衰してきた諸国家および諸民族を扱う。
 第Ⅰ部「清朝とは何か」は、東洋史学者としての私の基礎にある満洲研究の総覧になっている。清朝を建てた満洲人がどのような人たちで、清朝がいかにいわゆる中華帝国ではなかったかが明らかになる。
 第Ⅱ部と第Ⅲ部は、台湾関係の論考を集めた章である。私の中国経験は大陸ではなくもっぱら台湾であった。一九六二年に満洲語文献の調査のために初めて台湾を訪問してから、一時はほとんど毎年のように台北を訪れて故宮博物院で研究調査をしていた。
 第Ⅳ部は、韓国、チベット、新疆、東南アジアなどについて、四十年前から二十五年前に掲載された論考であるが、内容は今読んでも少しも古くなっていない。長い歴史のなかの半世紀程度は、本質的なことには関係がないのである。


「日本統治時代の台湾」(陳柔縉 著)を読む

2016年06月27日 23時30分12秒 | 

 「日本統治時代の台湾~写真とエピソードで綴る 1895-1945」(陳柔縉 著 PHP研究所 2014年)を読む。本書の原題は「人人身上都是一個時代」、2009年に台湾で刊行された。

 

 本書の原題は「人人身上都是一個時代」。日本統治時代の50年間、台湾には人々の普通の生活があったことを教えてくれる好著だ。1964年生まれの著者は、「日本語世代」の台湾人古老から聞き取りを進めるとともに、日本統治時代の新聞や雑誌を調べて、数々のエピソードを紹介する。
 その手法は、イデオロギー的な見方、すなわち植民地統治を断罪するのではなく、あくまで普通の人々の暮らしや意識を採り上げる。
 例えば、ヤマハピアノは台湾統治の初期から台湾で販売され、1920年代には多くの学生がピアノを弾いていた。また、日本統治時代の台湾においても、大陸から多くの出稼ぎ労働者が来ていて、双十節には中華民国国旗が掲揚されたという。他にも、数々のエピソードが盛り込まれている。そのどれもが、日本統治時代は、台湾の人々にとって、特別ではない普通の時代だったことを示している。はっきり言うならば、日本が去った後の蒋介石時代よりずっといい時代だったのである。台湾社会の近代化は、日本統治時代に進められた。交通、医療、産業、教育、行政制度など、日本統治時代に成し遂げられた社会インフラは、中国大陸よりはるかに進んでいた。これは朝鮮半島についても言えることなのに、「植民地支配」断罪が声高に叫ばれる中で、日本人自身が近代化遂行者としての誇りを忘れてしまったのだ。
 現在の台湾が「親日」と言われる理由もよくわかる好著だ。

 著者のインタビュー記事を以下に転載させていただく。

 

 日本と台湾が最も密接な関わりを持った日本統治時代。当時の台湾の人々からすれば異民族による統治は決して歓迎すべきことではなかっただろう。だが、どのような時代であっても人々は着実に自らの生活を営んでいた。そこには人間臭くも豊かなエピソードがあまた埋もれている。陳柔縉〔ちんじゅうしん〕『日本統治時代の台湾──写真とエピソードで綴る1895~1945』(天野健太郎訳、PHP研究所)はそうした一つ一つを丁寧に掘り起こしてくれる。 「歴史名探偵」とも言うべき旺盛な好奇心としなやかな行動力を兼ね備えた著者の陳柔縉さん。台湾人の立場から日本統治時代をどのように捉えているのか、お話をうかがった。

(1)なぜ日本統治時代に興味を持ったのか?

 

もっと台湾(以下、も):日本統治時代に関心を持つようになったきっかけは何ですか?

陳柔縉(以下、陳)私は以前、政治記者をしていました。特に政商関係をテーマとしていたのですが、政財界のキーパーソンたちの家族関係を調べ、インタビューしていると、必ず日本統治時代の話題が出てくるんです。どうしても避けられないテーマなんですね。

戦争中の日本についてはマイナスのイメージが強かったんです。ところが、インタビューをしていくと、日本統治時代は良かった、と語る人が多いんですよ。李登輝・元総統も「自分はかつて日本人だった」と語っていましたね。私自身の祖父にも「日本人と中国人、選べるとしたらどっちが良い?」とたずねてみたら、「もちろん、日本人だよ!」と返ってきました。ある高齢の大学教授はこんなたとえ話をしていましたよ。「日本統治時代の台湾はお嬢様。ところが、中国人がやって来て、そのお嬢様が無理やりヤクザと結婚させられてしまった感じ」(笑) 聞けば聞くほど、私自身が学校教育で習った歴史とは全然違う。祖父の世代は一体どんな体験をしたんだろう? どうして歴史の見方がこんなに分裂してしまっているんだろう? 真相を知りたいと思いました。

台湾が民主化される以前の歴史教育では、中国史を台湾へ接ぎ木するように持ってきただけで、1945年以前の台湾についてはほとんど無視されていました。日本統治時代についてのキーワードは皇民化、植民地統治、経済的圧迫…こういったステレオタイプだけで、その他のことは一切触れられません。この空白の時代はいったいどんな状況だったんだろう? 自分の住んでいる土地に根差した視点が欲しかったんです。

も:陳さんのご著書を拝読いたしますと、日常的に見慣れたものの由来とか、過去にあった意外な出来事とか、そういったエピソードを一つ一つ紹介していく語り口がとても面白いです。言い換えると、事実の積み重ねを通して、「上から目線」ではない見方で歴史を描こうとしていると理解してもいいでしょうか?

陳:そうですね。この本の原題『人人身上都是一個時代(一人一人に刻まれた時代)』の通り、一人一人が自分の歴史を持っていますし、また歴史を見るにしても一人一人が自分の歴史観を持つのは当然のことです。しかし、以前の台湾の学校教育では歴史の見方を押し付けられてきました。そうしたことへの反発から、何事も疑いをもって見るようになりましたね。私自身が学生の頃、法律を勉強したことも関係しています。自分自身で証拠を集めて、真相は何であったのかを調べる。総合的な判断によって自分自身の歴史の見方を組み立てていくことが大切だと思います。

も:日本統治時代について調べる際にはどのような資料が役立ちましたか?

陳:当時を体験した方々からうかがったお話が貴重な資料となります。そういったお話を記録しておくのも大切な仕事です。

も:当時を知る方々もすでに相当なご高齢ですが、焦りはありませんか?

陳:戦後も60年以上たってしまうと、ご存命の方々が覚えていることも日本統治時代後半の時期に偏ってしまいますね。台湾で生活面の発展が著しかった1920年代について語れる方はもうほとんどいません。焦ったところで、諦めるしかありません。自分でこの仕事をしながら、そうした限界は感じています。もっと前の時代を調べるには史料に頼るしかありません。例えば、『台湾日日新報』1 などは時代的に網羅されていますし、生活面の情報もたくさんあって役立ちます。

『日本統治時代の台湾』著者・陳柔縉さんに聞く #2

投稿日 : 2014年9月19日 | カテゴリー : Interview

 

 

(2)ディテールから当時の生活実感に迫る

 

も:『日本統治時代の台湾』の内容についてお話をうかがいます。タバコ工場の女子工員たちの意識調査が紹介されていますね。アンケート結果を見ているとなかなか面白いのですが、「つらいこと」として「中国語の勉強」を挙げている人がいます。これはどういうことなのでしょうか?

陳:ここでいう中国語とは、古典の中国語、日本で言う漢文のことです。このアンケートは戦争が始まる前に実施されたものですが、当時はまだ日本語が全面的に強制されていたわけではありません。例えば、『台湾日日新報』にも当時は漢文版があって、漢文が日本語と併用されていました。会社内のサークル活動で漢文を勉強するものもあったようです。普段は台湾語をしゃべり、日本語を勉強し、さらに漢文の勉強もしないといけない。サークル活動ですから任意なんでしょうけど、女の子たちの感覚からすれば、「やっぱり苦手だな、古臭くて役に立ちそうもないし、面倒くさいし…」。

も:そこは日本人の若者と同じ感覚だったかもしれません(笑)。若者の感覚という点では第2章「モダニズム事件簿」で色恋沙汰をめぐる騒動が取り上げられていますね。日本でも20世紀初頭は、古い道徳観から開放的な考え方への移行期で、こうした背景は台湾とも共通すると思います。ところで、「男女関係の乱れ」について、当時の日本では西洋化の悪影響と考える人がいましたが、台湾では日本の悪影響とみなされていたのが興味深いです。

陳:台湾での西洋化のプロセスは日本からもたらされたものですから、当時の台湾人が日本の悪影響と考えたのは当然でしょうね。日本で明治維新が起こったのは1868年、台湾を領有したのは1895年、だいたい30年のズレがあります。台湾の西洋化もやはり30年ズレると考えていいでしょう。

戦後の私たちの世代では、恋愛問題で自殺するなんて事件はあまりありませんでした。ですから、この当時、どうしてこんなに心中事件があったのか不思議な感じもします。古い道徳観の時代には恋のために死ぬなんて発想が最初からあり得ない。現代は誰を好きになろうが全く自由で、反対されることなんてないし、反対されたとしても勝手にすればいい。やはり、過渡期の現象なんでしょうね。

も:台湾で暮らしていますと、旧暦(太陰暦。台湾では農暦という)が今でも日常生活の中に根強く残っているのを実感します。対して日本は明治時代以降、太陽暦で完全に一本化してしまいました。例えば、お正月といえば、日本では1月1日ですが、台湾では春節です。日本統治時代にも旧暦はしぶとく生き残ったんですね。

陳:日本統治時代は約50年間にわたりますが、その影響が生活の隅々にまで浸透してしまうほど長かったわけではありません。例えば、家事を切り盛りしている普通のお母さんたちは学校へ行く必要もなく、昔ながらの生活習慣をそのまま続けていました。その子供たちが学校へ通ったり仕事へ行ったりしても、家へ帰れば昔ながらの生活習慣が待っているわけです。日本のお役人もそこまでは干渉できません。政府の権力が家庭の中まで及ばない時期が意外と長かったんですね。日本人社会の側でも旧暦など台湾の伝統的な慣習をむしろ面白がって受け止める雰囲気があって、新聞記事でもよく取り上げられていました。

も:「味の素」が当時の台湾でも大流行だったそうですが、人気があるだけニセモノにも悩まされたというあたり、商売人のずる賢さを感じさせます。

陳:中身を入れ替えた悪質なニセモノもありましたし、パッケージ・デザインやネーミングを似せたり、色々なケースがありました。戦後の台湾でも、「味王」「味丹」「味全」といったメーカーがありますが、こうした社名はやはり「味の素」を意識していると思います。日本ブランドのイメージをパクって売り込みに利用しようという発想もありました。例えば、蚊取スプレーを作っている「必安住」という台湾企業がありますが、これはかつて日本で有名だった「安住の蚊取線香」(安住伊三郎[1867-1949]が創業、空襲で工場が焼失して廃業)から名前を取っています。

も:「味の素」が台湾での市場調査をもとに大陸へ進出したというのは初めて知りました。

陳:日本人から見れば、台湾は漢人が住む地域ということになりますからね。戦後になっても、日本企業が海外展開を図るとき、まず一番近い隣国である台湾への進出から始めるというケースは多かったですよ。この場合は日本企業が台湾を選んだというよりも、台湾人の企業家が誘致した可能性もあります。日本統治時代に育った人は日本語ができますから、言語の壁がないのでやりやすかったのだと思います。

も:本書にも登場する台南のハヤシ百貨店が今年の6月、再オープンしました。台湾各地で日本統治時代の建物を修復・復原して観光名所としているのをよく見かけますが、どんな背景があるとお考えになりますか?

陳:両蒋(蒋介石と蒋経国)時代の国民党政権にとって台湾は大陸へ戻るまで一時的に滞在する場所に過ぎませんでした。ですから、わざわざ新しいものを建設しようという発想がなく、日本統治時代の建物で使えるものは使おうと考えたわけです。壊すのもお金がかかりますしね。彼らは保存しようと考えたわけではなく、単に放っておいただけですよ。

1988年に李登輝が総統に就任して以降、台湾では「本土化」の気運が高まります。台湾人自身の歴史を見直そうという発想から、古いものを保存しなければいけないと考えるようになりました。現存する古い建物というと、ほとんどが日本統治時代のもので、それ以前のものは寺廟くらいです。今の台湾人にとっては、ずっとそこにあって見慣れたもの。日本統治時代が良いとか悪いとか、特にそういった意識はありませんね。

も:当時の建物が保存されているのを見ると、日本人としては何となく嬉しくなりますが、現地の台湾人とは受け止め方にズレもありそうです。

陳:日本人が残した建物は頑丈だし、きれいだし、レベルが非常に高いです。私が卒業した高校の校舎も日本統治時代のものでしたが、てっきり国民政府が作ってくれたものだとばかり思いこんでいました。そういうことは学校で教えてくれませんでしたから。戦後、国民政府が建てた建物はあんまり良くなくて、こっちの方が先に壊されたりしました(笑)。

日本統治時代の台湾』著者・陳柔縉さんに聞く #3

投稿日 : 2014年9月20日 | カテゴリー : Interview

 

 

(3)台湾人が日本に残した足跡

 

も:台湾が日本の植民地だった時代、多くの台湾人が日本へやって来ました。彼らが日本に残した足跡についてうかがいたいと思います。日清戦争の結果、日本が台湾を領有したのは1895年のことです。翌年の1896年、李春生〔りしゅんせい〕1が東京へ来ました。彼が見た東京の印象はどんな感じだったのでしょうか?

陳:彼は日本での見聞をもとにした旅行記を『台湾新報』(後の『台湾日日新報』)に掲載しています。上野の動物園や博物館、それから国会、見るものすべてが新鮮だったようです。当時の台湾は農村社会で、これといったものは何もありませんでしたから、カルチャーショックは相当に大きかったはずです。

も:明治日本は西洋文明との落差を痛感して急速な西洋化を進めていましたが、李春生も東京で西洋的な文物を目の当たりにして、同じような切迫感を抱いたわけですね。

陳:西洋化を目指していたのは日本だけではありません。清朝を倒した中国の革命家たちも東京へ留学して近代的な知識を学ぼうとしていたでしょう。大きな時代の流れの中で捉える必要があります。

も:東京駅の前で、林献堂〔りんけんどう〕2 をはじめ台湾議会設置請願運動の人々が記念撮影した写真がありますね。この運動にはどのような意義があったのでしょうか?

陳:当時、台湾総督府は独裁的な権力を握っていましたから、台湾人には民主的な制度が欲しいという気持ちがありました。清代にはそんな発想すらありません。日本統治時代に入ってから民主主義への要求も芽生え始めたと言えます。日本の大正デモクラシーが台湾へ波及したという側面もあるかもしれませんが、それだけではありません。やはり台湾総督府は言うことを聞いてくれない。ですから、もっと上の人たち、つまり東京という政治的中枢へ直接訴えかけないといけいない。台湾人の民族性は穏やかですから、テロとか過激な手段は好みません。あくまでも合法的に運動を展開しようとしました。

台湾議会設置請願運動は実質的には東京の留学生が担っていました。林献堂のような有名人はその上に乗っかっている感じです。

も:東京にいた留学生はどんな人たちでしたか?

陳:多くの場合、やはり裕福な家庭の子弟ですね。東京で苦学した楊逵〔ようき〕(1906-1985、『新聞配達夫』で日本の文壇に登場したプロレタリア作家)のような人はむしろ例外的です。

台湾人女性の留学生もいました。例えば、女医ですね。台湾総督府医学校は女性の入学を許可していませんでしたので、台湾で最初の女医さんは東京女子医学専門学校(現在の東京女子医科大学)の出身です。ここを出た眼科の女医さんに会ったことがあります。怒ったところを誰も見たことがないほど本当に優しいおばあちゃんです。日本の洗練された教育を受けたんだなと感じました。私も年取ったらこうなりたい。もう理想のおばあちゃんです!

も:本書には林献堂が林熊徴〔りんゆうちょう〕 (1889-1946、台湾五大名家の一つ・板橋林家の当主) に招かれて、東京の旅館「松泉閣」で裸踊りを見たという話が出てきます。

陳:裸踊りとはいっても、女性のストリップとか、そういうのではありません。男性がお腹に顔を描いて踊るという…。

も:ああ、日本の酒宴で盛り上がると、そうやって場を盛り上げる人がいましたね。しかし、林献堂といえば台湾民族運動のリーダーとして台湾総督府から睨まれる存在、林熊徴といえば逆に台湾総督府と利権的なつながりの深い「御用紳士」、お互いに敵対し合っているイメージがあります。そういう二人が一緒にお酒を飲んでいたというのが面白いです。

陳:はい、やはり色々なつながりはあったわけです。実際の歴史は複雑で、単純に黒白つけられるものではありません。安易に貼られたレッテルは剥ぎ取っていく必要があります。

も:本書には芸術を志した留学生も登場します。彼らは東京でどのようなことを学び、その後の台湾にどのような影響をもたらしたと考えられますか?

陳:うーん、芸術というのは影響関係が客観的に見えるものではありませんから、難しい問題ですね。例えば、音楽家の呂泉生〔ろせんせい〕(1916-2008)のようにたくさんの生徒を教えたのならともかく、油絵の陳澄波〔ちんちょうは〕(1895-1947)は二二八事件で命を落としてしまいましたし、日本画の陳進〔ちんしん〕(1907-1998)の場合にはそもそも日本画というジャンルがなくなってしまいましたし…。戦後は存分に能力を発揮できる舞台がなかなかありませんでした。

芸術に限らず、様々な分野の留学生が東京に来ていました。彼らの影響をはっきりと見て取るのは難しいですが、少なくとも中堅層として台湾社会を支え、台湾が発展する力となったことは確かだと思います。

中国人留学生の東京体験について書かれた本はたくさんありますね。魯迅一人だけでも結構あります。しかし、台湾人留学生についてはあまりありません。日本と台湾の交流はこんなに密接なのに、なぜでしょうね。もっと調べる必要があると思います。

 質問に答えながら不明瞭な部分に行き当たると「ああ、今すぐ図書館へ調べに行きたい!」と身悶えしていた陳柔縉さん。「優秀な若い研究者が活躍し始めているから、私の出番はもうありません」などと謙遜されていたが、いやいや、ヴァイタリティーあふれる行動力は健在である。次は日本統治時代の広告からうかがえるマーケティングについて新刊を準備中だという。当時の時代相をどのように浮かび上がらせてくれるのか、楽しみである。

(了)

 


「昭和天皇は戦争を選んだ!」(増田都子著)を読む

2016年04月13日 02時23分20秒 | 

 「昭和天皇は戦争を選んだ!」(増田都子著 社会批評社 2015年)を読む。本書のサブタイトルには「裸の王様を賛美する育鵬社教科書を子どもたちに与えていいのか」とあり、著者の政治的立場がはっきりと示されている。

 著者である増田都子氏は、東京都の中学校社会科教諭を長く勤めたが、東京都教育委員会から「偏向教育」の烙印を押され、学校現場を外され「研修所送り」になった挙句、「分限免職」の処分を受けた。こうした経歴を見ると、本書もすさまじい偏向に満ちているのかと思ったが、意外にも公開資料を丹念に読み込み、実証的な歴史教科書批判になっている。著者がもし義務教育の中学校教諭ではなく、都立高校の社会科教諭だったとしたら、これほど苛酷な処分を受けなかったのではないかと想像される。つまり、都立高校には似たような立場の教員が、何のお咎めもなく、授業を続けられるだけの「教育環境」がまだ残されているからだ。


「昭和天皇は戦争を選んだ!」(増田都子著 社会批評社 2015年)

 本ブログでは、昨年7月に公にされた「昭和天皇、蒋介石支持発言」に触発されて、かなりの数の関連図書を読んできたが、究極の到達点が本書だった。著者の政治的立場は明確すぎるほど明確なので、個々の当否をあげつらうつもりは全くない。むしろ、日本近現代史のスタンダードと目される半藤一利加藤陽子などの著作をいくら読んでも、昭和天皇の戦争責任や個人的資質の問題はよくわからない。何故なら、著者たちが「菊のタブー」には決して触れないからだ。その点においては、本書の迫力は満点だ。加藤陽子には「それでも、日本人は「戦争」を選んだ」( 朝日出版社、2009年)という著書があるから、「天皇は戦争を選んだ」という本書とは極めて対照的だ。

 本書の巻頭には、二つの推薦文が寄せられている。高嶋伸欽・琉球大名誉教授の「安倍政権で勢いを増した歴史修正主義の蔓延、昭和天皇批判に腰が引けているマスコミ」と鈴木邦男・一水会顧問の「天皇制は日本に必要なのかどうか、それは堂々と論争したらいい」だ。
 鈴木邦男の帯文(上記写真参照)は「もう天皇を引き込んではならない。天皇を中心にまとまって戦争する時代に戻してはならない。国論が真っ二つになった時、天皇に判断をあおぐことになってはならない。そんな時代にあこがれをもってはならない」(p.10)とし、「この本は大きな問題提起になるだろう。歴史は、失敗も暗い面も含め、すべて認め、そのうえで、天皇制は日本に必要なのかどうか。それは堂々と論争したらいい」と結ぶ。
 鈴木邦男は「サヨク」に転向したのか?と思うほどの一文だが、ともあれ真っ当な結論だろうと私は思う。

 昨夏、映画「日本のいちばん長い日」(半藤一利原作)がリメイク上映され、「今の平和は天皇の”ご聖断”がもたらした」というキャッチコピーが散々流された。これは本書の「昭和天皇は戦争を選んだ!」とは対極にある認識なのだが、近年公開された外交文書等の分析を見る限り、本書の方がより説得力があるのは間違いないだろう。

 昭和天皇は、沖縄を二度裏切った。沖縄戦で沖縄県民を捨て石に使ったこと、さらに戦後、自己保身と引き換えに沖縄統治を米国に懇願したという事実だ。同様なことは、「大日本帝国」の「臣民」であった台湾人に対しても言える。敗戦によって棄てられた台湾の日本語世代は、昨年夏、『1971年、中国国連代表権問題で昭和天皇が佐藤栄作首相に「蒋介石を支持するように」指示したという事実』の公開で、再び昭和天皇に裏切られた事実を知らされた。1947年、蒋介石の国民党軍は、三万人もの台湾の日本語世代の知識人、リーダー層を虐殺した(二二八事件)。その後、台湾人を圧政の下で支配した独裁者・蒋介石を、自分の「命の恩人」とばかりに庇おうとした昭和天皇。このことが何を意味するのか、論評した人は寡聞にして聴かない。まさに「歴史認識」の根幹に触れる問題なのだから、見て見ぬふりは許されないはずなのに…。「臣民」、否「市民」はもっと憤りを覚えるべきだろう。

 世襲(つまり萬世一系)の天皇が、後世の歴史家の批判に耐えうるような決断を次々と下せるはずなどないことは、常識でも推察できるし、また事実として、その愚かな決断によって「臣民」は「史上最大の負け戦」を戦わさせられ、甚大な被害を被った。鈴木邦男が言うように「天皇に判断を仰ぐような時代に二度とは戻ってはならない」のだ。

 安保法制には賛成の私だが、近年、マスメディアで吹聴される「日本は素晴らしい」という「ホルホル番組」などを見ると、「この国」がどこに向かっているのか、不安を感じたりもする。近未来、次の大震災がおきたとき、わが「列島民族」(西部邁)はどう「脱皮」「豹変」するのか、あるいはしないのか?そのときが分水嶺となりそうだ。 

 


 
 


「昭和天皇・マッカーサー会見」を読む

2016年04月07日 17時46分14秒 | 

 「昭和天皇・マッカーサー会見」(豊下楢彦著 岩波現代文庫 2008年)を読む。


昭和天皇・マッカーサー会見」(豊下楢彦著 岩波現代文庫 2008年)

 このブログで再三採りあげた「1971年中国国連代表権問題で、昭和天皇 蒋介石支持を佐藤栄作に指示」というニュースは、「平和を愛好した昭和天皇」という作為的なイメージをぶち壊すのに十分なほどの衝撃があった。

 本書において豊下楢彦氏は、昭和天皇関連の複数の第一次資料を突き合わせ、当時の国際環境を考慮しつつ、昭和天皇の実像を描き出している。

 敗戦国日本の主権回復(1952.4)に先立ち、吉田茂首相や外務官僚は、より対等な日米関係を築こうとしていた。朝鮮戦争(1950.6-1953.7)の勃発が、その絶好のチャンスとなるはずだった。しかし、結果として、日米安保条約は著しい不平等条約となり、無条件的な米軍駐留が認められた。その理由を著者は、「天皇外交」の存在に求める。「天皇外交」は吉田外交に並行して、天皇の意向を口頭あるいは文書によって米国側に伝える形で行われた。まさに二重外交である。

  吉田茂及び外務官僚は、朝鮮戦争を次のようにとらえた。
「在日米軍基地は(朝鮮)戦争を戦うにあたって、戦略的に不可欠の最重要拠点となったのである。このことは逆に言えば、日本にとって基地の”プライス”が上昇し、基地提供が重要な外交カードに浮上したことを意味した」(同書P.156)

 一方、天皇およびその側近は次のように考えた。
「朝鮮戦争において仮に米軍の側が負けるようなことがあれば、側近たちの全員が”首切り”にあうのではないかという恐怖感にさいなまれていた」(p.163)
 つまり、昭和天皇は、共産主義勢力の浸透によって、日本に「革命」が起こり、「天皇制」そのものが瓦解することを恐れた。ポツダム宣言受諾の決断を躊躇したのは、「国体」と「三種の神器」を守らななければならないという、昭和天皇の意思だったが、戦後においてもなお、昭和天皇及びその側近は、御身大事が第一で、国家・国民の行く末など二の次だったという事実が、ここに示されている。

 現実の政治過程は、「天皇外交」の通りに進んだ。要するに、昭和天皇は戦後の「平和憲法」下においてさえ、実質上の政治権力を行使してきたことが見て取れる。そうであれば、上述の「蒋介石支持」発言も「さもありなん」と理解できる。

 本書が「岩波書店」刊であることもあいまって、著者・豊下楢彦氏を「左翼学者」だと誤解する向きもあるかもしれない。もちろん、そうではなく、公開された外交文書を丹念に分析した実証的な研究成果が、本書である。勇ましいネトウヨの方々や、「天皇」を無条件に肯定する、評論家・青山繁晴のような人はぜひこの本を手に取ってみてほしいと思う。
 なお、付け加えておくと、著者の昭和天皇を見る目は厳しいが、今上天皇に対しては、日本国憲法の理念を守る存在として、より高い評価を与えている。

 


  

 


「昭和天皇の戦後日本」(豊下楢彦著)を読む

2016年04月04日 11時01分31秒 | 

 「昭和天皇の戦後日本~《憲法・安保体制》にいたる道」(豊下楢彦著 岩波書店2015年)を読む。
 これは、実に刺激的で、目から鱗の本だった。


昭和天皇の戦後日本~《憲法・安保体制》にいたる道」(豊下楢彦著) 

 著者・豊下楢彦は、京大卒の政治学者で、外交史・国際政治論が専門。昭和天皇実録や日米安保体制の成立過程に関する分析には定評がある。

 このブログには何度も書いたのだが、昨年7月、成蹊大学法学部の 井上正也准教授(日本政治外交史)が「1971年、昭和天皇は佐藤栄作首相に中国国連代表権問題に関して”蒋介石を支持するように指示”した」とする外交文書資料を発掘して公表した。日本国憲法下で政治的発言を禁じられているはずの天皇が、かくもあからさまにこのような発言をしていたと知り、これまでの昭和天皇像が完全に覆された。

 昨年夏には、「日本のいちばん長い日」という映画が公開され、「いまの平和はあの”聖断”から始まった」というキャッチコピーが喧伝された。昭和天皇を戦争終結に反対する勢力と対置することによって、「平和を愛好する天皇」というイメージを流布しようとした映画だった。戦争を知らない世代が絶対多数を占めるようになると、こんなトンデモ映画が通用するのかと不安さえ覚えた。

 本書を読むと、上記のような懸念、疑念を解き明かすような記述に満ちている。私が得心したのは、概ね次のような事柄だった。

① 昭和天皇が「国民」(戦前は「臣民」あるいは「民草」)のことを第一義的に考えたことなど、金輪際なかった。頭の中にあるのは、「国体」(すなわち、御身の生命)と「皇祖皇統」(皇室一族の安寧)の護持だけだった。大空襲、沖縄戦、原爆投下で国土が焦土と化してもなお、「三種の神器」をどう守るか、そのことばかりに拘泥していた。
② 昭和天皇は二度沖縄を見捨てた。沖縄戦の強行、戦後には戦争責任を免れるために、米国に沖縄統治を懇願した。「沖縄戦で民草(=国民)は私を守らなかったのだから、米国に統治してもらうのがよい」旨、放言したと伝えられる。
③ 自らの戦争責任を免れるため、連合国に東条英機以下側近を人身御供として差し出した。マッカーサーの回想録などを利用して、史実を改竄し、自己正当化を図った。 
④ 上述の「蒋介石支持」発言のように、日本国憲法下においても、あたかも「皇帝」であるかのように、平然と現実政治に介入した。
⑤ 結論として、昭和天皇は、自らの戦争責任を免れるため、本書のサブタイトルでもある《憲法・安保体制》を受け入れ、米国への従属、属国化を積極的にすすめた。戦争責任を免れた後においても、共産主義勢力による「革命」を恐れ、自らの保身のために、米国にへつらい続けた。


 ちょっと前だったら、本書のような内容は、さまざまな「物議」を醸し出したはず。そんな話を聞かないのは、やはり昭和という時代が遠ざかってしまったためか。個人的には、昭和天皇を、「公家」の血筋を引くM小路K秀という国際政治学者の軌跡と重ね合わせてしまった。そのココロは、「公家」という人たちは、極めて自己チューで、容易に変節し、人の痛みなど歯牙にもかけないということだ。そもそも公家、皇室は酷薄、非情な方々なのだろう。
 
 天皇礼賛のウヨク本は論外としても、「昭和天皇実録」を分析した研究書でさえ、いくら読んでも昭和天皇の人となり(というか本性)を知ることなどできない。それは、暗黙のタブーには決して触れないように書かれているためだ。しかし、本書は、公になったいくつもの記録を当時の状況と照らし合わせて、極めて穏当で説得力のある分析をしている。
 


 

 

 

 

 


「満洲とは何だったのか」(中見立夫ほか著)

2016年01月24日 08時00分02秒 | 

 「満洲とは何だったのか」(中見立夫編 藤原書店 2004年)を読む。


「満洲とは何だったのか」(中見立夫ほか 藤原書店 写真は新版 2006年)

 八章に渡り、外国人の寄稿も含めた40篇もの論文集なので、全体に統一感がないのは否めない。がしかし、「歴史のなかの”満洲”像」(中見立夫)「”満洲”という地をめぐる歴史」(小峰和夫)などの主要論文を読むと、戦後タブー視されてきた「満洲」のイメージが再認識できる。

 幼い頃の記憶だが、女の子が毬(まり)つきをして遊ぶとき、「満洲の真ん中でかすかに聞こえる豚の声…」という唄をよく歌っていたのを思い出す。意味も知らずに歌っていたに違いないのだが、このように戦後のある時期までは「満洲」は身近にあったと言えるだろう。のちに「王道楽土の交響楽」(岩野裕一著)を読んで知ったのだが、中共(中国共産党)が「満洲国」の歴史をすべて封印し、「偽満洲国」として断罪する歴史観が行き渡ってしまい、「満洲」そのものへの関心さえタブー視されることになった。朝比奈隆が満洲に残した足跡でさえも、今なお公文書では公開されていない。

 もう10年近く前になるが、ツアー旅行で大連、瀋陽に行き、旧満鉄本社、満鉄アジア号を見に行った。そのときも、歴史展示として「日本帝国主義の罪状」がさかんに強調されていた。錆はてたアジア号は、寒風が入り込む、廃屋のような場所に日本人観光客向けに「展示」されていた。


「満洲帝国要図」(上掲書より引用)

 「満洲で日本人はいいこともたくさんした」と宮脇淳子女史の「世界史の中の満洲帝国と日本」には書かれている。南満州鉄道(満鉄)が社会の近代化に果たした役割は否定することはできないのに、中共が「満洲国」を「偽満洲国」として断罪し、その歴史を封印した。これは実は、中共が独自で成し遂げたという「中国革命」の神話を守るためでもあった。大戦終了時、中国大陸で最も近代化が進んだ「先進地域」は「満洲國」だったこと。国共内戦における中共の勝利は、ソ連が満洲経由で中共軍を軍事支援した結果に他ならないこと。だからこそ「中国革命」の神話を作り出し、政権の正統性を主張する中共にとって、満洲そのものが「不都合な真実」であったに違いない。

 さて、肝心の本書の論文だが、見覚えのある名前なので、「”満洲国”の女性作家、梅娘を読む」(岸陽子)、「満洲をめぐる国際関係」(三輪公忠)が目に留まった。

 前者の岸陽子は、中國礼賛学者として有名だった、故・安藤彦太郎の後妻だった人で、中国文学者。夫のような政治性は微塵も出さないものの、梅娘(メイニャン)という女性作家を中心に満洲国の状況を描くという行為が、決して中共に対する批判にならないという点で、かえって親中国派の馬脚を現していると言えるのかもしれない。人権、平和、女性の権利などを普遍的な価値として、満洲国の政治文化状況を批判しておきながら、中共の謀略活動、非人道的行為には何ら言及しないのだから、まさに「進歩的文化人」の典型ではある。

 もうひとつ、三輪公忠の論文にはまたまたあきれ果てた。次をよむだけで、その理由はわかるはずだ。「シベリア出兵時の日米対立から石原莞爾の世界最終戦への布石としての満洲事変」(p.373)の部分だ。

満州事変は、ソ連の軍事的脅威に対する「防衛戦争」の性格を持つものと理解されているが、ハリマンの世界一周鉄道計画に代表されるアメリカ企業家精神と、それを後押しするアメリカ政府のグローバリズムと、日本の地域的利害の衝突としては、満洲からロシアの勢力が後退した後の空白を埋めるのみか、日本を追い落とすほどにアメリカの「努力」を注入しようとしたこの時に、その遠因の一つがしっかりと根を下ろした。」

 この意味が分かる人がいたら、ぜひご教示願いたいと思うほどだ。遺憾ながら、こんな人に教わった学生さんはお気の毒だし、愛弟子もロクな大学の先生にもなれなかったに違いない。本当にうんざりした。

 まあ、この二編は例外的と言っていいだろうが…。満洲のイメージを多角的につかむには、興味深い本だと思った。
 




 

 
 
 

 

 


「慟哭の海峡」(門田隆将著)を読む

2015年12月28日 19時17分17秒 | 

 「慟哭の海峡」(門田隆将 著 角川書店 2014年)を読む。



 門田隆将この命、義に捧ぐ 台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡」の著者。日本の敗戦時、内蒙古司令官だった根本博の生き様を描いたこのドキュメンタリーは、TVでも放送され、大きな反響を呼んだ。明治生まれの武人とはかくあったのかと思わせる、清々しい作品だった。



 その門田が取り上げた「慟哭の海峡」とは、フィリピンと台湾の間に横たわる、バシー海峡(巴士海峡)を指す。そこは「輸送船の墓場」と称され、10万を超える日本兵が犠牲なったとされる。すなわち、太平洋戦争の後半、「南洋」と「本土」を結ぶ輸送網の要であるバシー海峡を通行する日本艦船は、米軍潜水艦の格好の餌食となった。米軍は戦時国際法違反を知りながら、たとえ病院船であっても、攻撃をしかけたと伝えられる。


 
 本書
は、次のように紹介されている。

「2013年10月、2人の老人が死んだ。

1人は大正8年生まれの94歳、もう1人はふたつ下の92歳だった。2人は互いに会ったこともなければ、お互いを意識したこともない。まったく別々の人生を歩み、まったく知らないままに同じ時期に亡くなった。

太平洋戦争(大東亜戦争)時、“輸送船の墓場"と称され、10万を超える日本兵が犠牲になったとされる「バシー海峡」。2人に共通するのは、この台湾とフィリピンの間にあるバシー海峡に「強い思いを持っていたこと」だけである。1人は、バシー海峡で弟を喪ったアンパンマンの作者・やなせたかし。もう1人は、炎熱のバシー海峡を12日間も漂流して、奇跡の生還を遂げた中嶋秀次である。

やなせは心の奥底に哀しみと寂しさを抱えながら、晩年に「アンパンマン」という、子供たちに勇気と希望を与え続けるヒーローを生み出した。一方、中嶋は死んだ戦友の鎮魂のために戦後の人生を捧げ、長い歳月の末に、バシー海峡が見渡せる丘に「潮音寺」という寺院を建立する。

膨大な数の若者が戦争の最前線に立ち、そして死んでいった。2人が生きた若き日々は、「生きること」自体を拒まれ、多くの同世代の人間が無念の思いを呑み込んで死んでいった時代だった。

異国の土となり、蒼い海原の底に沈んでいった大正生まれの男たちは、実に200万人にものぼる。隣り合わせの「生」と「死」の狭間で揺れ、最後まで自己犠牲を貫いた若者たち。「アンパンマン」に込められた想いと、彼らが「生きた時代」とはどのようなものだったのか。

“世紀のヒーロー"アンパンマンとは、いったい「誰」なのですか――? 今、明かされる、「慟哭の海峡」をめぐる真実の物語。」

 バシー海峡を臨む鵝鑾鼻(がらんび)灯台に行ってきたばかりなので、あの美しい景色の背景に、こんな歴史があったのかと思い知らされた。
 鵝鑾鼻の西側にある南湾には、おびただしい日本将兵の水死体が流れ着いたとされるが、その墾丁(こんてい)の街は今やリゾート地として名高く、昔を思い出させるものはない。本書の登場人物である中嶋秀次が建立した潮音寺だけが、その記憶を残しているのだろうか。

  

 

墾丁のビーチ(2015年12月) 
 

 

 

 


「天皇の玉音放送」(小森陽一著)を読む

2015年12月08日 21時08分22秒 | 

 「天皇の玉音放送」(小森陽一著 五月書房 2003年)を読む。

 本書は、現在、品切れ。アマゾンの古本では、何と一円の値段で購入可能。そんな本を今になって何故読むのかは、ちょっと記しておかなければならない。
 7月末、米国の外交文書が公開され、驚くべきニュースが伝えられた。1971年、中国の国連代表権問題をめぐって、昭和天皇が当時の佐藤栄作首相に蒋介石支持を指示したというのだ。
 言うまでもなく、現行憲法では天皇の政治的発言は許されていない。戦後四半世紀を過ぎてなお、昭和天皇がこのような発言をしていたことは、従来流布されてきた「平和を願い続けてきた天皇」というイメージを根底から覆すインパクトがあり、ヒロヒトの人間性を疑わせるのに十分だった。

 それ以来私は、天皇の戦争責任に関して書かれた本をかなり読んでみた。その中で、一番鋭く本質を衝いていると思ったのが、この「天皇の玉音放送」だった。


「天皇の玉音放送」(小森陽一著 五月書房 2003年)

 著者の小森陽一氏は国文学者であり歴史学者ではないが、歴史や政治について積極的に発言している。かつてNHKの教育テレビで「歴史は眠らない 沖縄・日本の400年」を講義したさい、NHKの方針と合致しない内容をテキストに記したため、テキストの全面回収と番組の後半部分の放送延期という”事件”も引き起こしている。厳密な資料操作を自負する歴史学者がかえって「木を見て森を見ない」ような記述で読者を失望させるのに対して、小森氏の文章はストレートな言葉で鋭く本質をえぐる。例えば、こんな調子で…。

『…「国体」とは大日本帝国憲法第一条の「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」という神話を歴史に転倒した空虚な血統主義的幻想と、第三条「天皇は神聖にして侵すべからず」と第四条の「天皇は国の元首にして統治権を総攬し」という権力の絶対化にほかならない。換言すれば、敗戦直前の、米軍の空爆によって焦土と化した大日本帝国にとって血統神話とそのなれの果てのヒロヒトの身体にしか、「国体」の実態は存在しない。だからこそ、「その場合には」、「三種の神器」を「自分がお守りして運命を共にする外ないと思う」という信じがたい空論が、最高権力者本人によって、まことしやかに語られてしまうのである。…ヒロヒトは「敗北を抱きしめて」ならぬ「三種の神器」を抱きしめているしかなかったのである。そのような男に、生殺与奪の権を握らせていたのが「軍人勅諭」と大日本帝国憲法と「教育勅語」の体制だったのだ。』(同書 p.28)

 この夏公開された映画「日本のいちばん長い日」のキャッチコピーは、「このご聖断が今の平和を築いた」だった。天皇がポツダム宣言受諾を決意したからこそ、今の繁栄があるという、およそ史実とはかけ離れた「妄想」「自画自賛」だった。一方、小森氏の記述は、天皇に好意を抱く人たちにとっては実に耳障りであるだろうが、概ね、納得ができる内容だと思われる。

 小森氏は「九条の会」を主宰する、現役の東大教授。言ってみれば、バリバリの左翼だ。思想信条的には、私などはとても受け入れがたい。だが、上述の映画キャッチコピーのような歴史観が蔓延するとなれば、話は別。左翼の立場から「菊のタブー」に敢然と挑んだ感のある本書は、一度手に取ってみるべき書物なのかもしれない。少なくとも「絶版」になるには惜しい本だ。

 
 


 


鬼太郎の戦争 ~ 水木しげる氏が逝去

2015年11月30日 19時22分33秒 | 

 さきほど、水木しげる氏の訃報を聞く。

 この夏、「水木しげるの戦争と新聞報道展」という展示会を見に行き、案内の方から「水木先生ご本人も車椅子で来場された」と聴いたばかりだったので、こんなに早く悲しい知らせを聞くとは思ってもみなかった。

 TV各局はいっせいに訃報を伝えた。私は「ゲゲゲの鬼太郎」の放映権を持つフジテレビと、「ゲゲゲの女房」を放送したNHKを見たところだが、NHKニュースが「水木しげる氏は戦争の悲惨さを描き、平和の大切さを訴えた」「お化けには、人種も民族も偏見もない。そういうものを描いた」とかもっともらしいコメントを加えるのには、いささかゲンナリした。

 水木氏本人は、現実政治や大それた「思想」とは無関係な人であったはずだ。「平和憲法」を守ろう、「安保法制」はけしからんなどと言う人たちが、水木氏亡き後、そのイメージ、言動を都合よく利用しかねない危惧を覚える。水木氏の戦争体験は、あくまで個人的な吐露に過ぎなかったはずなのに…。

   文化功労者の授賞式のあと、TV局のインタビューで「陛下からはどのようなお言葉がありましたか?」と訊かれたとき、水木氏は「忘れました。ほとんど何も言われなかったんではないですか」と応えた。そこに夫人が「ふざけちゃだめよ」と割って入った。そのときだけ、水木氏の心の中にある「暗闇」が垣間見えたような気がした。
 
「朝イチ!」の有働由美子は「水木先生は”敵地”の住民とも仲良くしておられた」と宣った。有働は、水木本人にインタビューをしたことがある。だが、目の前にいる水木氏の心の内を何一つ読めなかったのだなあと思った。

 ともあれ、「水木しげるの戦争」がテーマの展示会を見ることができてよかった。

 こころからご冥福をお祈りしたい。

 

 

「ゲゲゲの鬼太郎」水木しげるさん 多臓器不全で死去 93歳

スポニチアネックス 11月30日(月)12時47分配信

 「ゲゲゲの鬼太郎」などで知られる漫画家の水木しげる(みずき・しげる、本名武良茂=むら・しげる)さんが30日午前7時18分、多臓器不全で東京都内の病院で死去した。93歳だった。鳥取県出身。

【写真】水木しげるさんの妻で「ゲゲゲの女房」の著者、布枝さん

 水木さんは11日に東京都調布市の自宅で転倒。頭部を強く打ち、入院していた。葬儀は近親者で行い、後日、お別れの会を開く。喪主は妻の武良布枝(むら・ぬのえ)さん。

 高等小学校卒業後、漫画家をめざし、大阪で働きながら漫画を学び、戦争中は陸軍の兵隊としてニューギニア方面に出征。戦後は一時紙芝居を商売にしていた時代があった。

 1958年に貸本漫画家としてデビュー。「河童の三平」「悪魔くん」などを発表し、「ゲゲゲの鬼太郎」が「週刊少年マガジン」に連載され、妖怪を扱う人気漫画家となり、テレビアニメ化されてからは妖怪ブームが巻き起こった。

 幼少時に妖怪の話を教えてくれた老婦人との交流を描いた自伝的なエッセー「のんのんばあとオレ」(後に漫画化)や「水木しげる 妖怪大画報」のほか、「総員玉砕せよ!」「娘に語るお父さんの戦記」など、戦傷で左腕を失った自らの戦争体験に根差した作品も多い。

 幼少期を過ごした鳥取県境港市には愛着があり、93年には「水木しげるロード」が設けられ、03年には「水木しげる記念館」が建てられた。10年には妻の布枝さんが書いた「ゲゲゲの女房」がNHK連続テレビ小説として放映され、その生きざまが共感を呼んだ。91年に紫綬褒章、03年には旭日小綬章を受章。10年文化功労者。


「成蹊大学宇野ゼミナール50周年記念誌」

2015年11月10日 11時55分52秒 | 

 たまたまアマゾンで本を検索していたら、「成蹊大学宇野ゼミナール50周年記念誌」(宇野重昭&宇野ゼミナール同窓会 三恵社 2014年)にたどり着く。
 
 宇野重昭氏については、以前、このブログでも書いたことがある

 私自身は残念ながら、成蹊大学の出身ではない。宇野先生が兼任講師として教えていた「中国共産党史」「東アジア国際関係史」を二年間、立ち聞きしたに過ぎない。当時も今も、私が出たS大学には、まともな中国研究、東アジア研究の授業はなかったので、宇野先生の熱気あふれる講義には大いに感銘を受けた。卒業単位にも認定されなかったのだが、私にとって最も素晴らしい、今も記憶に刻まれている講義だった。

 この「成蹊大学宇野ゼミナール50周年記念誌」を読む。まず、今年85歳になられた宇野重昭先生がご健在であることを巻頭文で確認、これは部外者の私でも喜ばしいことだった。島根県立大学学長の多忙な時期、宇野先生は奥様を亡くされたと聴いていたので。

 世代を超えて半世紀、ゼミの卒業生が宇野先生と繋がっている。これは稀有なことだと思う。私などは自分の出た大学に、二度と足を踏みいれていない。「宇野ゼミ」のような体験ができたのなら、これまでの人生がもっと豊かなものになっていただろうにと思う。

 この駄文を、もし「宇野ゼミ」関係者が読まれたとしたら、私は「宇野先生との邂逅」がもたらした人生の恵みを羨ましく思う、と伝えたい。

 

「成蹊大学宇野ゼミナール50周年記念誌」(宇野重昭&宇野ゼミナール同窓会 三恵社 2014年) 
 

 


「昭和天皇 退位論のゆくえ」(冨永望)を読む

2015年10月19日 11時01分42秒 | 

 7月末、公開された米国の外交文書によって、1971年、中国の国連代表権問題をめぐって、昭和天皇が佐藤栄作首相に「蒋介石を支持してほしい」と伝えた事実が明らかになった。このことについては、このブログでも感想を書いた

 昭和天皇のこの発言は、最近の映画「日本のいちばん長い日」に描かれたような、昭和天皇が一億玉砕、一億総特攻を主張する「軍部」を抑え、戦争終結の「聖断」を下したというような「神話」を自ら葬り去ってしまうほど衝撃的だ。つまり、天皇の戦争責任問題に再び火をつけかねない問題なのだが、御身大事のマスメディアは、決してそこまで踏み込んで報道することはない。 

 そこで、いろいろな本を漁ってみたのだが、「昭和天皇 退位論のゆくえ」(冨永望著 吉川弘文館 2014年)は、戦争直後からGHQ時代における天皇退位論を新聞史料を中心にたどっていて、ど素人の私でも読みやすく、興味深かった。


「昭和天皇 退位論のゆくえ」(冨永望著 吉川弘文館 2014年)

 天皇の戦争責任に言及した高松宮との確執、「退位」の圧力に屈せず「留位」した政治力などを知ると、昭和天皇が極めて「自覚的」にこの国の政治を動かしてきた事実を認めなければならない。終戦に至る政治過程を詳細に見つめれば、「天皇のご聖断が今日の平和を築いた」(上述映画のキャッチコピー)などと、口が裂けても言えないはずなのだ。

 出版元のHPには、次のような解説が添えられている。

日本史上最も長く続いた年号「昭和」が、昭和天皇の譲位によって実際より早く終わる可能性は、少なくとも4回あった。敗戦直後、東京裁判判決、講和条約発効、皇太子の御成婚…。昭和天皇の戦争責任に端を発する退位問題はどのように巻き起こり、論議されたのか。日本社会における天皇の位置づけを考え、戦後の日本人が選択しなかった道を探る。」
 
 「昭和」が遠くなり、巷には団塊世代のジジババが徘徊する時代となったいま、自らの来る道、そして生末を重ね合わせ、「日本社会における天皇の位置づけを考え、戦後の日本人が選択しなかった道を探る」のも一興ではないのか。
 同時に、天皇の戦争責任、天皇制国家の功罪を考えることは、近未来の国家的危機に際して、再び同じ愚行を繰り返さないためにも、ぜひ必要なのかもしれない。

  
 


「日本はなぜ戦争をやめられなかったのか」(纐纈 厚 著)

2015年09月27日 15時17分24秒 | 

 「日本はなぜ戦争をやめられなかったのか 中心軸なき国家の矛盾」(纐纈厚著 社会評論社 2013年)を読む。
 その内容は、次のとおり。

序章 中心軸なき国家のゆくえ(外圧に翻弄された開国;中心軸なき国家;ナショナリズム不在の近代日本;なぜ、同じ過ちを繰り返すのか)
第1章 合意なき開戦決定―迷走する指導者たち(開戦決定過程にみる迷走ぶり;東條開戦内閣の成立と対英米開戦)
第2章 破綻した戦争指導―混乱と動揺のなかで(戦争終結への動き―迷走する戦争指導;動揺と迷走の果てに)
第3章 不毛の戦争終結過程―責任者は誰か(他者依存の典型事例として―対ソ和平工作への過剰な期待;戦争終結に舵を切る)
第4章 中心軸なき国家の矛盾―近代化・ナショナリズム・政軍関係(「近代化」という落とし穴;政治を分裂させた軍事の位置;歴史認識の希薄さの原因―過去の克服はなぜ遅れているのか;歴史に向き合うことの勇気)

 

 この本を読むきっかけとなったのは、7月末、「和天皇、1971年中国国連代表権問題で蒋介石支持を佐藤栄作首相に指示」というニュースを知ってから。米国の外交文書公開で明らかになった史実なのだが、日本のマスメディアの反応は極めて鈍く、その場限りの線香花火で終わってしまった。しかしながら、これは、昭和天皇が平和を願いながら、「軍部」に押し切られたため、あんな戦争をしてしまったという、従来の俗説を根底から覆す可能性があるニュースだった。1971年、「平和憲法」下においても、天皇がこのように政治に口出ししていたという事実から察すれば、戦前の大日本帝国における天皇とは、まさに「現人神」そのものではなかったか。天皇には戦争責任が全くなかった、などと思い込むこと自体が、「日本人民」の「特異性」言い換えれば「マヌケさ」の証なのではないかとさえ思えてくる。

 著者の纐纈厚氏は、素人の私から見ると、左翼系の歴史学者。経歴からしても、一昔前のマルクス主義史観を引きずっている人物だと思われる。大昔、その種の歴史本はたくさん読まされたので、さして期待も持たずに読み始めた。
 本書の執筆動機は、東日本大震災・原発事故だという。あのとき、「中心軸なき国家」の姿が露呈したという。
 日本近代を通底するものは、「追従」と「無責任」であると著者は指摘する。「追従」とは、近代化(=西洋化)の手本であった欧米への追従、「無責任」とは丸山眞男が言う、天皇制国家における無限無責任体制を意味する。
 このあたりの議論は、政治学の概念、用語をちりばめているため、他の歴史学者とはちょっと毛色が変わっている。政治学から入って、近現代史に興味を持った私にとっては、意外にも読みやすい内容だった。だが、あるべき国民、あるべきナショナリズムを理想型として掲げ、それらと比較して現実がどう不足しているかというような論法は、教条左翼の名残をとどめていると言わなければならない。

 著者はあの戦争を「天皇による、天皇のための、天皇の戦争」(p.190)であったと結論付ける。ナチスドイツが敗北(1945年5月)しても、沖縄戦が壮絶な結果で終わっても(1945.6~)、広島・長崎に原爆(1945.8
)が落とされても、最後の最後まで「国体」、すなわち皇祖皇統、三種の神器の保持にこだわった昭和天皇が、国民のために聖断」を下したなどとは、金輪際ありえないということだ。この点においては、全く同感だ。
 1975年、米国訪問後の記者会見で「戦争責任」について問われた昭和天皇は、「そういった文学方面のことは、私はよく研究していないのでおこたえできない」と不真面目に応え、さらに原爆投下については「あれは戦争であったことだからやむをえなかった」と開き直った。すでに述べた「蒋介石支持」発言と照らし合わせると、昭和天皇の精神構造(というか頭の中)が透けて見えてくるではないか。

 「中心軸なき国家」おける「無責任体制」の頂点にいたのは、他ならぬ昭和天皇自身だ。戦後になってからの政治的発言が次々と明らかになっている以上、従来の「追従」的天皇観の見直しが求められるべきだろう。 

 私自身、「朝日」「岩波書店」に象徴される進歩的文化人風のご高説は大嫌いなのだが、彼らが言うように「安保法制」(私はそれに賛成だが)が場合によっては、予想外の暴走を始める危惧は否めない。それはまさに著者の言う「中心軸なき国家の矛盾」そのものでもあるからだ。


 


  
 

 

 

 

 


「中国の反外国主義とナショナリズム~アヘン戦争から朝鮮戦争まで~」(佐藤公彦著)

2015年06月29日 08時44分38秒 | 

 佐藤公彦教授の新刊著「中国の反外国主義とナショナリズム~アヘン戦争から朝鮮戦争まで~」(集広舎 2015年)の書評が、昨日の「産経」に掲載された。(下記参照)
 
 佐藤公彦氏は、今年の3月まで東京外国語大学教授。現在、同大学名誉教授で中国近代史・東アジア国際関係史が専門。

 私は、最近、二年間にわたってこの佐藤公彦教授による「近代東アジア国際関係史」「近代中国とキリスト教」「現代世界論」の講義を聴講する機会を得た。教授は、毎回手作りのレジュメ、資料を配布し、学生が歴史に関心を持つように工夫されていた。「現代世界論」では、「南京大虐殺」を採りあげた際、学生に対して「君たち(=外語大生)は国際的な仕事に就いて、外国人と交流することも多いだろう。相手から議論を吹きかけられたとき、きちんと歴史的事実に基づいて反論しなければならない」と繰り返したのが印象的だった。その言葉どおり、懇切丁寧で情熱あふれる講義は、外大生の間でも人気が髙かったはずだ。聴講生の私でも、すっかり佐藤先生のファンになってしまった。 

 この5月には、読売新聞社の主催で講演会も開かれたという。参加できなかったのが、かえすがえす残念でならない。この講演会でも、佐藤教授は「中華帝国」として復活した現代中国の根源が「反外国主義」すなわち「反日」であることに警鐘を鳴らし、同時に日本が中国主導の「アジアインフラ投資銀行(AIIB)に加入しなかったことについては「外務省の怠慢」と指摘したと伝えられる。



 実は、佐藤教授の最新刊「中国の反外国主義とナショナリズム~アヘン戦争から朝鮮戦争まで~」(集広舎 2015年)は、まだ私の手元に届いていない。

 そこでここに、楊海英・静岡大教授による「書評」(「産経」2015.6.28)を引用させていただく。

            「敵であり続ける必然性」  

 「中国もの」が毎月、溢れるほど出版されていても、日本人など世界の人々は中国と中国人が理解できない。強烈な違和感を覚える隣国は近代から現在に至るまで、ずっと日本の躓き(つまずき)の石だった、と著者は看破する。
 異文化と出合った時に中国は「外国人嫌い(ゼノフォビア)」と「神秘的な法術(邪教)」で対応してきた。具体的には、「反韃子(ダーツ)」と「反外国主義」の形式で現れる。韃子とはモンゴルなどユーラシアの遊牧民を指すが、「東夷、南蛮、西戎、北狄」など中華周辺の諸民族の総称でもある。一方、「外国」の範疇には主としてキリスト教文化圏の西洋諸国が入るが、倭・日本は「韃子」と「外国」の二重性を持つ、と中国に認識されている。
 「反韃子」と「反外国」の近代史はアヘン戦争と太平天国の乱、義和団(拳匪)事件など大清帝国の衰退期を経て、中華民国期の「反キリスト教運動」、そして中華人民共和国時代のキリスト教弾圧運動と今日の反日主義へと繋がる。その結果、「反韃子」で成立した中国人(漢民族)による中国人のための国家は必然的に対内的にはチベット人やモンゴル人などを弾圧の対象とするし、日本などは絶対に「敵」であり続けなければならない。
 躓かされた日本は自省の念も含めて中国をマルクス主義の階級論に即して善意的に解釈しよう、と戦後に努力してきた。しかし、反帝国主義史観では、「扶清滅洋」、すなわち「清朝を助けて西洋を滅ぼす」目標を唱えた義和団事件の解明には至らない。「人民」が「搾取階級」を打倒して「民主政権」を建立したという革命史観では中華人民共和国の専制的特徴について説明しきれない。社会主義の進歩史観は20世紀の流行だったが、それでも中国を分析する武器にはならなかった。
 リベラル派歴史家は、「中国と中国人を区別しよう」との空論を死守しようと踏ん張る。「中国」という国家は中国人が運営しているからこそ、国際社会の異質な存在だ、と本書は中国ナショナリズムの本質を解剖している


 なお、国分良成・防衛大学校長による書評も、6月14日付の「日経」に掲載された。