澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

中国・内モンゴルの砂漠緑化と遠山正瑛の”善意”

2014年07月13日 07時42分08秒 | 中国
 先日放送されたニッポン無名偉人伝4~内モンゴルの砂漠緑化に生涯をささげた日本人については、このブログでも感想を書いた。



 「日中友好」の美談として描かれた番組だったので、これを見たほとんどの人は「感動」したのだろうが、私はあえて次のような疑問を呈した。

① 江沢民がわざわざ内モンゴルに会いに行き遠山正瑛にお礼を言ったというエピソードや「中国で生前銅像が建てられたのは毛沢東と遠山先生だけ」というナレーションは、遠山の「偉業」を賞賛しているというよりも、かえって遠山正瑛という人物の俗物性を疑わせる結果となっている。
② 番組では内モンゴルの砂漠化が、漢人農民の移住という人為的原因で引き起こされているという事実には一切言及がない。
③ 遠山正瑛の「砂漠の緑化」が、漢人農民の入植を助け、モンゴル人遊牧民の居住範囲を狭める結果となっている。遠山の「善意」が漢民族による少数民族支配の強化に好都合だからこそ、江沢民はわざわざ謝意を示したのではないのか。

 ①については、遠山正瑛の長男・遠山柾雄が、父親と同じ鳥取大学農学部準教授として「砂漠の緑化」に取り組んでいたが、政府からの補助金を不正受給したのはないかと指摘されている。この遠山柾雄は、父親が教授をしている鳥取大学に入学し、父親の研究室で乾燥地農業を学び、父親のポストを引き継いでいる。国立大学でこんな人事があるなどとは信じられない話だが、その彼が砂漠緑化事業のための政府補助金から使途不明金を出したのだとすれば、「内モンゴル砂漠緑化事業」の理念さえ疑われかねない、驚くべきスキャンダルである。

 ②と③については、「Southern Mongolian」に詳しく論じられているので、下記に引用させていただいた。主要な指摘は、次のようなものだ。

「日本人研究者の研究成果は悪用される恐れがあり、研究は民族文化の保護と維持を意識しなければならない。日本人による沙漠研究は、緑化も目的のひとつであるようだ。ただし、沙漠地域での緑化はすなわち農産物の栽培をどのように促進するなど、緑化=農耕開墾を意味しているような印象が強い。というのは、いかに灌漑すれば作物が生長し、何本の木を植えれば防風林となって農耕地が保護できるか、という実験が多いのではなかろうか。沙漠化を防止するためには、農耕を中止し、定住から再度移動放牧に回帰しなければならない、という発想は毛頭ないのではないか。」

「中華人民共和国が積極的に漢族農民の入植をすすめた結果、オルドス地域をはじめ、内モンゴル各地に無数の漢人村落が形成された。漢族はどこへ移動しても農業中心の生活を営む。乾燥地域での営農は環境を破壊しただけでなく、異なる生活を送ってきたモンゴル族とのあいだで、衝突も増えるようになった。」

「現地住民は日本からの「緑の使者」を歓迎し、大きな期待を抱いている。しかし、牧草地が植林地化される現状への懐疑も隠せない。地下水が比較的豊富な牧草地での植林は、活着がよいため補助金の報告書は書きやすい。また、植林団体の誤解も少なからずある。牧民の家畜が植林地に入り込むことが植林事業実施の障害となるとしたり、強く「禁牧」(家畜の放牧を禁止し、宿舎飼育を奨励する)を訴える団体さえある。」


 
 「砂漠化」の真の原因はどこにあるのか?砂漠を緑化することによって、その人間社会はどう変化するのか。こういった洞察を抜きにして、「地球環境の保護」「日中友好」などと安易に囃し立ててほしくないものだ。
   「美談」仕立ての「感動番組」にはくれぐれもご注意を! この番組の感想は、そういう結論になりそうだ。


モンゴル人からみた沙漠化
   

-日本の緑化運動とも関連づけて-

楊 海英(やん はいいん)
静岡大学人文学部

  今日、地球上の各地で沙漠化の問題がクローズアップされている。なかでも、中国・内モンゴル地域の沙漠化については、日本でも注目されている。では、沙漠化をもたらした原因は一体何であろうか。今後、人々は沙漠という存在といかに接するべきかをモンゴルの視点から考えてみたい。

1.沙漠化をもたらしたのは遊牧民ではなく、農耕民である

モンゴルなど北・中央アジアの遊牧民はウマ、ウシ、ラクダ、ヒツジとヤギの五畜を放牧し、その乳と肉を生活・生産資源としてきた。彼らは季節ごとに異なる放牧地を有し、そのあいだの移動をくりかえす。元来、万里の長城以北の地域は降水量が少なく、農耕に適さぬだけでなく、ある一カ所での長期間放牧にも耐えられない環境であった。遊牧民の定期的な、規則正しい移動は、厳しい自然環境を合理的に利用するために発達してきた技術である。換言すれば、移動によって「過放牧」という破壊的な結末を避けることができたのである。

  「草原を天の賜物」とみなし、人間が土地を私有化したり、過度に加工したりする行為は忌み避けるべきだ、と遊牧民は考える。沙漠化の原因のひとつとして、植物の伐採があげられてきた。一般的に遊牧民は伐採をおこなわない。森林地帯の人々は枯れた枝しか拾わない。ゴビ草原の住民は家畜の糞を燃料とする。私の故郷オルドス地域は沙漠性草原で、そこには沙嵩(A.ordosica Krasch,A.sphaerocephalla Krasch。学名は「伊克昭盟的生物」による)という植物が生長する。冬のあいだ、大地が凍りついたときのみ、植生の濃密なところをえらんで、若干、枯れかけたものを切る。モンゴル人はこの作業を「植物に風を通す」と表現し、一種の園芸に近い行動である。実際、翌年の生長ぶりは前年よりも良くなる。

ここで歴史を回顧してみよう。


  オルドス地域は黄河の南に位置することから河套、河南地とも呼ばれていた。中国の漢族側からの名称である。戦略的に重要な場所であったため、有史以来、遊牧民と農耕民との争奪の地でありつづけた。漢族側がときどきこの地を占領すると、城池をきずき、屯田をすすめた。現在のオルドス地域には40を越える古城の跡が各地に残る。

興味深い現象がある。
 

歴代王朝の屯田地の中心地だった古城の周囲はほとんど例外なく塩田化している。灌漑によって地中の塩分が上昇し結晶した塩がさらに草原に散って利用できなくなっている。このような荒れはてた古城とその周囲をモンゴル人は「黒い廃墟」と呼ぶ。農耕民と対照的なのは、モンゴル人は早くから乾燥地での開墾がもたらす環境破壊に気づいていた。たとえば、清朝末期に政府がオルドス地域へ大規模な入植と開墾を押しすすめたとき、モンゴル族は抵抗運動を展開した。そのとき、農耕を受け入れられない理由のひとつに、開墾による塩田化をあげていた。その主張は古文書のかたちでヨーロッパの宣教師たちに収集されている(Serruys 1997,'Five documents regarding salt production in Ordos',Bulletin of the school of oriental and african studies)。

私自身の経験を紹介しよう。


  1966年から1976年までつづいた文化大革命期のことである。遊牧民はすべて定住を強制されていた。我が家は身分上「労働人民を搾取した悪い階級」と断定されたため、家畜放牧の権利を奪われ、農業労働を命じられていた。多数の農民が我が家の周辺に押しかけて草原を開墾しはじめたのは1970年のことである。灌漑はなく天水に頼る農業だった。最初の年だけ収穫があった。翌1971年からは収穫が減少し、ついに1974年には政府も我が家近辺での開墾を中止せざるをえなかった。

  一度開墾され、やがて捨てられた草原にはところどころハンホクという家畜も食べない毒草だけが生長したが、大半は何もない「本当の沙漠」に化していた。我が家の周囲にふたたび牧草が生えてきたのは、1990年に入ってからのことで、緑がもどるまで10年間以上待たなければならなかった。もっとも、我が家の周辺は偶然にも成功した方で、開墾されてから、二度と緑にもどれない地域の方が多い。
  以上、私自身の調査と経験からいえば、沙漠化をひきおこしたのは農耕民であって、本来の住民である遊牧民はむしろ環境に優しい生活を営んできたのである。

2.いままでの沙漠研究の問題点と緑化運動

  黄沙が飛来する日本にとって、沙漠化は決して他人事ではないようである。たとえば、鳥取大学乾燥地研究センターは早くからオルドス地域に研究所を設置し、研究活動をつづけてきた。今日、日本人研究者は内モンゴル全域に足をのばし、活動範囲を広げている。

  日本人研究者の成果は大いに評価すべきであろう。しかし、被調査者側のモンゴルからみれば、同時に懸念せざるをえない問題もある。いくつかの事例をあげよう。

  まず、研究姿勢である。現地に行って来た研究者は現地語を学ぼうとしなかった。その結果、調査地である内モンゴルの地名のモンゴル語表記は間違いだらけである。漢語を媒介に調査がおこなわれたため、現地語表記を無視した結果となっている。

  つぎに、現地の知識を吸収しようとしなかった。現地語の修得が欠けているだけではない。公開された論文のなかで、たとえば植物名は学名しかなく、現地語でなんと呼んでいるかに関心を示さなかったようである。モンゴルにかぎらず、世界のどの民族においても複雑な植物認識体系が確立されている。モンゴルの場合、たいていの植物には二通りの名称がある。モンゴル語名とチベット語名である。モンゴル語名称は牧草利用、草原利用と関係し、チベット語名は医薬用と連動する。いわば、植物の名称に自然認識の論理が内含されているのである。現地語の表現と現地名称を無視した研究は、まさに机上の空論にすぎない。

  第三、日本人の研究成果は現地に還元されていない。学名だけをならべた論文を専門外の人は読んでも分からないし、われわれがそれらを現地語に翻訳する際にも困難が大きい。研究成果を現地に還元し、現地の自然環境の保護に有益的に消化されるためには、研究者自身が謙虚になって、現地住民の環境認識と植物利用方法を学ぶ必要がある。

  第四、日本人研究者の研究成果は悪用される恐れがあり、研究は民族文化の保護と維持を意識しなければならない。日本人による沙漠研究は、緑化も目的のひとつであるようだ。ただし、沙漠地域での緑化はすなわち農産物の栽培をどのように促進するなど、緑化=農耕開墾を意味しているような印象が強い。というのは、いかに灌漑すれば作物が生長し、何本の木を植えれば防風林となって農耕地が保護できるか、という実験が多いのではなかろうか。沙漠化を防止するためには、農耕を中止し、定住から再度移動放牧に回帰しなければならない、という発送は毛頭ないのではないか。なぜ、北・中央アジアに歴史がはじまって以来ずっと遊牧文明が発達してきたか、ということも検討しないで、ひたすら農耕をすすめる考え方の背後には、「狩猟→遊牧→農耕→都市」という発展段階論的な思想が機能しているのではなかろうか。

  中国は有史以来遊牧民を脅威とみなしてきた。遊牧民を定住させ、農耕民に改造することは、国家維持のための政策である。場合によって、あるいは結果として日本人の研究成果は、モンゴル族を定住させ、中華に同化させるという政治的な行為に利用される危険性がある。研究成果がだれにいかなるかたちで利用されるかを意識しないできた人類は、すでに代価をはらっていることを忘却してはならない。

  水さえやれば作物や草が生長する、というシンプルな発想は捨てなければならない。乾燥地での灌漑は塩田化にもなることをみこんだうえで研究をつづけてほしい。内モンゴル地域を対象とした沙漠研究は、ある意味では科学の限界を示す典型的な例のひとつでもあろう。

  毎年春になると、日本各地から内モンゴルに緑化運動の団体が出かける。モンゴル文化に触れ、コミュニケーションが促進されることは大いに結構だが、文明論に立脚した緑化運動が展開されてほしい。厳しい自然環境を破壊せずに、何千年にもわたってその地に生活してきた人々の知恵、その地に成立してきた遊牧文明を無視し、自分の出身文化をおしつける方法は改めるべきである。

3.将来への展望

  清朝末期に政府が「移民実辺」政策をうちだしたとき、モンゴル族は塩田化を理由に反対したことはすでに述べた。しかし、モンゴル族の主張は一度も受け入れられなかった。清朝が崩壊し、中華民国に入ると、政府は漢族農民の入植を奨励し、軍隊による屯田もおこなった。この時期、内モンゴル東部と中部に勢力をはっていた日本軍政権も農業活動に従事するようにモンゴル人を勧誘した。

  社会主義中国が1949年に成立すると、政府は歴史上のどの王朝よりも徹底的に遊牧民の定住化をすすめた。組織的に漢族農民を移住させるのみならず、もとからの住民モンゴル人をも人民公社というコミュニティに編入し、定住化政策を強行した。異民族を自らの生活形態に改造し、次第に同化させるという点では、いまの中華人民共和国は歴代王朝よりも成功しているといえよう。

  沙漠化の拡大という環境破壊の面でも、現在の中華人民共和国の50年のあいだの変化は、歴代王朝の累積よりも激しいのではなかろうか。例をあげてみよう。現在70-80代の老人によると、かつてのオルドス地域には沙漠性草原のいたるところに無数の水溜まりや湖、小川があったという。1960年代まで、一般のモンゴル人は井戸を掘ることはしなかった。家畜も人間も湖や河の水でじゅうぶん足りていたからである。人民公社と文化大革命を経た現在、湖や河は姿を消し、普通の井戸よりも十数メートルも深く、電気ポンプ式井戸ではないと生活できないような地域も現れるようになった。地下水位の変化を物語っている。

  1960年代までのオルドス地域には、オオカミやガゼルなどの野生動物が生息し、子どもだった私がひとりで放牧にでかけるのが怖かったぐらいだった。1970年代に入ってから人口増加にともない次第に絶滅においこまれた。

  中華人民共和国が積極的に漢族農民の入植をすすめた結果、オルドス地域をはじめ、内モンゴル各地に無数の漢人村落が形成された。漢族はどこへ移動しても農業中心の生活を営む。乾燥地域での営農は環境を破壊しただけでなく、異なる生活を送ってきたモンゴル族とのあいだで、衝突も増えるようになった。

  遊牧民を定住させる為政者側には、農業=文明化という発想が根底にある。沙漠化など自然環境の変化を考えるならば、遊牧すなわち野蛮という偏見を放棄しないかぎり、根本的な改善策は導きだされないにちがいない。無視できないのは、日本人研究者も農業的な出自を有し、遊牧生活にほとんど関心をはらわなかったということである。農業国だった日本出身の研究者たちは、どこかで中国の漢族と同様な考え方をもっているのではないか。北・中央アジアの広大な、厳しい自然環境のなかで、遊牧という生活形態が人類の一部を養ってきたことを評価し、遊牧文明に対する再認識をしなければならない。

  内モンゴル地域での沙漠化が食い止められないもうひとつの人的原因は、政府の政策が安定しないことに原因があろう。内モンゴル自治区の指導者が替わるたび、政策も変化する。牧畜や植林を重視する指導者がたまに現れても、数年後には中止されたりして、成果が実らないのが現実である。いままでに何度もあったことである。

  歴史を鑑み、とくに20世紀後半50年をふりかえることにより、われわれは将来へ向けてひとつの結論を出したい。内モンゴルにおいて農業を中止し、牧畜に重点を置くであろう。牧畜でも定住放牧ではなく、移動遊牧という原点にもどらなければ、沙漠化を防止する方策はない。遊牧こそ、沙漠化問題を解決する唯一の道である。



誰のための植林か、問われる本質問題


中国内モンゴル自治区で砂漠化防止植林を行う日本のボランティア団体は15とも、20とも言われている。これらの団体は1990年代初頭から本格的な活動を開始し、その活動範囲は内モンゴル砂地全域をカバーしている。その中、主力的な日本の海外ボランティア団体も数多く存在する。これらの団体の規模や特色は様々であるが、多様性こそがNGO、NPOの特長でもある。近年それぞれの植林活動の成果が公表され、砂漠化防止の一歩を踏み出した。砂漠化防止策においては、また試みの段階であるが、今までの活動で蓄積した成果は中国の砂漠化防止国家政策に大きな刺激を与えていることも確かである。

しかし、これらの団体の殆どは官・民の助成機関から補助金を受けて活動していると言う点で共通している。植林地における団体の活動資金はほとんどが助成機関の資金提供によるものである。確かに、一定の会員数を保持し会費収入が多いところもある。しかし、それでも補助金がないとその多くの団体は自立した活動を出来ないのが現状である。植林団体にとっては、現地における活動を継続的に行うためにいかに補助金を確保するかは大きな課題なのである。

助成機関としては、いち早く結果が出て、注目される事業に補助金を出しやすい。助成前と助成後の著しい変化、成果は審査官の目を引き、継続事業になりやすい。しかし、いつの間にか変化=成果という方程式が成り立ってしまうことも度々ある。これにより、助成先への配慮の度合いが増すに連れ、現地への配慮が追いつかないという現象が生じてくる。何のための植林か、誰のための植林であるべきか、という本質的な問題があやふやになってしっている。

現地住民は日本からの「緑の使者」を歓迎し、大きな期待を抱いている。しかし、牧草地が植林地化される現状への懐疑も隠せない。地下水が比較的豊富な牧草地での植林は、活着がよいため補助金の報告書は書きやすい。また、植林団体の誤解も少なからずある。牧民の家畜が植林地に入り込むことが植林事業実施の障害となるとしたり、強く「禁牧」(家畜の放牧を禁止し、宿舎飼育を奨励する)を訴える団体さえある。植林地の活着率を優先する植林団体と、自分の生活の糧でもある牧草地が植林地化されることに戸惑う牧民の間では砂漠化防への認識や思い入れに違いがある。昨年から内モンゴル自治区では広範にわたる放牧地の「禁牧」の政策が実施された。しかし、従来種のモンゴル五畜は宿舎飼育に適さず、牧民は家畜を手離すことを強制された。牧畜地域における家畜の激減に伴い、牧民はさらに貧困へと追いやられているのが現状だ。

内モンゴル草原の生態系はその地域によって大きく異なる。また、砂漠化の過程も多様である。灌木が多くあった牧草地のところもあれば、木が全くなかった牧草地も少なくない。歴史的に形成された砂地の砂漠化防止植林に、該当地域の自然の歴史を調査し研究することを強く薦めたい。砂漠化防止に喬木の植林は確実で早いが、従来の植物多様性の回復に灌木、牧草の回復も欠かせない。また、本来喬木がなかったところでのポプラの植林は地下水位低下、植物多様性の回復が困難になる。砂漠化防止植林は牧草回復、灌木植林を視野に入れた多様性をもつ事業として進められることが急がれている。同時に、現地住民を砂漠化防止植林の主力に導き、主役と位置づけ、現地住民本位の植林(植草、植灌木)がなされるべきである。

筆者:ボリジギン・セルゲレン(BORJIGIN Sergelen)、1971年中国内モンゴル・ホルチン生まれ、1994年内モンゴル師範大学卒業、来日。現東京大学大学院法学政治学研究科博士一年生、政治専攻。2000年5月、内モンゴル沙漠化防止植林の会(NGO)を設立、代表を務める。

(http://www2.neweb.ne.jp/wd/sergelen/desert.html )中国内モンゴル・ホルチン

砂地において、「ヒト・動植物共存モデル」地域作りに取り組んでいる。


ニッポン無名偉人伝 遠山正瑛~内モンゴルの砂漠緑化に生涯をささげた日本人~

2014年07月06日 13時44分11秒 | 中国
 昨日、「ニッポン無名偉人伝4~内モンゴルの砂漠緑化に生涯をささげた日本人」(テレビ大阪制作)が放送された。中国・内モンゴル自治区の緑化に尽力した遠山正瑛・鳥取大学名誉教授の生涯を描いたドキュメンタリー番組だった。

 遠山正瑛(1906-2004年)

 遠山が中国・内モンゴルの砂漠化をくい止めようと、内モンゴル自治区恩格貝に入ったのは偶然ではない。彼は戦前、中国(中華民国)への留学経験があり、しかも砂丘地に於ける農業が生涯の研究テーマだった。砂漠化を防ぎ、現地の農業を振興させたいというのは、農学者としての心からの願いであったろう。
 
 だが、いくつか疑問点があった。ナレーションには、次のような部分がある。

「日本からのボランティア緑の協力隊は企業や学校沙漠緑化実践協会の主催で現在…
遠山のもとに1人の男が訪ねてきた
時の…
友好のかたい握手を交わし中国政府は遠山の貢献を高く評価した
しかし遠山はこの時も作業着のまま国家主席と会見こう言った…
中国で生前に銅像が建てられたのはあの毛沢東と遠山だけ
「この銅像も農作業の長靴を履き手には砂漠緑化のシンボルスコップを持っている
遠山の希望どおりに造られた
平和につながる緑化への貢献が高く評価されたのだ
世界中でたたえられたそして…
97歳で天寿を全うした
遠山の遺骨の一部は彼の残した偉大な功績とともに恩格貝の砂漠にまかれた
記念館の中に建てられた墓には今でも日本・中国問わず多くの人々が訪れる
遠山は生前こんなことばを残していた」 


 遠山を訪ねてきた一人の男とは、当時の中共(=中国共産党)首席・江沢民。「反日」で有名な江沢民がわざわざ内モンゴルに遠山を訪ねてきたというのは、何か他に目的がなければ、あり得ない話だと思った。「中国で生前に銅像が建てられたのはあの毛沢東と遠山だけ」とは、何も知らない日本人を喜ばせるための途方もない法螺話なのではないだろうか。モンゴル人にとっては、毛沢東の銅像は「偉大な指導者」の個人崇拝を強要された過去を思い出させるはずで、気分がいいはずはない。

 モンゴル史を少しかじれば分かることだが、内モンゴル自治区(現在中国領)、モンゴル国(外モンゴル)、ブリヤート自治共和国(現・ロシア)は、かつてモンゴル人の国だった。清朝は満洲族による王朝だったので、モンゴル人、チベット人は、満洲人と対等な立場で清朝を支えていた。清朝においては漢人こそが被支配者だった。清朝は、満洲や内モンゴルへの人の移住を厳格に禁止していた。だが、清朝末期、皇帝の威光が衰えるに連れて、漢人農民が内モンゴルに違法移住を始める。中共(=中国共産党)が政権を握ってからは、内モンゴルへの漢人(漢族)農民の入植が政策的、意図的に進められた。その結果、本来、遊牧民であるモンゴル人の牧草地が開墾され、農地に変えられていく。農業は土地を荒廃させるので、牧草地であれば砂漠化しなかった土地まで、砂漠化が急速に進む。遠山が見た砂漠化の光景には、このような歴史的背景があることは間違いないだろう。

 番組で遠山の功績を称える中国人の多くは、ほとんどが漢人だったはずだ。出演した「中国人」のうち、本当のモンゴル人は、レストランで蒙古舞踊を踊った女性とホーミーを歌った男性歌手くらいではないか、とさえ思えてくる。そう、「内モンゴル自治区」でモンゴル人が、まるで観光アイヌのような扱いを受けているという光景を見てしまったような気がした。

 「日中友好」「地球環境の保護」「砂漠の緑化」…どれもケチをつけられない高邁なお話だが、もしかすると、中共(中国共産党)にとっては、善意の日本人(カモ)が葱をしょってやってくるような話なのかも知れない。この番組を単なる「感動物語」として見るだけでは、あの国の実態は何も分からない。遺憾ながら、知花くららさんは「“現地の今”を感じとって」いなかったのだ。



ニッポン無名偉人伝4~内モンゴルの砂漠緑化に生涯をささげた日本人~
              
        2014年7月5日(土)午後4時00分~夕方5時15分

内モンゴルにポプラの木を300万本植え、砂漠の緑化に尽力した遠山正瑛。その不屈の人生に知花くららが迫る。
中国・内モンゴル自治区、ゴビ砂漠にやってきた知花くらら。今回追い求めるのは、この広大な沙漠を緑化するために闘った、偉大なる日本人「遠山正瑛」。彼の口癖は“やればできる。やらなければ出来ない”。諦めることなく、前代未聞のプロジェクトに挑んだ、無名の日本人に迫ります。
• 出演者
【旅人】知花くらら
【ナレーター】窪田等
• 制作
【制作】テレビ大阪

内モンゴルの砂漠緑化を食い止めようとした園芸学者。
留学生として中国に渡った時に目にした砂漠化の状況に心を痛めて中国の緑化を決意。定年を過ぎてから中国へ渡り、その後数十年に渡って緑化に尽力。遠山の意思に賛同した日本からのボランティアは1万人を超える。
知花くららが遠山正瑛の足跡を辿りながら、
内モンゴルの生活にもふれあい、
“現地の今”を感じとっていく




天安門事件25周年雑感

2014年06月04日 19時04分04秒 | 中国
 天安門事件25周年を迎えた今日、「産経抄」は「歴史を直視すべき国」と題して、次のように結んでいる。

 歴史を直視せよ」。中国が日本批判に使う常套(じょうとう)句の一つである。「血の弾圧」を歴史の闇に葬ろうとする国こそ、その言葉にふさわしい。

 実は、1989年の天安門事件は、第二次天安門事件と呼ばれる。最初の天安門事件は、1976年4月5日、同年2月に亡くなった周恩来を追悼する集会が「反革命暴動」とされたもので、多くの犠牲者が出た。この第一次天安門事件の一週間前、天安門広場を訪れた私は、献花に訪れた「人民」の姿を今でも思い出す。そのとき、同じ場所で一週間後に未曾有の惨事が起きることなど予感させるものなど何もなかった。

 この中国・中国人の”わかりにくさ”、得体の知れないさは何か?かつて竹内実(中国文学)は中国を「得体の知れない軟体動物」のようだと記した。いま、井尻秀憲(国際関係論)は「中共一党独裁体制は、この10年以内に崩壊する」と断言する。何があっても不思議ではないが、何が起きるか分からない中国。

 歴史を直視すべき国 6月4日
2014.6.4 「産経抄]
 25年前の6月4日早朝、訪中作家団の団長として、北京に滞在していた水上勉さんは、戦車がたてる地響きで目を覚ました。天安門から300メートルほど離れたホテルの部屋から外をのぞくと、激しい銃撃が始まっている。
 ▼「くもの子のように散っては集まる若い男女。見物する町衆。発砲と命中者の死と負傷。血みどろの男を抱く血みどろの女。この世のものでない地獄風景だった」(『骨壺の話』)。
 ▼そのときに受けた衝撃も原因の一つだろう。3日後に帰国できたものの、自宅に戻ってすぐ心筋梗塞を起こし、9カ月の入院生活を送っている。前日、学生たちが現場に持ち込んだ白いシーツで作った旗は、帰ってきたときには、血に染まった赤旗となっていた。これは北京に滞在していた別の日本人の証言である。
 ▼もっとも中国のテレビと新聞は、反革命分子が鎮圧された、としか報じなかった。大多数の国民は、人民解放軍が人民に向かって無差別発砲するなどとは夢にも思わない。事件についての、報道管制は今なお続いている。死者の数が数百人規模にとどまるのか、数万人に及ぶのかさえいまだ不明という。前にも書いたが、学校で教わらないから、事件そのものを知らない若者も多い。

 ▼それでも当局は、25年目の記念日が近づくにつれて、神経をとがらせていった。天安門事件の研究会に参加した知識人たちを拘束しただけでは安心できなかったようだ。公安当局が、事件について取材している海外メディアに圧力をかけていたことが、外国人記者クラブが出した抗議声明で明らかになった。
 ▼「歴史を直視せよ」。中国が日本批判に使う常套(じょうとう)句の一つである。「血の弾圧」を歴史の闇に葬ろうとする国こそ、その言葉にふさわしい。

内藤湖南「支那論」が予見した新彊ウイグル動乱

2014年05月06日 00時14分27秒 | 中国
 先日、中国新彊ウイグル自治区・ウルムチ市で起きた爆発事件は、中国共産党(中共)政権に衝撃を与えている。習近平はこの事件を「テロ騒乱事件」と見なし、ウイグル人による反漢族運動の徹底弾圧を命じた。

 そもそも中華人民共和国の「領土」は、清朝を打倒した中華民国の版図を引き継いだもの。満洲人の王朝である清朝は、チベット仏教を通じてモンゴル、チベットとは同盟関係にあった。満洲(現在の中国東北部)は彼らの祖地であったから、漢人が移住することを許していなかった。新たな領土を意味する新彊は清朝時代に版図に組み入れられたが、清朝の統治はそこに居住するウイグル人の伝統、文化を脅かすものではなかった。

 本来、漢人の領域ではなかったチベット、モンゴル、ウイグルが「ひとつの中国」に組み入れられるようになったのは、辛亥革命によって清朝が打倒され、中華民国が樹立されてからだ。中華民国は、伝統的な華夷秩序に基づく少数民族の領域を近代国民国家の「領土」として読み替え、「中国はひとつ」「ひとつの中国」という虚構を打ち立てた。第二次大戦後の混乱期、ソ連の援助を得て「革命」に成功した中共は、この虚構を引き継ぎ、共産党一党独裁の過酷な暴政で少数民族を抑圧し続けている。

 今から百年ほど前、内藤湖南は「中華民国承認について」(1912年)という時評を書いている。「支那論」所収の一文であるが、現在の中共の少数民族支配を見越したような分析の鋭さに驚かされる。

内藤湖南「支那論」

 湖南は章炳の「中華民国解」という一文に着目して次のように論じる。

「…支那種族というものの発展の歴史から結論して、そうしてどこの地方までがこの中華民国に入るべきものであって、どういう人種は中華民国から除いても差し支えないものであるということを解いておるのである。」
「…章炳麟の議論は、漢の時の郡県であった所を境界として論究すると、蒙古や、回部すなわち新彊や、西蔵(チベット)地方というものは、これは漢の領土には入らなかったから、これを経営することは後回しにしても差し支えない。しかし朝鮮の土地は、これは漢の版図に入っておる。安南もやはり同様である。…これらの土地をも恢復することは、中華の民族の職分である。」

「西蔵や回部すなわち新彊、これは明の時にただ王を冊封したに過ぎなかったが、漢の時などはやはり都護(周辺民族を支配するための軍事機関)に附属しておったけれども、真の属国ではない。殊に今の新彊は、漢の時にあった三十六国とは違う。それから蒙古は昔から一度も服従したことはない。それでもしこれらの種族に対して、中華民国が支配することの前後を考えるということになれば、まだ西蔵の方は宗教が同じだから近い点もあるが、回部とか蒙古とかいうものは少しも支那民族と同じ点がないから、中華民国の領域から考えると、…西蔵、回部、蒙古、これは服従してくるなら来てもよし、服従せぬならせぬもよし、勝手に委すべきものである。こういうことを主張しておる。」

「中華民国というものを承認するということは、いくらかこの中華民国が理想であった時代の主張をも承認するという傾きになるのであるから、章炳麟の議論を知っておる国は必ずそのまま承認すべきはずはない。日本が既に現在朝鮮を支配しており、それから安南(ベトナム)はフランスが支配しており、ビルマはイギリスが支配しておる。そういうものに対して中華民国が必ずこれを恢復すべきであるというようなことは、今日の列強の均勢上甚だ不穏当な言論である。」
 

  文中の「中華民国」を「中華人民共和国」に置き換えても、湖南の分析は、今なお通用する。戦後、1970年代に至るまで、多くの中国研究者が「1949年、中国は”新中国”に生まれ変わった」と主張し、その根拠として中共(中国共産党)当局お墨付きの資料を鵜呑みにしていた事実を思い返すと、戦後日本は内藤湖南に匹敵するような中国学者を誰ひとり生み出さなかったのだと痛感する。




支那論 (文春学藝ライブラリー)
内藤 湖南
文藝春秋

中共政権は10年以内に崩壊する!?

2013年11月11日 23時43分31秒 | 中国
 さきほど、ネットを検索していたら、「中国共産党 3年以内に崩壊」という記事を見つけた。(下記参照)
 香港の「辺境」という雑誌の記事をロシアの「プラウダ」などが引用したため、そこそこの話題になっているようだ。

 私がいま聴講している大学の授業(東アジア国際関係論)でも、同じような話題が採り上げられた。中国政治分析の大家であるI先生は、「習近平の5年間はなんとか持ちこたえるとしても、10年ほどで中共(=中国共産党)政権は崩壊する」と何度も強調された。

 天安門広場でのウイグル人の抗議自殺や山西省・太原市の中共・山西省党委員会前の爆発事件は、数ある争乱の一つに過ぎず、中国社会の矛盾と混迷はますます深まっているという。共産党官僚の腐敗、少数民族問題、都市・農村戸籍の分断問題が、中国のアキレス腱だとされる。戸籍の問題を例にとっても、順次、農村戸籍を都市戸籍に移行させていくとしても、少なくとも1億人は、この”恩恵”に浴すことはできないと言われている。もし日本政府が「東アジア共同体」を進めようものなら、この一億人が日本になだれ込んでくるかも知れないとI教授は話された。

 私は、このI教授の炯眼を信じて、10年後の中共政権崩壊をこの目で見届けたいと思っている。

 昨日発売されたVoice」12月号には、『「死」して日台の運命を拓くとき』という李登輝氏インタビューが掲載されている。これは、すでに90歳を超えた李登輝氏の最後のメッセージになるのかも知れない。

 それにしても、独裁国家である中華人民共和国が崩壊したとしても、「親日」的な中国が出現することなど、ほぼ考えられない。「中国はひとつ」を標榜する「中華民族」主義が無くならない限り、中国は依然として日本や台湾にとって脅威であり続けるだろう…と思う。
 

「中国共産党、3年以内に崩壊」香港誌が衝撃の分析 旧ソ連のプロセスに酷似 2013.11.09

 中国共産党の重要会議、第18期中央委員会第3回総会(3中総会)が9日、北京で開幕した。経済政策を軸に中長期の改革路線が示されるというが、経済失速が指摘され、テロが多発している同国に、そんな余裕があるのか。中国事情に詳しい作家の宮崎正弘氏によると、香港誌が最近、「中国共産党は3年以内に崩壊する」との衝撃的分析を掲載したという。

 3中総会を狙ったように山西省太原市で発生した連続爆発事件で、公安当局は8日、同市に住む41歳の男を拘束した。自宅から手製の爆破装置などを押収。男は容疑を認めているという。

 習近平指導部としては事件の早期解決をアピールした形だが、宮崎氏は「毒ギョーザ事件もそうだが、本当の犯人かどうかは分からない。テロ事件がこれだけ続く背景は、中国が分裂を始めているため。ロシア紙プラウダ(英語版)は今週、『中国共産党は3年以内に崩壊する』という香港誌の記事を紹介していた」といい、続ける。

 「記事によると、『2014年に経済が崩壊し、15年に共産党の秩序が破壊され、16年に社会全体が昏睡状態に陥る』と分析している。理由として、(1)経済的苦境と海外へのカネの逃避(2)不動産バブルの瓦解(3)影の銀行(シャドーバンキング)問題の爆発(4)地方政府の債務不履行-を挙げ、旧ソ連の崩壊プロセスに酷似するとあった」
確かに、IMF(国際通貨基金)も先月、「中国で不動産バブルが崩壊すると、貸倒損失が最悪300兆円規模に上る」と警告。中国人民銀行も昨年、「1990年半ば以降、汚職官僚や国有企業幹部の国外逃亡数は1万6000~1万8000人」との試算を公表した。中国の富裕層が海外に不法に持ち出した資産は約260兆円に達したともいわれる。

 香港誌の報道直後、同地の有力紙がこの分析を否定したというが、とても、GDP(国内総生産)世界2位の国家とは思えない。

 前出の宮崎氏は「中国共産党の一党独裁が揺らいでいる。共産党の高級幹部を養成する中央党校では『このままでは党は崩壊する』と講義している。習国家主席は各軍管区を回って『贅沢はやめろ』『戦争準備をしろ』とハッパをかけているが、軍は面従腹背だ。習主席が反腐敗闘争などで締め付けすぎて、反発が出てきているようだ。党崩壊もあり得る」と語っている。

朱建栄は今どこに?

2013年08月15日 08時03分46秒 | 中国
 朱建栄・東洋学園大学教授(中国政治)が上海に帰国中、行方不明になったと伝えられている。(下記参照)
 
 この朱建栄教授は、20年以上も前、「毛沢東の朝鮮戦争」(岩波書店 1991年)で学界デビューした。
 


 当時、岩波書店が中国人学者(中華人民共和国出身の学者)の著作を出版することは稀だったので、私も興味を持って読んでみた。現在、岩波現代文庫に収められている同書は、初版当時とは異なり、かなり加筆削除がなされているようだ。

 当時の私は、秘密のベールで閉ざされていた中国側の資料が使われているという事実に興味をひかれ、中国の学界も「改革開放」が進んでいるのだなあと感じた。同時に朱建栄という人物は、中国社会科学院に属するような大学者かと思っていた。というのも、岩波書店の権威主義はよく知られているように、無名の学者をいきなり登用して、出版させるようなマネは絶対にしない。学界権威、学界主流のお墨付きと岩波の「社風」が合致して初めて出版が実現する。朱建栄が30代の若手学者で、しかも学習院大学の学位論文(法学博士=政治学)がこの「毛沢東の朝鮮戦争」として出版されたのだと知ったとき、やはり驚きを禁じ得なかった。岩波書店が出版するくらいだから、学界権威からも承認された、やはり「名著」なのだろうと思った読者は数多くいただろう。処女作が岩波書店から発刊されたという”破格の”出来事は、朱建栄という人物が、学界やマスメディアで名を売るために、大きな援護射撃になったはずだ。

 ほどなくして朱建栄教授は、マスメディアに頻繁に露出するようになる。座談会形式の「政治討論会」「朝まで生テレビ」のような番組では、中国側の立場に理解を求めるような言説を繰り返す朱教授を見て、ある疑問が湧いた。この人は、日本の学界やマスメディアの世界で、中国政府の意向を代弁するために日本に送り込まれた人物ではないかと

 その後、朱建栄=スパイ説は、ネット上をかなりにぎわした。スパイの定義は難しいけれども、朱建栄の名がここまで知られるようになったのは、日本学界デビュー時の岩波書店のバックアップ、さらにはマスメディアをにぎわすようになってからは、彼を起用するTV局側の意向があったはずで、それらの根底にあるのは「中国筋」(中国政府の圧力)に対する迎合あるいは服従ではないのか?
 スキャンダルが大好きな民放ワイドショーが何故、「TVでお馴染みのあの中国人学者が失踪?」と騒ぎ立てないのか。ニュース報道でも、全く続報がないのは何故なのか?これ以上、詮索されたくない事情があり、「中国筋」が圧力をかけていると見るのが自然ではないか。


 おそらく、朱建栄の本性を最も熟知しているのは、石平氏(拓殖大学客員教授)ではないだろうか。石平氏は中国共産党による一党独裁に反対して、中国籍を棄て日本人となった。朱建栄とは全く反対の立場にあるが、それ故に朱の背景をご存じのはずだ。

 今回の失踪は、中国という独裁国家の底知れぬ闇、日本に送り込まれた中国人学者・研究者の黒い背景を思い知らされる一件だった。無名の研究者だった朱建栄を華々しく学界デビューさせた岩波書店は、彼の著作を何冊も出しているが、もし彼が「スパイ」だと分かったら、どう対処するつもりなのだろうか。「ゾルゲ事件」の尾崎秀実の著作を今も出版する岩波書店。スパイ活動や国際謀略に関しては、相当な経験をお持ちのはずだが…。

 
東洋学園大の朱建栄教授が行方不明 上海訪問後に

 【上海=金順姫】東洋学園大学教授で中国人の研究者、朱建栄氏(56)が、上海訪問後の7月から、連絡が取れない状況になっている。同大広報室の相川徹人部長は9日、「家族や大学と本人との間で連絡が取れず、行方がわからなくなっている。非常に心配している」と語った。中国当局に拘束された可能性もある。

 同大によると、朱氏は7月17日ごろ上海を訪れ、22日ごろ日本に戻る予定だった。上海出身の朱氏は華東師範大学を卒業し、1986年に来日。東洋女子短期大学助教授などを経て、東洋学園大教授。中国人学者らでつくる日本華人教授会議の代表も務めた。
                                 (朝日新聞)

【産経抄】8月10日

 真夏のミステリーである。流暢(りゅうちょう)な日本語を操り、ひところはテレビや雑誌などにひっぱりだこだった中国人の朱建栄・東洋学園大教授が、上海で忽然(こつぜん)と姿を消した。先月下旬の話である。
 ▼事件や事故に巻き込まれたのなら、何らかの連絡があるはずだが、まったくないという。現時点では「中国当局に拘束された」との説が最有力だが、彼は中国当局が忌み嫌う「人権活動家」では、さらさらない。
 ▼朱さんは、メディアで「中国は軍事大国ではない」と嘘八百を言い、尖閣問題でも天安門事件でも常に中国共産党の立場を擁護し続けた。日本人だけでなく、在京中国人の一部からも「当局の代弁者」とみなされてきたからこそナゾなのである。
 ▼ただ、テレビなどでの発言が、本心からのものであったかどうかは本人しか分からない。昭和61年に来日した彼は、中国人研究者の顔役的存在で、日中両国に幅広い人脈を持っていた。それがゆえに「二重スパイ」の疑いがかけられたとすれば、両国関係は抜き差しならぬ段階にきている。
▼中国公船による尖閣諸島周辺の領海侵犯は、日増しにエスカレートし、先日は冒険家と称する男のヨットまで挑発行為に加わった。あさってから北京で予定されていた民間主導の「東京-北京フォーラム」も中国側の都合で延期になった。
 ▼8月15日を前に、中国がゆさぶりをかけているのは明白である。靖国神社に首相が参拝しなければ、日中首脳会談が実現し、尖閣への挑発もなくなる、との甘いささやきは、いつもの罠(わな)である。靖国に参拝し続けた小泉純一郎首相の時代には、日中首脳会談などしなくても何の支障もなかった。ある日突然、人間が消えてしまう国を、これ以上つけあがらせてはならない。



中国研究の第一人者 竹内実氏死去

2013年08月02日 10時26分13秒 | 中国

 今朝、新聞を開いたら、竹内実氏の訃報が目に入った。享年九十。大往生だった。

 他の新聞の訃報にも目を通したが、現代中国研究、毛沢東研究の第一人者という点では「朝日」から「産経」まで一致している。これは文化大革命から開放改革を経て現在の中国に到るまでの時の流れを実体験している者にとっては、驚異的なことである。20、30歳代の人はご存じないだろうから記しておくと、現代中国研究という世界(というよりムラか…)は、「ひとつの中国」(中華人民共和国か中華民国か)を巡る踏み絵の場という感じで、部外者には一種異様な世界に見えた。

 特に文化大革命の評価を巡っては、これを評価するものと、否定するものとまっぷたつに分かれた。安藤彦太郎、新島淳良、菅沼正久等々の「日中友好人士」(中国側に立つ左翼学者)は、文革を「魂に触れる革命」だと誉めそやした。一方、中嶋嶺雄、衛藤瀋吉、石川忠雄などのリアリスト政治学者、柴田穂(産経新聞)は、真っ向からこれを批判した。

 このときの竹内実氏の立場は、微妙なように見えた。竹内氏自身は、中国文学者で「支那」の古典から近代中国文学まで造詣が深く、政治的な事象よりも中国人そのものを理解すべき対象として見据えていたように思えた。この時以来、竹内実氏は、現代史、政治史を含めた、総合的な「現代中国研究」を志向していく。それは左翼の薄っぺらい中国研究者では到底なしえない壮大さだった。最近、氏の回顧録を読んでいたら、新島淳良が「僕は貴方と対決する」と言って、氏をにらみつけたというエピソードを見つけた。新島淳良は、当時、早大政経学部教授(中国語)で、毛沢東を礼賛する新左翼の思想的リーダーとか言われ、文革を礼賛する大言壮語を書き散らしていた。その後大学紛争が収まると、新島は早大にいられなくなり、「ヤマギシ会」に入退会を繰り返し、哀れな末路を終えた。

 竹内実氏が書かれたこのエピソードは、左翼学者新島の学問的な力量は竹内氏に遠く及ばず、これを嫉妬した新島が陰に陽に妨害をしたと読みとれる。進歩的な左翼学者などというものは、大言壮語の割には、実は「小人」であり、嫉妬深い存在なのだと、今になればよく分かる。

 新島や安藤彦太郎のような左翼学者は、中国当局からお墨付きを得た資料以外は使わないという連中だった。(新島は、後にこれに関連するトラブルで中国当局から「破門」されるが…。)
だが、「毛沢東選集」を例にとれば、毛沢東の言説は「学問」でも「研究資料」でもなく、当面の政治闘争のための指針なので、状況に応じて次々と書き換えられてきた。左翼学者はこのことを知りつつも、中国当局がお墨付きを与えていない文書については、論評も引用も避けてきた。
 竹内実氏が手を付けたのが、この毛沢東選集の原典を明らかにする作業だった。中国・中国人に対する深い洞察力がなければ、到底なしえない作業だったといえる。この点について、訃報には次のように書かれている。

毛沢東の重要著作を集めた「毛沢東選集」の内容に疑問を持ち、初出時の雑誌やパンフレットなどの原文や選集に未収録の文章を丹念に調査。その成果をもとに70~80年代に編さんした「毛沢東集」全20巻は、以後の毛沢東研究に不可欠の書として国際的に高い評価を得た

 戦前の中国、そして戦後日本の中国認識の変遷を知る大学者が去っていった。誰も時の流れには抗えない…。

 

竹内実氏死去 京大名誉教授竹内実氏

 豊かな文学的感性と鋭い歴史認識を駆使した中国近現代史研究の第一人者で京都大名誉教授の竹内実(たけうち・みのる)氏が7月30日、京都市内の病院で死去した。90歳。中国山東省出身。葬儀は近親者のみで行う。(8面に関連記事)
 幼少期を中国で過ごした後、19歳で東京に移り、二松学舎専門学校で漢文学を学んだ。京大文学部から東京大大学院に進み、東京都立大助教授として研究生活を送ったが、学園紛争の混乱を機に辞職。1973(昭和48)年に京大人文科学研究所助教授となり、教授を経て86年から1年間、所長を務めた。退官後は立命館大教授や北京市の日本学研究センター教授を歴任した。専門は現代中国論、中国文学。  (京都新聞)
 毛沢東の重要著作を集めた「毛沢東選集」の内容に疑問を持ち、初出時の雑誌やパンフレットなどの原文や選集に未収録の文章を丹念に調査。その成果をもとに70~80年代に編さんした「毛沢東集」全20巻は、以後の毛沢東研究に不可欠の書として国際的に高い評価を得た。文化大革命を批判的に考察した論文「毛沢東に訴う」(68年)も話題になった。
 魯迅(ろじん)の研究でも知られ、著書「周樹人の役人生活-五四と魯迅・その一側面」では文学と歴史の接点を独自に解析し、中国近代史研究の新境地を切りひらいた。2001~06年には日本人として初めて中国で個人全集「竹内実文集」10巻を刊行した。「毛沢東 その詩と人生」(共著)、「中国 歴史の旅」など著書多数。本紙夕刊「現代のことば」を79~88年に執筆した。(京都新聞)


中国研究者の竹内実さん死去 毛沢東論など記す


 毛沢東論などで知られる現代中国研究者で京都大学名誉教授の竹内実(たけうち・みのる)さんが死去した。90歳だった。葬儀は近親者で行う。後日、竹内さんが顧問を務めた「現代中国研究会」(代表=吉田富夫・佛教大名誉教授)がしのぶ会を開く。
 1923年、中国山東省生まれ。京都大学文学部卒、東京大大学院修了。東京都立大助教授だった70年、大学紛争に嫌気がさして辞職。73年から87年まで京大人文科学研究所で教授や研究所長などを務めた。同年から94年まで立命館大教授、その後も北京日本学研究センター教授、松阪大学教授などを歴任した。
 19歳までの中国生活で培った滑らかな北京語の能力が研究のベースとなり、現代中国文学の紹介に努めた。60年の安保闘争下に作家の野間宏氏らと訪中。日本の反安保闘争を評価する毛沢東との会見記「毛沢東主席との一時間半」を、感動的な筆遣いで発表した。65年には「毛沢東―その詩と人生」(武田泰淳との共著)を発表。いずれも話題になった。
 文化大革命には懐疑的で、68年の論文「毛沢東に訴う」では、近代中国の屈辱の歴史を終わらせた毛を評価しつつ荒廃を生んだ文革を批判した。毛の人間的魅力への共感は失わず、その後も「毛沢東の生涯」「毛沢東」などを著し、06年には編著「漢詩紀行辞典」を出し、注目された。
 晩年には中国が「中華世界」であることを強調して、安易な中国理解を戒めた。天安門事件でも学生擁護のムードが強かった日本の論調に対して、学生の自重を求めるなど距離を置く姿勢をとった。
 著書はほかに「魯迅(ろじん)遠景」「現代中国の思想」など。
     ◇
 《親交のあった吉田富夫・佛教大名誉教授(中国文学)の話》 中国の文学や歴史など個々の分野の専門家は多いが、竹内さんは現代中国を総体で捉えることができた万能選手のような研究者だった。研究の基礎には中国で生まれ育った体験や高い語学力があった。座談の名手で、私たちの思い込みを意表をつく発想でひっくり返した。亡くなられたことは寂しく、残念でならない。
                           (朝日新聞)

満鉄「あじあ号」の悲鳴

2013年04月08日 09時51分40秒 | 中国
 今朝の「産経新聞」に「満鉄”あじあ号”の悲鳴」(下記参照)という記事が載っている。

 5年ほど前、私も大連で「あじあ号」を見た。その時撮したのがこの写真。



 写真では分かりづらいが、「あじあ号」が「保管」されていた倉庫は所々窓ガラスが割れ、「あじあ号」の車体もいたるところ錆び付いていた。その時感じたのは、「あじあ号」が長い間野ざらしに近い状態で放置されてきたのだろうということだった。「日帝」が支配する「偽満州国」を「解放」したのが中国共産党だとする「中共史観」からすれば、「あじあ号」は反日のシンボルでしかない。往時「あじあ号」が世界に誇る高性能のSL、夢の超特急だったという事実など、彼らにとってはシャクの種でしかないのだ。

 この新聞記事によると、「あじあ号」は日本人観光客に観覧料を取って見せるために、大連のボロ倉庫に「展示」されていた。だが、中国の反日運動が影響して、日本人観光客が激減してしまった。そこで瀋陽に移転して、「反日教育」の材料に使うのだそうだ。

 一昨日、BS朝日で放送された「ぐるり台湾鉄道旅 知られざる鉄道遺産を求めて」※では、彰化にあるSL車庫で台湾鉄道の関係者が「日本がこんなに素晴らしいSLを遺してくれてありがとう」と言うのを見たばかり。花蓮の公園では日本統治時代のSLがピカピカにきちんと保存されているのをこの眼で確かめた。

※ http://www.bs-asahi.co.jp/gururi_taiwan/

 中国と台湾のこの落差は、何に起因するのか。それを探ることが、歴史の真実を知ることになると思うのだが…。


満鉄「あじあ号」の悲鳴 上海支局長・河崎真澄
2013.4.8 08:00 「産経新聞」
 「大連に行ったが、昨年12月14日付の記事にあった蒸気機関車は探し当てられなかった。所在地を教えてほしい」。神奈川県座間市在住の男性読者(64)の方から、東京本社読者サービス室に問い合わせの電話があったのは、2月27日のことだった。
 その記事とは、本紙朝刊に掲載された記者(河崎)のルポ「中国・大連、満鉄『あじあ号』を牽引(けんいん)した“新幹線のモデル”」。80年近く前、満州(現在の中国東北部)で南満州鉄道(満鉄)特急「あじあ号」を引っ張った機関車が、遼寧省大連の鉄道修理工場の片隅で、錆(さ)びるにまかせ、ひっそり置かれていた現場を取材した内容だ。
 確認しようと大連に電話したところ、工場の職員が「あの機関車なら昨年暮れに急に運び出され、瀋陽の鉄道陳列館に移送されたよ」と教えてくれた。記事から2週間ほどで機関車は大連から消えていた。
 1932年の満州国建国後、34年に首都の新京(現在の吉林省長春)と大連を結ぶ特急あじあ号が誕生。斬新な流線形デザインの機関車「パシナ」が牽引した。満鉄製造のパシナ12両のうち2両が現存する。大連の1両は、もう1両が保管されている瀋陽の陳列館で顔をそろえるのだという。
 大連では日本人観光客に1人50元(約760円)で見学させていたパシナだが、日中関係悪化で客足がぱったり止まり、工場にとっては“お荷物”となっていたことを考えれば、しっかりした施設が年老いた機関車を保存してくれるなら喜ばしい。
だが、陳列館の男性担当者は、日本人記者からの電話に、「大連から届いた機関車は整備中。いまは改装のため閉館しており展示時期は未定だが、当館はあくまでも愛国主義教育の基地だ」と言い放った。
 中国において満州国は、日本による傀儡(かいらい)国家「偽満州国」と教育される。鉄鋼や炭鉱などにも事業を広げた満鉄が、日本の満州経営の中核だったことを考えれば、2両の機関車は中国からみて“傀儡”の物的証拠とも映り、反日教育の材料にもなる。
 遼寧省瀋陽は満州時代に「奉天」と呼ばれた。28年6月、軍閥の総帥だった張作霖が列車爆破で死亡したのは奉天郊外の柳条湖でのこと。その後、31年9月、満州事変が勃発(ぼっぱつ)する。瀋陽は因縁の地でもある。
 ならば、愛国主義教育基地は何を教えるのか。上海で抗日戦争をテーマとした「上海淞滬(しょうこ)抗戦記念館」を訪ねると、猖獗(しょうけつ)を極めた抗日戦として、目を覆いたくなるような写真や資料が延々と展示されていた。
 唐磊(とうらい)館長によれば、見学者は年間20万人以上。その7割は地域の小学生から高校生で、授業の一環として見学する。「子供らに『歴史を忘れるな』と教育し、抗日戦を戦った高齢の元兵士の証言もまとめる。さらに中国共産党の小学生向け下部組織の入隊式もここで行う」のだという。
 実際に抗日戦を戦ったのは、蒋介石率いた中国国民党軍が大半だったはずだが、ここでは共産党が前面に押し出され、いわば共産党中央宣伝部が指揮する政治宣伝(プロパガンダ)の最前線となっていた。
一党独裁を続ける共産党が「抗日戦争に勝利した結果、49年に中華人民共和国を成立させ、いまの中国の繁栄がある」ことを政権の基盤にすえる以上、愛国主義教育と抗日、反日は表裏一体といっていい。
 満鉄OBらが戦後設立した「満鉄会」の事業を継承した満鉄会情報センターの天野博之常任理事は、「瀋陽の鉄道陳列館は以前から原則として、外国人には公開されていない。中国の国内向けとはいえ、『あじあ号』が反日教育に使われるとすれば不本意であり、残念だ」と話している。
 満州の大地を疾走した「あじあ号」の機関車パシナ。悲しげな汽笛が聞こえてくるようだ。(かわさき ますみ)
 



「ぐるり台湾鉄道旅 知られざる鉄道遺産を求めて」>(BS朝日 2013.4.6放送)

俳優・大和田獏が様々な国を鉄道で“ぐるり”と一周する旅の第2弾!
今回は台湾を巡り、およそ120年に及ぶ台湾鉄道の歴史に想いを馳せます。

日台にまたがる鉄道の深い歴史…。
その起源はおよそ120年前。日本統治時代に軍事輸送を目的とした線路が敷かれたのを原点に、製糖・炭坑・森林鉄道など数々の産業鉄道が建設され、鉄道の発展と共に、台湾の経済は発展して行ったのです。一つ一つの線路には歴史があり、統治時代の名残りがあり、開発に携わった人の物語があります。

そして今なお、そんな「鉄道遺産」ともいうべき、かつての趣を色濃く残す駅舎・車両・線路などが台湾には数多く眠っているのです。俳優・大和田獏がそんなタイムスリップの旅に出かけ、「知られざる」日台の歴史と鉄道文化に触れていきます。
そして鉄道旅の道中、出会うのは台湾の“絶景”。ユネスコに加盟していない台湾ですが、実は「世界遺産」の候補となりうる絶景の数々が眠っているのです。台湾のナイアガラといわれる “十分大瀑布”、長年の風化や海により浸食されてできた大自然の石彫芸術“野柳の奇岩”、大理石でできた台湾随一の絶景スポット“太魯閣溪谷”、さらには数100万灯のランタンが灯る台湾最大の“ランタン祭り”など、日本では目にすることのない景色が獏さんを待っています!



「リヴォフのオペラ座」の中嶋嶺雄

2013年02月22日 10時34分32秒 | 中国
 2月14日、中国研究の第一人者として知られた中嶋嶺雄氏が死去した。享年76。国際教養大学学長・理事長として、同大学を目覚ましい発展に導いたことでもよく知られているので、各新聞・メディアでは数々の弔意記事が寄せられている。

 
 私は、中嶋嶺雄氏の講義や講演を聴いたことはないが、その著作の多くには触れてきた。1960年代後半から70年代前半にかけて、中国大陸では「文化大革命」の嵐が吹き荒れた。「中華人民共和国」は事実上の鎖国状態だったので、「文化大革命」に関する情報は極端に限定的だった。加えて、「中華人民共和国」(中共Mainland China)と「中華民国」(台湾)のどちらが「一つの中国」を代表する政府であるかという、「正統性」をかけた争いが行われていて、日本国内の学者・研究者はその影響を受けて、まっぷたつに割れている状態だった。民間の社団法人「中国研究所」に関係する大学教授・研究者は、中華人民共和国政府が発行する公文書以外の情報を使って中国大陸の実態を研究することは、「反中国的行為」であるとして、相手を攻撃した。安藤彦太郎、新島淳良、菅沼正久等々である。今から思えば噴飯モノのお話しが当時はまかり通っていた。

 だが、中嶋嶺雄氏の処女作「現代中国論」は、目次を見ただけで、「日中友好派」の左翼学者とは全く違っていることが分かった。毛沢東や中国共産党を特別視することなく、日中友好という願望に流されることもなく、極めて冷徹に中国情勢を分析していた。こういう学者は数少なく、私の記憶では石川忠雄(慶應大学)、衛藤瀋吉(東大)、竹内実(都立大)くらいではなかったか。

 と長々と書いてしまったが、中嶋氏の著作で最も印象に残っているのが、自伝的なエッセイ集である「リヴォフのオペラ座」(1991年)。この本から引用したと思われる記述がウィキペディアに次のように書かれている。

「1953年、清水中学校を卒業し、松本深志高校へ進学。高校入学後、父の経営する薬局の資金繰りが行き詰まり、一人で製薬会社へ直談判に行くが、未成年のため応じてもらえず、債権者に家財一式を渡すこととなった。
 当初は、父の後を継いで薬剤師になるために理科系へ進むつもりであったが、家業が暗転したことで世の中の矛盾に気付きマルクス主義に目覚め、社会科学を学ぶために文系へ進路変更した。失恋の影響で高校卒業後、一年間浪人。社会主義革命の息吹に燃えていた中国を専攻したいという思いから、東京外国語大学の中国科を受験して合格する。入試の面接(当時は入試に面接があった)では、「なぜ外大を選んだのか」という質問に対し、「串田先生(串田孫一)がおられるから」と答えた。また、語学をフランス語で受験したが、受験者中最高点だったという」


 「リヴォフのオペラ座」の中には、債権者と交渉するために、東京都八王子市近郊の恩方村(当時)を訪れたことが書かれている。「信濃毎日新聞」の「私の履歴書」では、次のような記事が見られる。

 『…高校へ入学して間もなくの夏、父の経営する薬局が行き詰まってしまった。開業して25年、手広くやっていたのだが、父の根っからのお人よしが災いし、資金がうまく回転しなくなっていた。
 「結局、金融業者に家屋敷を渡すことになりました。父は寝込んでしまいノイローゼ状態。つらかったですね。でもこのままではいけない。何とかしなくてはと真剣に考えました」
 そこで高校1年生の身でありながら一人で製薬会社に直談判に行った。八王子の郊外の恩方村まで大正製薬の担当者を訪ねた。親身になってくれたが、結局は良い返事が得られなかった。
 「恩方村というのは夕焼けの美しい所で、その日もとても素晴らしかった。それに比べて、社会の壁は暗く、家業の危機をめぐって見られた人の心はなんと醜いものかと思いました」』


 たまたま私の父(故人)がこの地域の郷土史家をしていたので、心当たりはあるか尋ねてみたが、結局分からなかった。家業の破産と失恋という苦い体験から、「中国」(中国語)を専攻したいと考えた、その志の高さには驚く。凡人だったら、もっと実利的な分野を選んだのかも知れない。

 中嶋氏の死去に李登輝氏が弔意を表したことが伝えられた。中嶋氏と李登輝氏の絆は、「ひとつの中国」という虚妄を否定する一点で堅く繋がっているように思われる。早い死が惜しまれる…。



李登輝元総統、中嶋氏死去で非常に残念

(台北 19日 中央社)
 
台湾の李登輝元総統の個人事務所は19日、肺炎のため14日に76歳で亡くなった国際教養大学(秋田市)の中嶋嶺雄学長の家族に、李氏が当日中に電話で哀悼の意を伝えていたことを明らかにし、親友の訃報に心を痛め非常に残念に思っていると李氏の心境を伝えた。

中国研究の第一人者として知られる中嶋氏は、東京外語大学学長などを経て、2004年に国際教養大学の初代学長に就任。李登輝氏とは李氏が総統職にあったころからの深い付き合いで、2000年には共著「アジアの知略」を発表している。
写真:2000年2月 退任を控えた李登輝総統(右)から大綬景星勲章を授与される中嶋嶺雄氏


中国のそばにあるのは日本の不幸?(続)

2012年08月23日 21時02分20秒 | 中国

 一昨日の「産経抄」に対して、「人民日報インターネット版」が即座に反論※した。こういうやりとりが珍しいのか、いつものことなのか、私は寡聞にして知らないが、「人民日報」の「反論」記事のトーンには、懐かしい響きがある。

※ http://j.people.com.cn/94474/7921147.html

 そう、共産党一党独裁のメディアというのは、いつもこういう書き方しかしないのだ。
 それにしても、「日本の反中分子に言わせれば、中国のそばにあったことはどの点から見ても日本の不幸なのだ。幸い、歴史は特定の新聞社が書くものではないし、ましてや特定のメディアの特定のコラムで簡単に改竄できるものでもない。歴史には正しい道理、理性、良知が自ずと備わっている」とは、よく言ったものだ。

 日本の反中分子という言い回しも陳腐。中国共産党は、こうやって敵対分子にレッテルを貼り、闇に葬ってきたのだろうと思い起こさせる言葉だ。チベットを武力併合し、新彊ウイグルを漢族の植民地としてきた。内モンゴル、満州も同様。自分たちの”暗黒の歴史”を少しは顧みたらどうか、と言っておく。

 もしチベットやウイグル人が「子曰く、君子は坦として蕩蕩たり、小人は長く戚戚たり。理性と良知がない心は必ず歪んでいる。歪んだ心は必ず陰気で、バランスを失し、人に罪をなすりつけ、隣人との関係がうまくいかないのである」という結語を読んだら、 それは中共(=中国共産党)、お前達自身のことだろう、と悲憤慷慨することは間違いない。

                      中国のそばにあるのは日本の不幸?

 

日本の産経新聞は21日付の1面コラム「産経抄」で、大学教授の「冗談」を借りて「日本の不幸は中国のそばにあることだ」と指摘した。コラムは日本の反中分子の「上陸」が引き起こした中国の青年の反日デモについて、中国の若者の反日感情は中国政府の反日教育の結果だとしている。コラムはこの教授の著書『中国「反日」の源流』を引用し「中国の反日デモは1910年代に始まった。反日の原因は明・清以来の両国の社会構造の違いにあるが、最近の反日デモは貧富の格差拡大への不満が引き起こしたものだ。反日は口実に過ぎず、日本の不幸だ」と指摘。さらに「日本は経済力を建て直し、防衛力を強化して、中国に対抗すべきだ」としている。解放日報が伝えた。

産経新聞のロジックはこうだ。もし中国の若者が釣魚島(日本名・尖閣諸島)の侵奪・占拠という日本の行為に対してなんら反発しなければ、日本は不幸を感じない。もし中国の貧富の格差が縮小すれば、中国の若者は釣魚島への日本人の上陸に反対しない。もし1910年代に反日運動が起きなければ、現在も反日運動はない。こうなれば日本も幸せだ--。

まさしく「君が何も説明しなければ私はまだわかるが、君が説明すればするほど私にはわからなくなる」というやつだ。釣魚島に日本人が上陸してもなお中国人に憤りを表明させないとは、まさか「私がお前の右頬を打ったら、左頬を向けろ。それでようやく私は幸せだ」とでも言うのか?デモの原因を貧富の格差とするにいたっては、ますますわけがわからない。まさか貧富の格差が縮小すれば、主権は放棄できるとでも言うのか?それならば日本は貧富の格差が大きくないが、なぜ領土への野心はかくも大きいのだ?筆者の見るところ、産経新聞は1910年代の事に言及したことで、かえって歴史と現実を偶然正視することになった。当時、2つの出来事が起きていたからだ。1つは「対華21カ条要求」で、日本は中国を滅ぼそうとした。もう1つはパリ講和会議で、日本は山東省を窃取しようとした。産経新聞が中国の反日運動がこの2つの出来事に端を発すると指摘したことは、日本による釣魚島占拠が「対華21カ条要求」や山東省窃取と性質が瓜二つであると認めたに等しい。産経新聞が不幸だと感じるのも無理はない。日本は手に入れたいものを得ていなかったのだ。

日本のそばにあった琉球王国は、「処分」されて日本の一部となった。同じく日本のそばにあった韓国は日本に「併合」された。この両国がそばにあったことは、日本にとって実に幸運であったようだ。一方、中国がそばにあったことはそれほど幸運ではなかった。なぜなら中国が近いために日本は漢字文化の薫陶を受けざるを得なかったが、もしそうでなければずっと文字のない蒙昧で無邪気な時代を続け、中国文化を経ずに直接欧米文化を導入でき、後に明治の教育家・福沢諭吉の呼びかけた中国という「悪友」の謝絶、「脱亜入欧」の過程を省けたからだ。1930-40年代、日本は中国を侵略して放火・殺戮・略奪を行った。中国には防ぎ止める力がなかったので日本は侵略の罪名を背負い、現在にいたるもこれをそそぎようがない。これも日本の不幸だ。

米国は日本に原子爆弾を2発投下した。1発は広島、もう1発は長崎で、20万人が即死した。後に日本では米国に敗れたのは幸運だったとの声が上がった。これはもちろん、米国が日本の軍国主義時代を終らせたことを指摘している。だが、米国中心の極東国際軍事裁判で断罪されたA級戦犯を祀っているにも関わらず、米国が靖国神社参拝について知らないふりをしていることを理由に、幸運だったと感じる日本人もいる。特に最近米国は、戦時中に米軍の爆撃で死んだ「疎開者」の慰霊のために日本の政治屋が釣魚島に行くことにも沈黙を保ち、さらに日本に武装を促し、「島嶼奪還」演習を行っている。一部の日本人はこれをなおさらに幸運と感じている。一方中国について考えると、中国人は日本の戦争孤児を慈しみ育て、大人になると日本に帰しもしたのに、孤児たちは中国で不幸な目に遭ったと考える日本人がいる。中国は日本に戦時賠償金を要求しなかったが、これについて反中分子は日本政府の過ちだと言う。良心の上で負い目を背負うようになったことが日本の不幸だと言うのだ。

要するに、日本の反中分子に言わせれば、中国のそばにあったことはどの点から見ても日本の不幸なのだ。幸い、歴史は特定の新聞社が書くものではないし、ましてや特定のメディアの特定のコラムで簡単に改竄できるものでもない。歴史には正しい道理、理性、良知が自ずと備わっている。子曰く、君子は坦として蕩蕩たり、小人は長く戚戚たり。理性と良知がない心は必ず歪んでいる。歪んだ心は必ず陰気で、バランスを失し、人に罪をなすりつけ、隣人との関係がうまくいかないのである。

 

 

「人民網日本語版」2012年8月23日

 


日本の不幸は中国のそばにあること!?

2012年08月21日 20時56分57秒 | 中国

 今日の「産経抄」(下掲)はなかなか興味深かった。
 中国近代史の岡本隆司氏(京都府立大学準教授)が授業で「日本の不幸は中国のそばにあることだ」と言うと、必ずその言葉に食ってかかる中国ファンの学生がいたそうだ。十数年前の話だそうだが、私の記憶ではそれより前でも大して事情は変わらなかった。

 大昔、文化大革命を礼賛した安藤彦太郎、新島淳良という教授が、早稲田大学政経学部にいた。この二人の場合、「日本は中国に学ばないことが不幸だ」とでも言いたげに、文革中国を誉め続けた。マスメディアの連中に親中国感情が強かったのは、こういう左翼教授の授業を受け、真に受けたからだろうと思えてならない。

 尖閣諸島を中国領だとする著書を著した井上清(当時・京都大学教授)ほかの親中国言行録は、次のブログに詳しい。 
http://www.wengewang.org/read.php?tid=20428



 一昨年、ある大学で「東アジア国際関係史」を聴講したが、団塊の世代に属するS教授は、上述の岡本隆司氏と同様のことを話していた。最初は中国にシンパシーを感じて研究を志したが、この何十年間で中国の意のままに「歴史認識」が変えられていったことを口惜しく思っているようだった。

 「歴史認識」なんて、かなりいい加減な話で、どうとでも言える。毛沢東時代の中国は、日本の支配階層と人民は別であるという立場をとり、感情的な「反日教育」は行わなかった。だが、江沢民時代からは、「中華愛国主義」と表裏一体の「反日教育」を行い、大陸中に「反日感情」を蔓延させた。

 日中の際だった違いは、日本ではどんなことがあってもナショナリズムの昂揚が許されておらず、日の丸を掲げただけで「右翼」扱いされる。これは、敗戦国故のトラウマでもある。一方、独裁国家の中国では、共産党批判は絶対禁止であるけれども、「反日」の意思表示は「愛国主義」として許容されるということだ。この見事なまでの行き違い。

 結局、こんな国が隣にあることが不幸、というのは、極めて自然な思いとなる。

 

産経抄】8月21日

2012.8.21 03:17 産経抄

 「日本の不幸は中国のそばにあることだ」。中国近代史を専門とする岡本隆司さんが十数年前、大学の授業で冗談めかして言うと、「何でそんなひどいこと言うんですか」などと食ってかかる、中国ファンの学生が必ずいたそうだ。

 ▼香港の活動家による、沖縄県・尖閣諸島への不法上陸をきっかけに起こった中国の反日デモは、4日後の日本人上陸のニュースを受けて、20都市以上に飛び火した。日本車を破壊したり、日本料理店のガラスを割ったり、一部の参加者の乱暴狼藉(ろうぜき)は、相変わらずだ。

 ▼岡本さんの「冗談」は、もはや当たり前すぎて、口にすることもなくなった。中国の若者が「反日」に走るのは、江沢民総書記時代の徹底した反日教育を受けてきたからだ、との指摘がある。もっとも反日デモ自体は、1910年代からあった。

 ▼岡本さんは、『中国「反日」の源流』(講談社)のなかで、その由来を明・清の時代以来の両国の社会構造の違いにみている。為政者が民衆の生活にある程度関わっていた日本に対して、中国の支配者は、税を取り立てたあとの人民の暮らしに興味を示さなかった。いわゆる「西洋の衝撃」の受け取り方が大きく異なったのもそのせいで、相互の理解不足が近代の対立と破局につながったというのだ。

 ▼最近の反日デモは、経済格差などに対する若者の怒りの「はけ口」になっている、との見方がある。今秋の第18回共産党大会を控え、胡錦濤政権の対日政策を批判して勢力拡大を図る、党内左派の姿も背後に見え隠れする。

 ▼歴史的経緯に加えて、一党独裁体制の矛盾を映し出す「反日」に、日本は振り回されてきた。経済を立て直し防衛力を強化して、対峙(たいじ)するしかない。


ピアノ協奏曲「黄河」(原典版)を聴く

2012年06月17日 13時41分22秒 | 中国

 先日「ブック・オフ」で買ったNaxosのCDで「ピアノ協奏曲 黄河」を聴く。この曲は、中国の「文化大革命」期、毛沢東の妻・江青によって賞賛された。伝統文化を破壊し尽くした「文革」の中から生まれた「あだ花」のような曲と言える。

 
 
(「黄河 協奏曲 ・原典版」 Naxos S.554499 1991年)

 1974年頃だと思うが、NHKの招聘で中国中央楽団が来日し、このピアノ協奏曲を演奏した。指揮は、李徳倫、ピアノは殷誠忠(いん・せいちゅう)だった。私は、NHKホールでこの演奏を聴いた。
 1976年、毛沢東が亡くなり、江青を含む「四人組」が失脚するに及んで、この曲の演奏はタブーとなった。 だが、北京オリンピックの開会式では、思いもかけずこの曲が使われていて、私はその感想を書いたこと※がある。

※ 
http://blog.goo.ne.jp/torumonty_2007/e/188d175cfe299fe12f2266056e95299f

 話はそれたが、ピアニスト・殷誠忠は、「四人組」との関係を問われて、海外に脱出。その後の消息は、あまり伝えられなかった。
 
 Naxosの「黄河」は、まさにこの殷誠忠によるピアノにスロバキア放送交響楽団が伴奏している。1990年、スロバキアの首都・ブラティスラバの録音だから、この頃まで彼は現役として活動していたことを知る。ブックレットによれば、殷誠忠は1941年生まれだから、もう71歳。いま健在かどうかは分からない。

 若き日の殷誠忠の演奏を、下の映像で見ることができる。これは「黄河」の第四楽章「黄河を守れ」だが、毛沢東を讃える楽曲「東方紅」が使われていて、個人崇拝の昂揚を見て取れる。
 だが、Naxosの「黄河」は原典版と断りが付いていて、この映像よりもずっと穏やかな印象になっている。これならば、今聴いても、なんとか聴ける。

 この曲を聴いた70年代には、「黄河を守れ」という言葉は、「中華民族」よ団結せよという意味だと理解していた。だが、今になって知るのは、チベット、ウイグル、内モンゴルなどの広大な少数民族地域を含めて、漢族が優越的に支配する「ひとつの中国」を目指そうというスローガンだったということだ。
 殷誠忠のピアノは、文句なしに素晴らしい。だが、これまでのいきさつを振り返ると、何とも苦々しい思いがする。 


「世界ウイグル会議」と中国の核心的利益

2012年05月14日 23時42分38秒 | 中国

 東京で開催中の「世界ウイグル会議」に対して、中国政府が神経をとがらせている。今晩の「プライム・ニュース」(BSフジ系列)を見ていたら、凌星光・中国社会科学院教授が「新彊ウイグルは中国の核心的利益」、「中国はまだ完全な独立国家ではない。何故なら台湾がまだ解放されていないから」と言い放った。「世界ウイグル会議」の開催については、「日本政府の友人には東京で開催しないように働きかけた」と言論弾圧を試みたことを自ら広言した。
 
 中国は、新彊ウイグル、チベット、台湾の領有を「核心的利益」と位置づけている。ベトナム、フィリピンと紛争になっている南沙、西沙諸島についても、核心的利益であるとすでに広言している。昨年、ベトナム研究の専門家から話をうかがったとき、「もし、中国政府が尖閣諸島を核心的利益と位置づけたら、それは日本にとって深刻な事態になる」と話された。
 
 ところが、つい最近、温家宝首相が「尖閣諸島は中国の核心的利益」だと言明したという報道が伝えられた。ついに尖閣諸島問題が、台湾やチベット、ウイグルと同列の核心的利益になったわけだ。核心的利益とは、中国にとって死活的な意味をもつ権益のことであるから、これが確保されなければ、武力行使を含むあらゆる手段に訴えることが正当化される。
 漁船一隻の体当たりにさえ、発砲ができなかった海上保安庁だから、今後、中国の海上監視船なるものが出動してきたら、どうするのか? 強硬手段を辞さない相手に海上保安庁、自衛隊が対抗できるのか? 遺憾ながら「平和憲法」に呪縛された自衛隊には、おそらく何もできないだろう。

 マスメディアは、「尖閣問題で、温家宝首相は中国の領有権を主張した」などというおざなりの報道をしないで、中国の言う「核心的利益」についてもっと詳しく視聴者に説明すべきだろう。事態は、想像以上に深刻なのだから。


 

世界ウイグル会議:議長、中国式人権を批判

毎日新聞 2012年05月14日 22時58分(最終更新 05月14日 23時28分)

 14日開幕した亡命ウイグル人組織「世界ウイグル会議」(本部ドイツ・ミュンヘン)の代表大会で、ラビア・カーディル議長は「中国式の人権という理論は中国人ですら受け入れられなくなっている。民族問題を解決しない限り、中国が国際社会で地位を確立させることは不可能だ」と訴えた。

 17カ国約125人のウイグル人活動家が参加し、約20のメディアが取材。新華社など中国メディアも訪れた。

 04年設立の同会議は3年に1度、代表大会を開いており、アジア開催は初めて。カーディル議長は日本開催の理由を「(中国に近い)アジアの強い民主国家で支援が期待できるため」と述べた。17日まで。【石原聖】



中国は「中華帝国維持に耐えられるのか」

2012年03月23日 08時04分07秒 | 中国

 私の友人の中には、「産経新聞」など読まないと広言する人がいる。そういう人に限って、「朝日」を購読し、権威ある「岩波」の本を愛読する。ある意味では、思考回路が戦後民主主義の妄想で絡め取られ、現実を見られなくなった、気の毒な人とも言えるだろう。そういう私も実は、何年か前までは、その一人だったのかも知れない。
 
 3月11日付「産経新聞」の「正論」欄に渡辺利夫・拓殖大学学長(アジア経済論)が、「中華帝国維持に耐えられるのか」という一文(下記参照)を寄稿している。
 ここでは、戦後の日本人に植え付けられてしまった「中国はひとつ」という強迫観念が、実はさしたる歴史的な根拠などないものだということが明らかにされている。

  

中華帝国維持に耐えられるのか 渡辺利夫

 

中華帝国維持に耐えられるのか

拓殖大学学長・渡辺利夫

 

 ◆漢族王朝の興亡は壮大な神話

 日本人は中国についてある壮大な「神話」に呪縛されているのではないか。ユーラシア大陸の広大な国土の上に巨大な漢族社会が形成され、ここを舞台に幾多の王朝が盛衰し悠久の歴史が紡がれてきたという神話である。

 四方を海で囲まれ外敵の侵入を受けることなく同一の国土の中で同質社会を営んできた日本の歴史は、歴史教科書が教えるような時代区分にしたがって順次展開されてきたといっていい。しかし、そうした日本史の「刷り込み」によって中国史をみては危うい。

 中華人民共和国は清(大清帝国)の後裔(こうえい)である。清は漢族王朝の明を倒した満族が打ち立てた、外来政権である。康煕帝、雍正帝の時代を経て乾隆帝の時代に最盛期を迎えた。モンゴル、新疆ウイグル、チベットなどはこの時期に清に組み込まれ、中国史上最大の版図となった。面積で測れば清は明の3倍に近い。

 モンゴル族、ウイグル族、チベット族は人種、宗教、言語において漢族とはまるで異質である。清を樹立したのが遊牧騎馬民族の満族であり、その支配下で異民族が清の中に包摂された。そういう歴史の骨格を眺めるにつけても、日本史の感覚からは及びもつかない茫漠(ぼうばく)たる世界がここにはある。

 この中国を中国たらしめたものは、1つには、新たに君臨した満族が儒学と漢字を重用し伝統的な科挙制度を導入するなど、熟度の高い漢族文明に同化したからである。2つには、清が伝統中国において根強い「華夷秩序」を希薄化させ、異民族に包容的に対応したことが重要性をもつ。

 ◆外来の満族が築いた一大版図

 華夷秩序とは、「礼」に基づく道義の序列において中心部にあるのが中華であり、中華から外方に向かって同心円的に広がり、外縁に位置する民族ほど序列が低いとみる価値観念である。明はこの華夷秩序を原理主義的なまでに高めた王朝であった。対照的に、清は人種、宗教、言語の多様性を容認する「分治的」な対応をもって異民族支配に臨んだ。清の皇帝はチベット仏教、イスラム教の保護者でもあった。

 そうでなければ、あれほど広大な国土と多様な民族を包含する一大版図を築くことはできなかったからだ。古代ローマ帝国がそうであったように、である。要するに清は漢族と満族との、また彼らと異民族との政治的妥協の上に成立した凝集力の弱い政体であった。かつての中国とは巨大で茫々(ぼうぼう)たる存在であったといっていい。

 この中国を強固な政治的統合体へと変容させたものが「西洋の衝撃」である。アヘン戦争以来、国土が西欧列強により蚕食されていく悲劇を目の当たりにして、自らも列強の主権国家観念を導入し、堅牢(けんろう)な統一国家たらざれば将来はないとする危機意識に中国はようやく目覚めたのである。

 華夷秩序と並ぶ伝統中国の秩序観念に「冊封体制」がある。「華」の礼式に服し、その見返りに王位や爵位を与えられて民の統治を委ねられるという固有の国際秩序観念である。朝鮮とベトナムなどが冊封体制の下におかれた。しかし清仏戦争と日清戦争での敗北により冊封体制は消滅を余儀なくされた。孫文の辛亥革命によって清が崩壊したのは、その存在意義が失(う)せてしまったからである。

 ◆五族共和は漢ナショナリズム

 新たに擁すべきは、近代国際法秩序に則(のっと)った政治的凝集力をもつ主権国家であった。凝集力をつくりだすものはナショナリズムである。孫文の唱導する「五族共和」がそのスローガンであったが、内実は「漢族ヲ以テ中心トナシ満蒙回藏四族ヲ全部我等ニ同化セシム」、つまりは「中華」ナショナリズムであった。中華ナショナリズムが主権国家内の異民族の自立を許容するはずがない。現在の共産党政権のスローガンも「中華振興」である。他方、同化政策が強まるほど、分治に親しんできた異民族の方に独立志向が強まるのも他面の政治力学である。

 暴力によって抑圧されたチベット族の怨讐はますます深く彼らの心中に埋め込まれている。2009年ウイグル暴動は当局の発表で197人、亡命ウイグル族の世界ウイグル会議の報告では3000人の死者を出す惨劇となった。ウイグル族はトルコ系イスラム教徒が圧倒的多数を占める。

 北アフリカや中東のイスラム諸国であたかも感染症のごとく広がりつつある反体制運動は、いずれ中国の異民族にも伝播(でんぱ)しよう。独裁政権打倒を叫ぶ北アフリカ民衆の姿を描き出す海外サイト映像がチベット族、ウイグル族の間で出回り始めたという。胡錦濤政権の神経も昂(たかぶ)っていよう。

 異民族を暴力で抑え込んで中国は文字通りの帝国主義国家となったが、「帝国維持のコスト」はいよいよ高い。コストを支払うには高成長が必要だが、これも限界に近づきつつある。それに、ほどなくやってくる少子高齢化の社会的負担ひとつを取り上げてみるだけでも、財政的余裕など枯渇し始めれば、一瞬のものに過ぎない。(わたなべ としお)
3月11日付産経新聞朝刊「正論」


辛亥革命100周年

2011年10月10日 04時59分41秒 | 中国

 今日は「辛亥革命100周年」の記念日。中華民国(台湾)の建国記念日(双十節)でもある。
 1911年(辛亥の年)のこの日、清朝の支配に抵抗する武力蜂起が起こった。これに大きな役割を果たしたのが、孫文。孫文は「三民主義」を唱えたことで知られるが、同時に「ひとつの中国」という虚構をふりかざした張本人でもある。
 
 大陸では「「ひとつの中国」を巡って、中国国民党と中国共産党の暗闘が繰りひろげられた。両者は相容れない二大勢力と考えられているが、清朝が遺した最大版図を「中国」だとして継承し、漢民族中心の「中華大国」を目指した点では、ほぼ一致している。

 皮肉なことに、「辛亥革命100年」は、本家である台北よりも北京で盛大に祝われた。


(北京・人民大会堂で開かれた「記念辛亥革命100周年」大会)

 この大会では、死亡説まで伝えれた江沢民が登場し、胡錦濤が「ひとつの中国は孫文の願いだった」と演説した。
 プロレタリア文化大革命などの動乱をリアルタイムで覚えている者にとっては、まさに夢(悪夢?)のような出来事だ。あの狂気の時代には「孫文」など一顧だにされなかった。「毛主席万歳!」以外のあらゆるものが禁じられ、知識や理性は悪とされ、無知であることが賞賛された。まさにこの時期に、現在の「大中華」「中華愛国主義」の土壌がはぐくまれたのだった。ウイグル、チベット、モンゴルなどの少数民族地域を漢民族の領域に組み込み、彼らを抑圧することで成り立つ、新たな「中華帝国」。孫文は、本当にこんな国家を目指したのだろうか?
 中共(=中国共産党)は、史実を都合よく歪め、歴史を簒奪する存在であることがよく分かる。
  
 
 意外にも、中国国民党(KMT)のニュースでは、辛亥革命について、極めて冷静に報道がなされている。
 日本のマスメディアは、「産経新聞」を除いては、台北の報道を無視しているが、私などは、このKMTのニュースの方が、ずっと客観的で真実を伝えていると思う。

 

辛亥革命100年を両岸が各自表明

 

ニュースソース:台北の各新聞

2011103

 

台湾海峡の両岸が辛亥革命100周年に直面して、それぞれ各種のイベントを計画している。しかし、同じように辛亥革命100周年を記念しながら、両岸のアピールの主軸は全く異なっている。台湾は201211日に中華民国建国100周年を「慶祝」する。また辛亥革命を中華民国創建に導いたとして1010日を国慶節にして慶祝している。中国は辛亥革命100周年を「記念」して、中華振興、民族復興を掲げる。

 

両岸には辛亥革命100周年に対して「慶祝」と「記念」の主軸がそれぞれあるが、これは両岸の歴史観の違いであり、中国は中華民国が存在している事実を具体的に直面しようとしないことに起因している。従って、複雑で解決が難しい歴史の課題、並びに敏感に対立する政治的テーマについて、双方は極力歴史の解釈権を取得しようとしているが、現実の情勢から見て、「辛亥革命100周年を各自が表明する」局面からは抜け出せそうもない。

 

中国共産党は孫中山(孫文)氏を「革命の先駆者」と呼び、孫文の未亡人宋慶齢さんを籠絡して中国人民政治協商会議副主席を担当させた。そして彼女の臨終の際には、「中華人民共和国名誉主席」の称号まで与えて、孫氏に対する礼を遺憾なく表した。しかし、中国共産党は辛亥革命100周年で、革命の精神を還元することはなく、現実の政治目的に着眼している。

 

王毅氏は最近孫文氏が述べた「統一は中国国民全体の希望であり、統一できれば全国の人民は幸福になれる。統一できなければ、害を受けることになる」を引用している。王毅氏の意図は両岸関係に対して啓発を生む作用を期待してのことだが、辛亥革命100周年で、中華民国建国100年という歴史的事実と政治の現実を無視した場合、両岸に対する啓発は自ずと制限を受けることになる。

 

なぜなら、中国共産党の辛亥革命100周年記念は、中国のネットワーク上で討論する辛亥革命100周年、民国等の題材が追従されている現象があるからだ。あるネット愛好者は、「民国時代が今より自由で民主的だったことを今知った!」、「当時毛沢東や共産党が現在の環境で共産党運動を行ったら、早くに銃殺刑にされていただろう」と述べている。

 

また、中国が最近辛亥革命100周年と民国の題材を追従しているのは、辛亥革命という事件を追従しているのではなく、辛亥革命が追求した民主自由の精神を追従するためだと述べるネット愛好者もいる。