喜多由浩著「北朝鮮に消えた歌声~永田絃次郎の生涯」(新潮社 2011年)を読む。
昨年、韓国で刊行された「親日人名辞典」に金永吉(1909-1985)という名前が載っているという。韓国で「親日派」というレッテルを貼られることは、今なお社会的な「死」を意味するほど重大なことだ。本人が死んでもなお、その一族は「親日派」という汚名を着せられて生きなければならない。これが二十一世紀の出来事とは思えないが、事実なのだ。
韓国でブログを開設している韓国人から、最近、次のようなメールを受け取った。この人は、韓国の「反日教育」は間違っていると主張している希有の人だ。
「韓国は日本に感謝しなければならない。
しかし、学校で強力な反日教育を受けます。
私は日本が嫌いでした。私は子供の時に日本人は悪魔だと思っていました。
しかしあるとき、その教育が間違いだと分かりました。
教科書に書いてあるのが根拠のない嘘だと分かりました。
私はショックで少し精神的に不安定になりました。
何を信じていいのか分からなくなって、誰も何も信じることができなかったでした。
韓国の教育は間違っています。
しかし、幼いころから、学校で学んだことを否定し、
正反対のことを受け入れることは容易ではありません。
天動説を信じている人が、地動説を受け入れないのと同じです。
私はひとりでも多くの韓国人に、真実を知ってほしい。
間違っていることは天動説で、正しいことは地動説だと。
しかし、文字だけで理解してもらうのは困難です。
だから映像を探しています。
日本に韓日併合時代の映像はありますか?」
話が脱線したが、上述の金永吉という人物は、日本名が永田絃次郎※。陸軍軍楽隊出身のテノール歌手だった。陸軍軍楽隊の後輩には、團 伊玖磨、芥川也寸志もいた。
※ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E7%94%B0%E7%B5%83%E6%AC%A1%E9%83%8E
永田絃次郎は、日本人として敗戦を迎える。だが、戦後の混乱期に現在の朝鮮総連との関係を深め、1960年、「帰国事業」で一家六人とも北朝鮮に渡る。帰国後、4年間ほどは、華々しい「活躍」が伝えられたが、その後消息不明となる。消息が明らかになったのはつい最近で、1985年、肺結核で死去していたことが明らかにされた。これは、ある種の「名誉回復」だと理解されているようだ。
北朝鮮では「帰国者」として異端視され、韓国では「民族の歌切り者=親日派」と目される。そして日本では、とっくに忘れ去られた存在。これほど数奇な運命を辿った音楽家は極めて稀だろう。
著者は次のように記す。
『1909年に生を受けた金永吉少年にとって、”物心がついたころ”には、すでに周囲は「日本」であった、ということだ。…戦前から戦中にかけて、永田は軍部に協力し、「内鮮一体」のスローガンや、朝鮮人志願兵を集めるための宣伝映画にも出演している。軍歌の吹き込みも極めて多い。それを理由に韓国では、いまだに「親日派」として糾弾されている。だが、日本語をよどみなく話し、何のコンプレックスも感じていなかった永田が、軍部に協力したのもまた、「ごく自然な感情」ではなかったか。当時の永田にとっては、まさしく「日本」が自分の国だったからである。」(pp.39-40)
「日本」が祖国だと思っていたことを誰が責めることができるだろうか? いま、韓国が続けている「反日教育」には、歴史を直視せず、ないものねだりを言い募る幼児性を感じざるを得ない。
永田絃次郎は、日本にいた方がずっと幸せだったに違いない。日本人だった奥さんの不幸は、考えるのも辛いほどだ。
![]() |
北朝鮮に消えた歌声―永田絃次郎の生涯 |
喜多 由浩 | |
新潮社 |