13日付の「産経新聞」の連載「旧制高校 寮歌物語」※に興味深い記事を見つけた。「台湾に息づく日本の教育」がそれ。
私が5年前、台北の「二二八紀念館」でボランティア解説員・蕭錦文(しょう きんぶん)氏にお会いしたとき、真っ先にいただいたのが「教育勅語」の写しだった。蕭錦文氏は酒井充子監督のドキュメンタリー映画「台湾人生」にも登場する、台湾の日本語世代のひとり。何故、彼が自費で印刷してまで、来訪する日本人に「教育勅語」を配るのか、そのとき私には理解できなかった。「教育勅語」と言えば、戦前の「暗黒時代」を象徴する「皇民教育」の道具のように教えられてきたからだ。
だが、蕭錦文氏の説明は次のようなものだった。
「日本時代がよかったのは、日本の教育がよかったから。蒋介石がやってきたとき、台湾人は台湾と大陸の文化程度の落差に驚いた。日本の方がずっと進んでいたから」と。
共産党一党独裁の中国を「ひとつの中国」の代表として奉る「朝日新聞」的な思考にどっぷりと浸かってきた私には、蕭錦文氏の言葉は衝撃的でもあった。
さすがに「産経新聞」は、史実をありのままに伝えようとしている。以下の記事は、今度台北に行くときのために、ぜひ頭に入れて置こうと思った。
※ http://sankei.jp.msn.com/life/news/130113/edc13011309550002-n1.htm
23)台湾に息づく日本の教育
2013.1.13 09:51
旧制高校の教育について語る台北高同窓会会長の辜寛
■再建された「六氏先生」碑
『芝山巌(しざんがん)事件』(別項)のことは日本人よりも台湾人の方がよく知っている。
日清戦争で台湾の領有権を得た日本は早速、教育制度の整備に取りかかった。1895(明治28)年、台湾総督府学務部長心得に就任した伊沢修二(1851~1917年、「唱歌の父」としても知られている)は近代教育制度を整備するため、台北北郊の丘陵(芝山巌)に学務部を移し、台湾人子弟を対象とした学堂を開く。中島長吉ら6人が渡台し、教師(学務部員)となった。
だが、統治開始翌年の正月、伊沢が日本へ一時帰国中にショッキングな事件は起きてしまう。事件を悼み総督府は芝山巌に当時の首相、伊藤博文が揮毫(きごう)した「学務官僚遭難の碑」を建て、後には6人の教師(六氏先生)を祭る芝山巌神社を設けた。毎年2月1日の芝山巌祭には、小学生らが参拝に訪れる習わしになっていたという。
戦後、大陸から台湾に乗り込んできた国民党政権によって、神社は打ち壊され、碑は倒され赤ペンキで汚された…。ここまではよくある話である。ただ、台湾の人々は、近代教育をもたらした日本人の功績を忘れてはいなかった。長いときを経て学堂の後身にあたる地元小学校の同窓会らの尽力によって、碑は再建され、六氏先生のお墓も整備されたのである。
ラジオ台湾のキャスター、潘扶雄(はんふゆう)(1933年~、旧制台北二中-台湾師範大学)は、芝山巌祭に行ったり、「六氏先生」の話を母親から聞かされたことをよく覚えている。「私の先祖は六氏先生から最初に教えを受けたひとりでした。先生方は台湾に略奪に来たのではなく教育のために来たのです。『功績をたたえてどこが悪い』という気持ちが台湾人には強かった。碑の再建を申請し、何度却下されても諦めませんでした」
小さな学堂からスタートした日本の教育は、台北だけを見ても統治2年後には早くも最初の小学校を開設。1931年には小学校・公学校19校、児童数は約2万5千人に達した。上級学校では中学校、高等女学校、実業学校、医学専門学校、師範学校、そして、台北高等学校(1922年設立)、台北帝国大学(同28年)をつくり、台湾人にも高等教育への門戸が開かれたのは前回書いた通りである。
潘扶雄は言う。「日本のことがタブーだった時代も台湾の人々は、日本がつくった教育制度について『感謝』の気持ちを忘れなかった。それを最初にもたらした『六氏先生』のことは、台湾のインテリなら、まず知らない人はいませんよ」
■台北高の歴史示す資料室
旧制台北高の校舎は現在、台湾師範大学となっている。潘扶雄が卒業した学校だ。2009年6月、師範大の図書館に「台北高等学校資料室」が開設された。
日本語版のパンフレットにはこうある。《台北高等学校の校風であった『自由自治』の精神は、台湾師範大学が定めた学訓『誠正勤樸』に受け継がれ、今も昔も時代の先端を担う学生の精神的支えとして輝きを放ち続けています》。つまり、校舎だけでなく、台北高の精神も引き継いだというわけだ。
資料室には、台北高時代の写真や資料がところ狭しと飾られている。《卒業生の中には、台湾と日本における発展と交流に多大な貢献をした人々が、多数います》として、元総統の李登輝や作家の邱永漢など著名な卒業生の顔写真で壁が埋められ、黒マントに白線帽をかぶった生徒の人形まである。
かつて日本が統治した国や地域で、こんな資料館があるのは、おそらく台湾をおいて他にないだろう。
■「自由の鐘」を復元
師範大には1982年に破損するまで、かつて台北高で使われていた「自由の鐘」があった。高等科設置時の台北高校長、三沢糾(ただす)(1878~1942年)がアメリカの農場で見つけ持ち帰った大小2つからなる洋風の鐘で、1920年代半ばに設置されている。「カラン、コロン」という心地よい鐘の音は授業の開始、終了時に響き渡り、台北高関係者だけでなく、周囲の住民たちにも長く親しまれてきた。
昨年秋、台北高の90周年を祝う記念大会に合わせて、「自由の鐘」を復元し、同校開校日の4月23日にお披露目されることが明らかにされた。OBらが資金を集め、富山県の鋳造会社に発注し、製作中。その中心となっているのが、台北高同窓会会長である辜寛敏(こかんびん)(1926年~)だ。台湾を代表する実業家のひとりで、“華麗なる一族”としても知られている。
父親の辜顕栄(こけんえい)(1866~1937年)は実業家、政治家で、日本統治時代、台湾人唯一の貴族院議員。異母兄の辜振甫(こしんぽ)(1917~2005年)は実業界で活躍、政府の重要なポストにも就いた。長男のリチャード・クー(1954年~)は著名なエコノミストである。辜寛敏自身は日本で長く、台湾の独立運動にかかわった。
辜寛敏は、1944(昭和19)年、旧制台北三中から台北高に入っている。「戦争の時代でしたが、台北高の校風は、本当に自由でおおらか。中学時代が厳しかったから、『こんなに自由でいいのか』とびっくりしたぐらい。街の人たちもとてもよくしてくれた。(台北高の)帽子をかぶっているだけで信用が違う。兄貴が高等学校に通っている女学生たちにとっては自慢のタネでしたね」
2年に進級するとき、辜寛敏は図らずも、寮に入ることになった。授業の態度などが悪いとして「落第」と判定されたところを、万葉学者である教授の犬養孝(1907~98年)が「態度が悪いだけなら寮で人格を磨けばいい」として、入寮を条件に進級を認める“助け舟”を出したからである。
「悔しくて入寮を断ったボクに犬養先生は珍しく怒ってこう諭してくれた。『2年で軍隊に行くと見習士官になれるが、1年のままなら兵隊だ。軍隊でそれがどんな意味を持つのか分かるだろう』ってね。でも寮に入ってよかったですよ。やはり高等学校の本当の雰囲気は、寮に入らないと分からない。寮歌もよく歌いました」
ただ、台北高が廃校になってからすでに70年近い。日本と同じく、台湾の若い世代にとっても旧制高校の存在はほとんどなじみがない。なぜいま、旧制高校の教育などが見直されようとしているのだろうか。
辜寛敏はこう思う。「戦後、日本の教育は『平等』を柱とするアメリカの制度をそのまま取り入れてしまったが、社会の期待に応えるためには平等だけではダメ。国を動かすエリートを養成せねばならないが、今のリーダーは“粒が小さく”感じられて仕方がない。『自発的な勉強』も高校で学んだが、今は試験に受かるための勉強ばかり。教育は『技術』ではなく、『人間教育』が大切。日本も台湾も課題は同じですよ」=文中敬称略(台北で 文化部編集委員 喜多由浩)
◇
【用語解説】芝山巌事件
日本が台湾統治を開始した年の翌1896(明治29)年正月、台湾総督府学務部員の6人の教師らが土匪(どひ)に襲われ、惨殺された。まだ日本統治への反発が強かった時代のことで犯人は、抗日分子であるとか、金目当ての強盗ともささやかれたが、真相は定かではない。事件は台湾独自の唱歌『弔殉難六氏の歌』や『六氏(士)先生』に歌われている。
私が5年前、台北の「二二八紀念館」でボランティア解説員・蕭錦文(しょう きんぶん)氏にお会いしたとき、真っ先にいただいたのが「教育勅語」の写しだった。蕭錦文氏は酒井充子監督のドキュメンタリー映画「台湾人生」にも登場する、台湾の日本語世代のひとり。何故、彼が自費で印刷してまで、来訪する日本人に「教育勅語」を配るのか、そのとき私には理解できなかった。「教育勅語」と言えば、戦前の「暗黒時代」を象徴する「皇民教育」の道具のように教えられてきたからだ。
だが、蕭錦文氏の説明は次のようなものだった。
「日本時代がよかったのは、日本の教育がよかったから。蒋介石がやってきたとき、台湾人は台湾と大陸の文化程度の落差に驚いた。日本の方がずっと進んでいたから」と。
共産党一党独裁の中国を「ひとつの中国」の代表として奉る「朝日新聞」的な思考にどっぷりと浸かってきた私には、蕭錦文氏の言葉は衝撃的でもあった。
さすがに「産経新聞」は、史実をありのままに伝えようとしている。以下の記事は、今度台北に行くときのために、ぜひ頭に入れて置こうと思った。
※ http://sankei.jp.msn.com/life/news/130113/edc13011309550002-n1.htm
23)台湾に息づく日本の教育
2013.1.13 09:51
旧制高校の教育について語る台北高同窓会会長の辜寛
■再建された「六氏先生」碑
『芝山巌(しざんがん)事件』(別項)のことは日本人よりも台湾人の方がよく知っている。
日清戦争で台湾の領有権を得た日本は早速、教育制度の整備に取りかかった。1895(明治28)年、台湾総督府学務部長心得に就任した伊沢修二(1851~1917年、「唱歌の父」としても知られている)は近代教育制度を整備するため、台北北郊の丘陵(芝山巌)に学務部を移し、台湾人子弟を対象とした学堂を開く。中島長吉ら6人が渡台し、教師(学務部員)となった。
だが、統治開始翌年の正月、伊沢が日本へ一時帰国中にショッキングな事件は起きてしまう。事件を悼み総督府は芝山巌に当時の首相、伊藤博文が揮毫(きごう)した「学務官僚遭難の碑」を建て、後には6人の教師(六氏先生)を祭る芝山巌神社を設けた。毎年2月1日の芝山巌祭には、小学生らが参拝に訪れる習わしになっていたという。
戦後、大陸から台湾に乗り込んできた国民党政権によって、神社は打ち壊され、碑は倒され赤ペンキで汚された…。ここまではよくある話である。ただ、台湾の人々は、近代教育をもたらした日本人の功績を忘れてはいなかった。長いときを経て学堂の後身にあたる地元小学校の同窓会らの尽力によって、碑は再建され、六氏先生のお墓も整備されたのである。
ラジオ台湾のキャスター、潘扶雄(はんふゆう)(1933年~、旧制台北二中-台湾師範大学)は、芝山巌祭に行ったり、「六氏先生」の話を母親から聞かされたことをよく覚えている。「私の先祖は六氏先生から最初に教えを受けたひとりでした。先生方は台湾に略奪に来たのではなく教育のために来たのです。『功績をたたえてどこが悪い』という気持ちが台湾人には強かった。碑の再建を申請し、何度却下されても諦めませんでした」
小さな学堂からスタートした日本の教育は、台北だけを見ても統治2年後には早くも最初の小学校を開設。1931年には小学校・公学校19校、児童数は約2万5千人に達した。上級学校では中学校、高等女学校、実業学校、医学専門学校、師範学校、そして、台北高等学校(1922年設立)、台北帝国大学(同28年)をつくり、台湾人にも高等教育への門戸が開かれたのは前回書いた通りである。
潘扶雄は言う。「日本のことがタブーだった時代も台湾の人々は、日本がつくった教育制度について『感謝』の気持ちを忘れなかった。それを最初にもたらした『六氏先生』のことは、台湾のインテリなら、まず知らない人はいませんよ」
■台北高の歴史示す資料室
旧制台北高の校舎は現在、台湾師範大学となっている。潘扶雄が卒業した学校だ。2009年6月、師範大の図書館に「台北高等学校資料室」が開設された。
日本語版のパンフレットにはこうある。《台北高等学校の校風であった『自由自治』の精神は、台湾師範大学が定めた学訓『誠正勤樸』に受け継がれ、今も昔も時代の先端を担う学生の精神的支えとして輝きを放ち続けています》。つまり、校舎だけでなく、台北高の精神も引き継いだというわけだ。
資料室には、台北高時代の写真や資料がところ狭しと飾られている。《卒業生の中には、台湾と日本における発展と交流に多大な貢献をした人々が、多数います》として、元総統の李登輝や作家の邱永漢など著名な卒業生の顔写真で壁が埋められ、黒マントに白線帽をかぶった生徒の人形まである。
かつて日本が統治した国や地域で、こんな資料館があるのは、おそらく台湾をおいて他にないだろう。
■「自由の鐘」を復元
師範大には1982年に破損するまで、かつて台北高で使われていた「自由の鐘」があった。高等科設置時の台北高校長、三沢糾(ただす)(1878~1942年)がアメリカの農場で見つけ持ち帰った大小2つからなる洋風の鐘で、1920年代半ばに設置されている。「カラン、コロン」という心地よい鐘の音は授業の開始、終了時に響き渡り、台北高関係者だけでなく、周囲の住民たちにも長く親しまれてきた。
昨年秋、台北高の90周年を祝う記念大会に合わせて、「自由の鐘」を復元し、同校開校日の4月23日にお披露目されることが明らかにされた。OBらが資金を集め、富山県の鋳造会社に発注し、製作中。その中心となっているのが、台北高同窓会会長である辜寛敏(こかんびん)(1926年~)だ。台湾を代表する実業家のひとりで、“華麗なる一族”としても知られている。
父親の辜顕栄(こけんえい)(1866~1937年)は実業家、政治家で、日本統治時代、台湾人唯一の貴族院議員。異母兄の辜振甫(こしんぽ)(1917~2005年)は実業界で活躍、政府の重要なポストにも就いた。長男のリチャード・クー(1954年~)は著名なエコノミストである。辜寛敏自身は日本で長く、台湾の独立運動にかかわった。
辜寛敏は、1944(昭和19)年、旧制台北三中から台北高に入っている。「戦争の時代でしたが、台北高の校風は、本当に自由でおおらか。中学時代が厳しかったから、『こんなに自由でいいのか』とびっくりしたぐらい。街の人たちもとてもよくしてくれた。(台北高の)帽子をかぶっているだけで信用が違う。兄貴が高等学校に通っている女学生たちにとっては自慢のタネでしたね」
2年に進級するとき、辜寛敏は図らずも、寮に入ることになった。授業の態度などが悪いとして「落第」と判定されたところを、万葉学者である教授の犬養孝(1907~98年)が「態度が悪いだけなら寮で人格を磨けばいい」として、入寮を条件に進級を認める“助け舟”を出したからである。
「悔しくて入寮を断ったボクに犬養先生は珍しく怒ってこう諭してくれた。『2年で軍隊に行くと見習士官になれるが、1年のままなら兵隊だ。軍隊でそれがどんな意味を持つのか分かるだろう』ってね。でも寮に入ってよかったですよ。やはり高等学校の本当の雰囲気は、寮に入らないと分からない。寮歌もよく歌いました」
ただ、台北高が廃校になってからすでに70年近い。日本と同じく、台湾の若い世代にとっても旧制高校の存在はほとんどなじみがない。なぜいま、旧制高校の教育などが見直されようとしているのだろうか。
辜寛敏はこう思う。「戦後、日本の教育は『平等』を柱とするアメリカの制度をそのまま取り入れてしまったが、社会の期待に応えるためには平等だけではダメ。国を動かすエリートを養成せねばならないが、今のリーダーは“粒が小さく”感じられて仕方がない。『自発的な勉強』も高校で学んだが、今は試験に受かるための勉強ばかり。教育は『技術』ではなく、『人間教育』が大切。日本も台湾も課題は同じですよ」=文中敬称略(台北で 文化部編集委員 喜多由浩)
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【用語解説】芝山巌事件
日本が台湾統治を開始した年の翌1896(明治29)年正月、台湾総督府学務部員の6人の教師らが土匪(どひ)に襲われ、惨殺された。まだ日本統治への反発が強かった時代のことで犯人は、抗日分子であるとか、金目当ての強盗ともささやかれたが、真相は定かではない。事件は台湾独自の唱歌『弔殉難六氏の歌』や『六氏(士)先生』に歌われている。