澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

「北方領土」の自己欺瞞史観

2016年12月15日 08時34分24秒 | 政治

 きょうは「プーチン来日」。マスメディアの大はしゃぎ、から騒ぎが、今から目に見えるよう。

 今朝、孫崎亨佐藤優の話をラジオで聴いて、二島返還か、経済協力か、国後・択捉はどうなるのか?などと騒ぐ前に、基本的な歴史的事実が一般国民には知らされていないと痛感した。まず、サンフランシスコ講和条約締結に当たって、当時の吉田首相が「国後・択捉両島は日本領に含まれない」と認めたこと。外交文書には記録されているのに、この史実に言及するマスメディアは少ない。冷戦が始まったため、ソ連はこの講和条約に参加しなかったが、そのことをもって、上記の吉田発言をチャラにはできない。ましてや「日ソ不可侵条約を破って侵攻してきたソ連が悪い」と言ってみても、事後になって結ばれた、この講和条約の結論を否定することはできない。

 そもそも、今なおわれわれは第二次大戦の歴史を総括できないでいるのでは?昨今、「自虐史観」の克服については、多く語られるが、その種の論者は、いきなり天皇制国家礼賛にまで行ってしまうのだから、私ごときは到底ついていけない。一方で、自分に好都合な史実を引き合いに出して、閉ざされた日本語空間の、日本列島の中でしか通用しない議論を展開する論者もいる。「自虐史観」ならぬ「自己欺瞞史観」だ。


    日劇ショー「ハイル・ヒトラー」(1938年)
         
(出典:「愛国」の技法~神国日本の愛のかたち より)

 ヤルタ会談(1945.2)は、第二次大戦終了後、ソ連に千島列島を引き渡すことを認めた。このとき、ナチス・ドイツの敗北は決定的で、それは日本が連合国の「俎板の鯉」になったことを意味した。欧州大戦が終結すれば、「大日本帝国」は連合国の好き勝手に腑分けできる。「日ソ不可侵条約」そのものが、日本の「南進」を保証し、同時にソ連の欧州戦線専念を保証するという、「同床異夢」「野合」の産物であったことを考えれば、ソ連軍の満洲、樺太、千島列島への侵攻を「国際法的」に不当だと言うのは、目くそ鼻くそを笑う類の話しなのかもしれない。もし、欧州大戦でナチス・ドイツがソ連を打ち負かしていたら、関東軍は間違いなくソ満国境を越えていただろうから。

 では、1945年2月から8月の敗戦までの期間、日本政府はどのように戦争終結を図ったのか。東京大空襲、沖縄戦、原爆投下などで、百万人を超える民間人が死んだというのに、「国体護持」「一億玉砕」を唱えつつ、ソ連の仲介に期待したのが、日本政府だった。その間、天皇は「三種の神器」の処遇(隠し場所)に拘泥していたという。つまり、その時点で日本という国家は、事実上、本土空襲による廃墟の上に突如現れた「古代呪術国家」と化し、まさに「禁治産者」のような状態に陥っていた。「このご聖断が今の平和な日本を作った」などという、最近の映画のキャッチコピーは、まさに自己欺瞞そのもの、噴飯ものと言うべきだろう。

 戦争のような国家存亡の危機を容易に収束できない「国家的性癖」は、原発事故の処理をめぐっても明らかになった。一蓮托生の「列島国家」の運命は今も昔も変わらない。
 私などは、ヤルタ会談から敗戦までの半年間に亡くなった方々は「犬死」だったと思えてならない。イタリアはムッソリーニを公開処刑することで、日独伊三国同盟のくびきから脱した。ドイツ第三帝国は、ヒトラーの自殺によって幕を閉じた。だが、日本では、たった一人の地位と生存を守るために、百万を超える人々が捨て石にされたのだから、世界の近現代史を見ても、これほどひどい話はそうはない。私は決してサヨクでないが、歴史をつぶさに眺めてみれば、プーチンの言うことももっともと思える。「北方領土」返還話などに、一喜一憂するのは愚かなことだ。東京五輪に熱狂するのと同じように…。