澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

旧制・松本高校OB絵画展で見た一枚の絵

2019年06月09日 10時08分55秒 | 散歩

 半年ぶりの松本を散歩。梅雨入り直前(6月4・5日)の好天気だったので、松本城の背景には北アルプスの峰々がくっきりと浮かんでいた。



 鰻の名店「まつ嘉」でうな丼を食べた後、旧制松本高校校舎が保存されている「あがたの森」公園へ。公園内にある旧制高校記念館を再訪した。入り口の横では、松本高校OBの絵画展が開かれていた。そこで見つけたのが、この絵画。



 「サンフラワー」と題したこの絵は、三輪公忠氏(松本高校29期 理科)によるもの。上智大学名誉教授(国際関係史)で90歳の今も健在のようだ。私はこの人の授業を聴いたことがあるものの、その印象は最悪だった。外見はキザな英語屋さん、話す内容はとりとめのない歴史小話だった。並行して聴いていた「ヨーロッパ政治外交史」(篠原一)「日本政治外交史」(三谷太一郎)と比べると、恥ずかしくなるような内容だった。のちになって、この人が松本で敗戦を迎えたときのエッセイを読んだとき、おや、この人は意外にもナショナリストだったと知った。
 
 6年ほど前、東京外国語大学の「国際関係論」(井尻秀憲教授)を聴講したとき、思いがけずこの三輪公忠の名前が登場した。井尻教授は故・中嶋嶺雄の愛弟子であり、東外大における中嶋のポストの後継者。東京外大大学院時代、中嶋の肝いりで、三輪教授の話を聴くように言われ、上智大まで足を運んでいたと言う。中嶋のエッセイの中にも、近所の幼馴染として三輪の名前が登場する。同郷の好(よしみ)はずっと続いていたということだろうか。

 井尻教授は「米国による原爆投下について、三輪教授は人種差別によるものだと言うが、私はそうは思わない。当時の国際関係を熟考した結果だ」と話した。聴講する外大生は三輪の名前など知るはずもない。若い学生たちになぜこんなことを言ったのかは分からないが、私にとっては、むしろ三輪の言葉の方が納得できると感じた。三輪の隠れた一面を見たような気がした。

 Wikipediaで「三輪公忠」を調べると、次のように書かれている。
長野県松本市生まれ。松本中学校松本高等学校 (旧制)理科を経て上智大学を中退し、1955年ジョージタウン大学卒業。同大学院修士課程を経て、1967年プリンストン大学大学院歴史学専攻博士課程修了。Ph.D(歴史学)。」

 旧制高校最後の卒業生でありながら、七帝大、官立大学に進まず、何故か無名の上智大学に進学。卒業を待たずに米国留学。40歳を過ぎてからPh.Dを取得。このような経歴は、極めて特殊だ。戦後の混乱期に米国留学ができたのは、おそらくカトリックの「大本山」である上智大学の”威光”と親米的日本人を育成しようとする米国の意図によるものだっただろう。

 三輪は晩年、ホモセクシャルの疑念を抱かせかねないエッセイも表している。これらのことで想起されるのは、三輪がカトリックのエージェントのような役割を担っていたのではないかということだ。イエズス会神父(欧米系外国人)のお眼鏡に叶った典型的な人物ともいえるだろう。

 松本が生んだ文化人の名簿に名を連ね、趣味の絵画で故郷を描く。功成り名を遂げた三輪は、過ぎし日の自分をどう総括しているのか。
 安曇野の夏はまた巡ってくる…。

 

 



 

 



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