「慟哭の海峡」(門田隆将 著 角川書店 2014年)を読む。
門田隆将は「この命、義に捧ぐ 台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡」の著者。日本の敗戦時、内蒙古司令官だった根本博の生き様を描いたこのドキュメンタリーは、TVでも放送され、大きな反響を呼んだ。明治生まれの武人とはかくあったのかと思わせる、清々しい作品だった。
その門田が取り上げた「慟哭の海峡」とは、フィリピンと台湾の間に横たわる、バシー海峡(巴士海峡)を指す。そこは「輸送船の墓場」と称され、10万を超える日本兵が犠牲なったとされる。すなわち、太平洋戦争の後半、「南洋」と「本土」を結ぶ輸送網の要であるバシー海峡を通行する日本艦船は、米軍潜水艦の格好の餌食となった。米軍は戦時国際法違反を知りながら、たとえ病院船であっても、攻撃をしかけたと伝えられる。
本書は、次のように紹介されている。
「2013年10月、2人の老人が死んだ。
1人は大正8年生まれの94歳、もう1人はふたつ下の92歳だった。2人は互いに会ったこともなければ、お互いを意識したこともない。まったく別々の人生を歩み、まったく知らないままに同じ時期に亡くなった。
太平洋戦争(大東亜戦争)時、“輸送船の墓場"と称され、10万を超える日本兵が犠牲になったとされる「バシー海峡」。2人に共通するのは、この台湾とフィリピンの間にあるバシー海峡に「強い思いを持っていたこと」だけである。1人は、バシー海峡で弟を喪ったアンパンマンの作者・やなせたかし。もう1人は、炎熱のバシー海峡を12日間も漂流して、奇跡の生還を遂げた中嶋秀次である。
やなせは心の奥底に哀しみと寂しさを抱えながら、晩年に「アンパンマン」という、子供たちに勇気と希望を与え続けるヒーローを生み出した。一方、中嶋は死んだ戦友の鎮魂のために戦後の人生を捧げ、長い歳月の末に、バシー海峡が見渡せる丘に「潮音寺」という寺院を建立する。
膨大な数の若者が戦争の最前線に立ち、そして死んでいった。2人が生きた若き日々は、「生きること」自体を拒まれ、多くの同世代の人間が無念の思いを呑み込んで死んでいった時代だった。
異国の土となり、蒼い海原の底に沈んでいった大正生まれの男たちは、実に200万人にものぼる。隣り合わせの「生」と「死」の狭間で揺れ、最後まで自己犠牲を貫いた若者たち。「アンパンマン」に込められた想いと、彼らが「生きた時代」とはどのようなものだったのか。
“世紀のヒーロー"アンパンマンとは、いったい「誰」なのですか――? 今、明かされる、「慟哭の海峡」をめぐる真実の物語。」
バシー海峡を臨む鵝鑾鼻(がらんび)灯台に行ってきたばかりなので、あの美しい景色の背景に、こんな歴史があったのかと思い知らされた。
鵝鑾鼻の西側にある南湾には、おびただしい日本将兵の水死体が流れ着いたとされるが、その墾丁(こんてい)の街は今やリゾート地として名高く、昔を思い出させるものはない。本書の登場人物である中嶋秀次が建立した潮音寺だけが、その記憶を残しているのだろうか。
墾丁のビーチ(2015年12月)