都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
凧を「タコ」と呼ぶのは関東の方言で、関西の方言では「イカ」、「いかのぼり」(紙鳶とも 書く)と呼ばれていた。凧が、「タコ」や「イカ」と呼ばれる由来は、凧が紙の尾を垂らし、空に揚がる姿が、「蛸」や「烏賊」に似ているから、という説がある。長崎では凧のことをハタといい、ハタ揚げ大会が開かれる。
かつては、正月を含む冬休みには、子供たちが凧揚げをする光景が良く見られ、玩具店のみならず、子供たちが買い物をする頻度の高い、身近にある駄菓子店や文房具店などで凧も販売されていた。
特に凧揚げが盛んに行われていた時代(1970年代)、冬休みの時期には、電力会社がスポンサーの夕方のニュース番組で、「凧揚げは電線のない広い場所で」「電線に引っかかったら電力会社にご連絡ください」という内容のコマーシャルがよく流されていたほどで、当時のトラブルの多さを窺(うかが)わせる。
凧揚げが安全にできる広い空間が少なくなったことに加え、少子化や、ゲーム機の普及などもあり、正月の凧揚げの光景も少なくなった。
私の住んでいる北海道(帯広市)では、お正月に凧揚げをした記憶がない。子供の頃の冬は寒かった。じっと凧揚げをしていると鼻水がこるくらいだ。風も強く冷たい。冬はとにかく、走り回っていた。凧揚げをしたのは春だろうか。南風で北に向かってあげていたので冬ではない。はっきり覚えていない。
しかし、あちこちの電線に凧がぶら下がっている光景はよく見られた。凧は奴凧という、奴さんの絵が描いてあるものだった。これに、新聞紙で足をつける。一本足、二本足と個々が工夫を凝らして長さを調節する。
私の家の隣が洋服屋だったため、糸はいくらでもある。ある時どれくらい飛ばせるかということになり、洋服屋のお兄ちゃんが、糸をどんどん継ぎ足して、凧が見えないくらい遠くまで飛ばしたことがあった。
大人の男性が自転車でやってきて、「ここで揚げてたのか、駅の向こうまでいってるぞ。」と、わざわざ見に来たのを覚えている。私の当事の住所が17丁目、駅が12丁目であった。今考えると500m以上であろうか。
17丁目から12丁目ということは南風であるから、やっぱり冬ではない。私が5,6歳の頃であるから、もう半世紀以上も前のことだ。昨日のことも忘れる昨今、記憶は定かではない。ただ、凧を無事回収して、みんなで喜んだのは憶えている。
私は大人になってから、凧揚げをしている子供を見たことがない。
したっけ。
急速に高齢化しつつある日本において「老後」への関心は高いが、この「老後」という言葉、
あらためてみると奇妙な言葉にも思えませんか。今、老人なのに何故「老後」というのでしょうか。
この場合の「老後」とは、老いてから後の人生のことなのです。老境に入ってからの人生という意味でしょうか。
ただし、何歳からが「老後」なのかというと、寿命が長くなるにつれて、しだいに延びてきているのです。昔は
でも、考えてみると、腹が立ちませんか。「厚生年金」が基準になって老人の扱いが変わってきているなんておかしくありませんか。自分たちが散々無駄遣いをした役人たちが、「皆さんはお元気ですから、年金の支給年齢をひきあげますよ。」って、やっぱり変ですよ。定年と年金支給の間が5年間もあるのですよ。そりゃぁ元気な人もいますよ。元気のない人だっているんですよ。元気があったって、働くところがないんですよ。元気でも、元気でなくても5年間はとてつもなく長いのです。
私たち団塊の世代は邪魔者ですか。邪魔者扱いされている気がします。
政治家のみなさん、口ではなんとでも言えます。ああだこうだ言っているうちに、死んでしまいますよ。何とかしてください。お願いしますよ。
子供は未来を創れます。だから子供手当・・・。老人だって、今は過去になった未来を創ってきました。
姥捨て山が復活したかのような気がするのはわたしだけでしょうか。
ろう‐ご【老後】
年をとってからのち。「―の設計を考える」
ろう‐じん〔ラウ‐〕【老人】
年をとった人。年寄り。老人福祉法では、老人の定義はないが、具体的な施策対象は65歳以上を原則としている。「―医療」
辞書 大辞泉 |
したっけ。
江戸時代の俳人・松尾芭蕉に、「閑さや岩にしみいる蝉の声」という句があります。「なんと静かになんだ。蝉の鳴き声しか聞こえない。かえって静けさがつのるように感じられる。蝉の声は、まるで岩々にしみこんでいるように静かだ。」というところでしょうか。
私が現在地に越してきた頃は、柏林がいくつもあって、夏になると蝉の声がジージー聞こえていました。蝦夷クマゼミという蝉です。
まだ住宅もまばらで、うるさいほど鳴いていました。車の往来もなく、蝉の声だけが聞こえていました。休日の午後、その声を聞きながら昼寝をすると、うるさいはずの蝉の声が何故か静けさを誘い、いつの間にか寝込んでいたのを思い出します。
私が子供の頃、蝉の抜け殻のことを「ドンチ」と呼んでいましたが、これは北海道だけでしょうか。十勝だけでしょうか。朝、柏林に行くと、草や木の1m前後のところに「ドンチ」がたくさん地中から這い出して、脱皮をしている姿が見られました。背中が割れて白い透明な蝉が抜け出して、折畳まれた羽が少しずつ伸びていきます。やがて、透明だった蝉に色がつき羽がピーンと伸びて、やっと成虫になります。
地中で6~7年暮らし、地上に出てきて、ゆっくりと時間をかけて成虫になり、1週間ほどで、その生涯を終えるといわれます。そう思うと必死に声を張り上げ、メスを誘っているオスが気の毒に思えてなりません。
最近、蝉の声を聞きません。道路の拡幅とか、倒木の恐れがあると柏の木が切り倒されました。蝉の生息する環境が消えてしまったのです。
夏休みになっても、子どもたちは蝉を捕ることさえ知りません。こんな小さな環境破壊が、地球温暖化に繋がっているのかも知れません。
松尾芭蕉:寛永21年(1664年)~元禄7年10月12日(1694年11月28日)は現在の三重県伊賀市出身の江戸時代前期の俳諧師。
したっけ。
今日は、昨日雨で順延になった娘の子供の運動会。小学校最後の運動会です。
家内と一緒に荷物を持て出かけました。朝のうちは曇で暑くもない丁度いい加減の暖かさでした。ところが、10時を過ぎたころからでしょうか、突然寒くなってきました。でも、そんなことでは北海道の親は慌てません。皆さん、毛布なり冬用のジャンバーを持参しています。お昼のお弁当を食べ終わるまで冬支度のままでした。
ところが、お弁当を食べ終わると、急に暑くなり、皆さん慌ててジャンバーを脱いだり、毛布をしまったり。なかには半そでのTシャツ姿の人もいました。
すごいでしょう。北海道には1日で冬と夏を体験できるんですよ。
でも今日一日運動会を見ていて、つくづく考えたのは、面白くないな~ってことです。きっと親たちの意見だろうと思われますが、騎馬戦、棒倒し、組体操等の危険な競技は一切ありません。なるべく運動能力で差がつかないような競技ばかりです。例えば昔もありましたが、借り物競争です。または、途中で旗を拾って立ち止まり校長先生が後を向いたまま旗を揚げます。同じ色の旗を持った子はそのままゴールへ、違う子は戻って拾いなおしてゴールインです。他にも運動能力で差がつかないような、偶然性を伴った競技が続きます。
玉入れには驚きました。クラスから5人が走ってきて、玉を1個拾いかごになげます。そうして順に玉を入れていきます。その後、全員で本当の玉入れが始まります。これは親が写真、ビデオを撮りやすくしているのだそうです。そこまでやるか!と云う感じがして、かえって滑稽でさえあります。
極めつけは、リレーです。昔は組の代表選手で本当のスピード競技で面白かったのですが、これもありません。代表を選ぶのは差別なのだそうです。ですから、組対抗リレーで全員走ります。私はこの方が見ていて腹が立ちました。肥満で走れない子が走っている姿は気の毒です。クラスの仲間からなんと言われるのでしょう。身体的に障害のある子も走ります。これは気の毒を通り越して可哀想です。
皆さん、これが平等ですか。かえって差別を見せ付けているとは思いませんか。昔はそういう子には別の仕事を与え運動会に参加させていました。持ち場を与えて参加するほうが、互いに気持ちよく運動会に参加できるんではないのではないでしょうか。
勉強の出来ない子は、運動会でヒーローになり、歌の上手い子は学芸会でヒロインになる。世の中全員平等なんてありませんよ。だから、自分の特徴を知ってこそ、世の中を生きていける子供が育つのです。
先生方がPTAにビクビクしているから、不平等な平等が生まれ、イジメが生まれているような気がしてなりません。
したっけ。
当然一競技の時間はだらだらと長くなり、面白みはありません。
私が春にオンコ(一位)の木にかけた巣箱に雀が住み着いていました。
私としては、もっと別の住人の入居を希望していたのですが・・・。巣箱のそばへ行くと両親が盛んに、チチチチチチッチと警戒の声を上げます。巣箱の雛に声を出すな、静かにしていろと、指示しているのです。と同時に自分に注意を向けようとしているのです。
新聞に幼児虐待のニュースが頻繁に掲載される時代に、雀の親は必死で我が子を守ろうとしているのです。
そんな子雀が今朝巣立ちをしたようです。酢実(ずみ)の木に止まり、親が餌を運んでいます。こうして我が子が一人前に、餌を取れるようになるまで面倒を見るのでしょう。小雀は一刻も早く親離れをしなくてはなりません。親鳥も子離れをしなくては、自分の体力が持ちません。それが自然界の掟です。
人間には、そんな掟は無いのでしょうか。忘れてしまったんでしょうか。すずめの親子に何か教えられた気がします。
したっけ。
電線に一羽のカラスが止まっています。声も張り裂けんばかりにギャーギャーと鳴いています。その視線の先には一匹の猫が、舗装の上に寝転んでいます。どうやらカラスは猫を威嚇しているようです。
カラスがとまっている電線の脇の高い松の木に巣がある模様です。雛でも孵化したのでしょうか。カラスは必死の形相です。黒いので良く分かりませんが、多分、ソウでしょう。猫はそんなことは知りませんから、うるさいカラスだなていどの反応で、寝転んだままチラチラ見ています。
カラスが電線を飛び立ち、猫を目掛けて滑空しました。猫は左フックで応戦します。両者空振りに終わったようです。しかしカラスはそのまま上昇し、踵を返して垂直に猫を目掛け、羽を畳んで真っ逆さまに落下してきます。猫は左利きなのでしょうか、また左フックで応戦します。カラスは接触寸前に上昇し、元の電線に戻りました。
これを何度も繰り返していました。カラスは必死、猫は遊び相手としている様子です。そのうち、カラスの声もだんだんシワガレテきました。猫も飽きたようで、起き上がり何処かへ行ってしまいました。
カラスは電線に止まり、あたりを警戒しています。やがて誰もいないことを確認し、松の木の巣へと戻っていきました。
カラスはきっと勝利者の心境でしょう。猫はしつこいカラスだと辟易したことでしょう。
同じことの繰り返しで、見ている私もいい加減飽きてきたところでした。そのうち衝突があるのでは、と期待していた見学者にとっては納得のいかない格闘技戦でした。
したっけ。
明日は、娘の娘(孫)の中学最後の運動会です。私はいつも写真係りです。撮った写真をフォトムービーにしてあげます。パパはビデオ
係りです。
家内と娘は見学に専念しています。お菓子を食べながら。
中学校の運動会は、写真係りは大変です。皆同じジャージーを着ているのです。見分けが付きません。全く違う子を撮っていることも度々です。パパは自分の娘ですから見分けが付くようです。私だって、自分の孫なんですけど、どの子も同じに見えてしまいます
。
天気予報は、今晩雨で明日は曇
時々雨
です。
予報が大はずれで、晴れるといいんですが・・・。
したっけ。
毎日庭木の写真を撮っています。
親父がこの家を建てた時から造ってきた庭です。私は仕事が忙しかったのと木とか花には興味がなかったので、全く名前が分かりません。今、仕事をしなくなってよく庭を見ると、色々な樹木
があることに気づきました。
親父が植えた樹木の名前も知らない。考えれば殆ど会話もしなかったことに気づきました。それで、樹木図鑑を買いました。せめて親父の残した樹木の名前くらい覚えようと思ったからです。調べていくと難しくて
大変です。親父は名前を全部知っていたのだろうかと思うくらいです
。躑躅だけでも何種類もあります。
図鑑で分からないものは、インターネットの図鑑で調べます。市の施設に写真を持っていって教えてもらいます。それでも分からないときは、写真をブログに掲載して教えを請います。おかげで随分分かってきました。
今、自宅庭の植物図鑑を作成しています。花が咲くたびに、変わった木、草花、雑草に至るまで、写真に撮っています。とても面白くなってきました。特に雑草は面白いです。
私は今、毎日庭木の写真を撮っています。
したっけ。
最近は写真ばかりで、私のブログ本来の内容と変わっていることに気まずさを感じる今日この頃。まるで「羊頭狗肉」(羊頭を掲げて狗肉を売る:羊の看板を掲げて犬
の肉をうる)状態になってしまっている。
毎日晦日咲く花を撮らずにいられない
。北海道の花の時季は短い。写真にも興味をもってくださる方がいらして、それなりに訪問者は多い。
でも、本来の短編小説、今月中に必ず掲載します。羊
がやっと売れる大きさに育ってきました。もう少し、絶対
今月中に間に合わせます
。