プーチンへの道 |
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プーチン |
事件 |
内容 |
1952年10月7日 |
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ロシア西部のレニングラード(サンクトペテルブルク)に生まれる。 |
1975年 |
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レニングラード大学法学部を卒業し、ソビエト連邦国家保安委員会に勤務。 |
1984年 |
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KGB赤旗大学に入校。 |
1985年 |
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東ドイツに派遣。ドレスデンのソ独友好会館館長をカバーとして、ソ連人学生を監督。 KGBドレスデン支部で北大西洋条約機構(NATO)の情報収集などの任務にあたる。 KGBでは優秀な人材は西側諸国に赴任するが赴任したのは東ドイツ。しかもベルリンではなくドレスデン、優秀な人材ではなかった。 |
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1990年10月3日 |
東西ドイツが統一しました。その際、プーチン氏は国が崩壊するのを目の当たりにしました。 |
1990年 |
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故郷レニングラードに戻り、国際問題担当レニングラード大学学長補佐官。 |
1991年12月 |
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サンクトペテルブルク市対外関係委員会議長。 |
1992年 |
中佐の階級で予備役編入。サンクトペテルブルク市副市長。 治安が悪い町にKGB出身者はうってつけだったようです。 所属していたKGBを飛び出してまでとことん尽くし、高い信頼を得ていきました。そして、ついにはサプチャク市長の灰色の枢機卿とも言われるほどの権限を持つようになりました。 |
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1994年3月 |
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サンクトペテルブルク市第一副市長・国際経済担当に任命されます。 |
1996年6月 |
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ロシア連邦大統領府総務局次長に就任し、中央政界に転じる。 |
1997年3月 |
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ロシア連邦大統領府監督総局長。 |
1998年5月 |
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ロシア連邦大統領府第一副長官。 |
1998年7月 |
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ロシア連邦保安庁長官に就任する。 |
1999年3月 |
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ロシア連邦保安庁長官とロシア連邦安全保障会議書記を兼任。 |
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1999年8月7日 |
当時、事実上(第一次チェチェン戦争で勝利することによって)独立していたチェチェン・イチケリア共和国の武装集団がロシア連邦の一部であるダゲスタン共和国へ侵攻した。 |
1999年8月9日 |
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当時の大統領ボリス・エリツィンにより第一副首相に指名される |
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無名だったプーチンが最高権力者になれたワケ |
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1999年9月前半 |
ロシアの四カ所で民間マンションが爆破され、合計307人が死亡した。 |
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1999年9月4日 |
ダゲスタン共和国のブイナクスク市で爆破テロ(「ロシア連邦保安庁(FSB)」による偽装) |
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1999年9月8日 |
モスクワ市で爆破テロ(「ロシア連邦保安庁(FSB)」による偽装) |
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1999年9月13日 |
モスクワ市で爆破テロ(「ロシア連邦保安庁(FSB)」による偽装) |
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1999年9月13日 |
ロシアのドゥーマ(連邦議会下院、ロシアの国会)議長のゲンナジー・セレズニョフはドゥーマ運営会の会議においてこのように発言した。「今日の早朝、ヴォルゴドンスクでマンションが爆破されたという報告を受けた」 |
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1999年9月16日 |
ヴォルゴドンスク市で爆破テロ(「ロシア連邦保安庁(FSB)」による偽装) |
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1999年9月22日 |
ある民間マンションの住民が、怪しい人影を見かけた。彼らはマンションの地下にいくつかの袋を運んでいた。住民はすぐ警察を呼び、駆けつけた警察は爆発物とタイマーを見つけてマンションの住民に避難命令を出した。 |
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これらの経緯をすべて並べて考えると、一連のマンション爆破は、戦争の危機を煽動してプーチンを選挙に勝たせるための、FSBによる謀略だったということを疑う余地はないだろう。 |
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1999年9月30日 |
ロシア軍はチェチェン共和国の国境を越えて、第二次チェチェン戦争は始まった。 |
1999年12月31日 |
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引退を宣言したボリス・エリツィンにより大統領代行に指名。 |
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プーチンの最初の大統領令はエリツィンを生涯にわたって刑事訴追から免責するというものだった。 |
2000年3月26日 |
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一回目の投票で51.95%の票を獲得し当選。 |
2000年5月7日 |
プーチンが正式に第2代ロシア大統領となった。 |
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それまでロシア連邦各州の州知事は選挙によって選ばれたが、プーチンは制度を変えてしまい、州知事を大統領が直接、任命できるようにした。知事が任命される国のどこが「連邦」なのか、ということなのだが。さらに、国家の主要ポストに次第にFSB出身者が任命されるようになり、FSBによるロシアの支配が確立した |
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このように、プーチンは自国民を大量に殺すことによって権力を握った。 |
2004年 |
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大統領2期目 |
2008年 |
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大統領選挙に立候補せず、首相就任。 |
2012年 |
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大統領に返り咲く。3期目 |
2018年 |
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大統領4期目 |
プーチンは少年時代スパイ小説や映画を見てスパイに憧れたそうです。自由がなかったソ連時代、国外で自由に行動できるのがスパイだったのです。
しかし、プーチンは優秀なスパイではありませんでした。KGBでは優秀な人材は西側諸国に赴任するが赴任したのは東ドイツ。しかもベルリンではなくドレスデンだったからです。
それでも、プーチンはここで裏工作を覚えます。
サンクトペテルブルク市役所に入ると、KGBであったことを打ち明けます。サンクトペテルブルクは治安が悪くギャングの街として知られていた。
そこにKGB出身者はうってつけだったのです。サプチャク市長の信頼を受け、灰色の枢機卿とも言われるほどの権限を持つようになりました。
サンクトペテルブルク市第一副市長・国際経済担当に任命されます。当時ソビエト崩壊後の混乱期、外国からの食糧など人道支援の受け入れなど非常に重要な職務でした。
この時に、食料調達を口実に莫大な資金を調達したと言われています。
この資金が、のちの出世につながるのです。
■支持率ゼロの無名政治家だったのに…プーチンがロシアの「皇帝」になれた納得の理由
ロシアのプーチン大統領はどのように最高権力者の地位をつかんだのか。
「プーチンは諜略機関KGBの一員から大統領になった。監視や恐怖を通して社会をコントロールするKGBの手法が不可欠だった」という――。
ご存知のとおり、プーチンはソ連国家保安委員会(いわゆるKGB)の出身である。ソ連においては時期や正式名称はどうであれ、「国家保安」を担当する組織はつねに特別の意味を持っていた。
治安維持や国境警備、諜報活動という表の任務以外に、対外謀略、思想警察、政治的暗殺、人民の抑圧や大量処刑など、全体主義体制における恐怖政治の実行が裏の担当分野であった。
言うまでもなく、恐怖政治の実行は全体主義体制維持に不可欠である。
【60秒動画でわかる】プーチン大統領どんな人?権力の座に20年超
無名だったプーチンが最高権力者になれたワケ
古今東西、権力者の支持率を上げる常套手段とは「敵」を作ることだ。
プーチンは1999年8月9日に首相に任命されたが、その前々日の7日に、当時、事実上(第一次チェチェン戦争で勝利することによって)独立していたチェチェン・イチケリア共和国の武装集団がロシア連邦の一部であるダゲスタン共和国へ侵攻した。
しかし、それだけでは当時のロシア世論を好戦的にして、指導者の周りに結束させるには不十分だった。なぜなら当時のロシア人の認識では、侵攻した武装集団を追い出して、チェチェン共和国からロシアへの侵入を防ぐだけで十分だったからだ。
当時の世論は大規模な戦争を望まなかった。しかも、武装集団の侵攻は指導者の独断であり、チェチェン・イチケリア共和国大統領のアスラン・マスハドフは侵攻に反対で、武装集団の侵攻を批判した。彼は8月~9月の間に、ロシアに対して戦争の阻止を呼びかけ、ロシア政府に和平交渉を申し込んだ。
だが、FSBがこのような絶好の機会を逃すわけがなかった。
1999年9月前半にロシアの四カ所で民間マンションが爆破され、合計307人が死亡した。ロシア政府はすぐに、チェチェン系テロリストによるテロ攻撃だと発表した。ロシアメディアは一斉にテロに対する恐怖を誘導し、「対テロ」戦争を煽動して世論は集団ヒステリーの状態になった。
■「対テロ」戦争を扇動して世論を操作するシンプルな方法
そして、この状態でプーチンが国民をテロリストから守る「強いリーダーシップを発揮できる指導者」としてメディアに映されはじめたのである。
9月30日にロシア軍はチェチェン共和国の国境を越えて、第二次チェチェン戦争は始まった。そして同時に、プーチンの支持率が上がり始めた。この経緯だけでも、民間マンションの爆破がFSBの謀略だったのではないか、という疑いが生じる。
一連のマンション爆破は、戦争の危機を煽動してプーチンを選挙に勝たせるための、FSBによる謀略だったということを疑う余地はないだろう。恐ろしいことに、FSBが謀略の実行中にこれほどのへまを重ねたにもかかわらず、謀略は成功し、プーチンの支持率は実際に上がり始めた。
多くのロシア人は国家のプロパガンダを信じ、対チェチェン戦争を支持してしまった。何万人もの民間人の死をもたらした第二次チェチェン戦争が、プーチン当選の要(かなめ)となったのである。
■プーチン大統領の誕生…FSB出身者が主要ポストを独占
こうしてFSBはロシアの中枢を乗っ取ることに成功し、1999年12月31日にはエリツィンが大統領を辞任することを表明し、プーチンが大統領代行兼首相となった。さらに2000年3月26日、一回目の投票で51.95%の票を獲得し、プーチンが正式にロシア大統領となった。
当選後、プーチンは真っ先に言論統制を開始した。最も有名だったのは、プーチンに対抗するオリガルヒのグシンスキーが所有する大手テレビ局NTV(ロシア語表記:НTB)の強奪だった。NTVは全国的に人気のテレビ局だったが、その理由は首相時代からプーチンを批判していたからである。
大統領当選後、一年も経たないうちに、プーチン政権はNTVをグシンスキーから強奪し、所有権をガスプロム(天然資源を扱うロシア最大の国家独占企業)に委譲した。NTVを強奪する際、治安部隊はテレビ局の本部を占拠し、新しい所有者を認める職員以外は建物の中に入れなかった。
また、それまでロシア連邦各州の州知事は選挙によって選ばれたが、プーチンは制度を変えてしまい、州知事を大統領が直接、任命できるようにした。知事が任命される国のどこが「連邦」なのか、ということなのだが。さらに、国家の主要ポストに次第にFSB出身者が任命されるようになり、FSBによるロシアの支配が確立した。
ロシアは「謀略機関の所有する国家」
このように、プーチンは自国民を大量に殺すことによって権力を握った。
今のロシアは、大量虐殺や対外謀略を実行した残酷な組織であるNKVD―KGB―FSBに延々と支配され続けている。つまりロシアは「国家の謀略機関」を所有しているのではなく、「謀略機関の所有する国家」なのだ。
言い換えれば、全体主義体制を維持するために監視や恐怖をもたらす「道具」が主体性を持ち、国家そのものを自分の道具にしたのです。
チェチェン戦争で支持をあげたプーチンは、2024年に任期を迎える次期大統領選に向けてウクライナ出勝利することにより支持率をあげようと思ったのかもしれません。
#NO WAR #STOP PUTIN
#StandWithUkraine
■昨日のアクセスベスト3
敵が居ないとまとまれない国なんですね。
も少し人間としての誇りを大事にしたいものですが。
人間ってまだまだそんなところですよねー
その成功体験が忘れられないのでしょう。
SNSも見ないという、前時代的な独裁者です^^
したっけ。
この頃は感情のコントロールが
きかなくなったという話もありますね。
判断力を失ったときが怖いですね。
いずれにしろ正常な精神状態ではありません。
怖いです^^
したっけ。
支持してる国ですので
唯々怖いです。
プーチンを虐殺者と言われるのもしかたないですね。
自由に意思が表せない、恐ろしい国です。
諜報機関が権力を握ると怖いですね^^
したっけ。