都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
第59号帯広市民文藝入選作
当時、私は二十八歳だった。高校を卒業後、地元の小さな印刷会社に勤めていた。会社の近くのアパートで、一人暮らしをしていた。彼女もできずに、会社とアパートを往復する毎日だった。実家も同じ市内にあるので、ある土曜日、半年ぶりに実家に帰った。家に入ると、居間のソファーに、見たことがない女が座っていた。
誰だろう? 若い女が実家にいるのが不思議だった。
よく見ると、髪が長く、色白で目がぱっちりとした、いい女だった。チョッと鼻が低いのが、ご愛嬌だ。
私はその女に軽く会釈をして、父に聞いた。
「この人、誰?」
すると、父は驚いて鳩のような顔をして言った。
「お前、何を言ってるんだ? ふざけてるのか?」
父の言葉が終わらないうちに、その女が言った。
「お帰りなさい、覚(さとる)さん」
その女は、何のためらいもなく、ごく自然に私の名前を言った。私の心臓がどきんと音がした気がした。
「どうして、私の名前を知っているんですか?」
私は深く息を吸って、冷静を装って聞いた。
「どうしてですって? 嫌だ、私にまで何を言うの? だって、私はあなたの妻ですよ。当然でしょ」
この女が私の妻だって?
妻という言葉は、あまりに唐突で予想外だった。
それは何かの悪戯かと思った。しかし、そんなことをするような両親ではなかった。冗談さえあまり言わない真面目な両親だ。家の中を見渡してみた。母は台所で何かしているようだ。いつもと変わらない実家の風景だ。
ただ、その女がいることを除いては…。
私の頭は、泥棒が入った部屋のように、混乱した。夢を見ているのかと思った。しかし、夢ではなさそうだ。
断っておくが、その時の私には彼女はもちろん、女友だちすらいなかった。当然、妻などいる訳がなかった。
だから、アパートの汚い部屋で一人暮らしだった。そもそも、結婚なんかしていないのだから当然だ。
しかし、これは冗談でも悪戯でもなさそうだ。
両親とその女は、極自然に家族として成り立っているように、私には見えた。
私はマネキンのように固まっていた。目だけを動かして、家の中の景色を茫然と見ていた。母は台所から戻ってくると、お茶を配った。私にも座るように言った。
そして、まるで長い付き合いであるかのように、その女はテレビを見ながら母と話しを始めた。
むしろ、いつまで経っても座らない私に、その女は不思議そうな顔をして聞いてきた。
「覚さん、座らないの?」
ついに、その言葉は稲妻のように頭蓋骨に突き刺さった。私の思考の電源が落ちた。頭が真っ暗になった。
「この女は誰なんだよ」
「なんでここにいるんだよ」
「それより、妻ってなんだよ」
私は、驚きと興奮で身体が熱くなった。
母も、その女も恐ろしい呪文を聞いたように驚いた。
しかし、父は私が口角に泡をためて騒ぐ姿を見て、異常さを覚えたみたいだった。
父は、私の体を押さえつけて、何度も言った。
「落ち着け、覚! 落ち着くんだ」
その女も立ち上がり、私を覗き込んで言った。
「私が分からないの?」
何度も言うが、私は結婚なんてしていないし、した記憶もない。分かるはずがない。
高校卒業からそれまで、ずっと一人暮らしで働いていて、たまに実家に帰るくらいだ。
友人と飲みに行くことはあっても、女性と飲みに行った記憶はない。女性と飲むのは職場の飲み会くらいだ。
それなのに、両親もその女も、その女が私の妻だと言った。意味が分からなかった。狐につままれたようだ。
自分の記憶を疑ってみた。しかし、疑ってみたところで、やっぱりその女は知らない女だ。
私は状況が理解できないまま、馬鹿のように立ち尽くし、困った子どものように両親の顔を見た。
しばらく、ああだとか、こうだとかと押し問答をした後で、一度座って話すことになった。
父は、改めて私に言った。
「覚は栄子さんを覚えていないのか?」
その女の名前は、栄子というらしい。
私は当然、断言した。
「覚えているもなにも、その人は知らない女だ」
それを聞いた女は、突然泣き始めた。
母まで、私を見て、「情けない」と言い泣きだした。
父は、困り果ててしまったようだ。ずいぶん難しそうな顔をして、達磨のように座り込んでしまった。
何だか、私一人が悪者になった気分だった。
父は私の顔を見ながら、しばらく考え込んでいた。
そして、何かを思いついたように、家の奥に行った。
父はアルバムを持って戻って来て、私に見せた。
そのアルバムの中には、私の写真があった。
写真の中の私の隣には、その女が微笑んでいた。
どうやら旅行の写真のようだが、写真に写っている場所に見覚えはない。
なんだ、これは? と思いながらページをめくっていくと、披露宴の写真まであった。
しつこいようだが、私は本当に結婚なんてした記憶がなかった。それなのに、その写真の中の私は、その女と結婚しているようにしか見えなかった。
アルバムを見ていたら、父が説明してきた。
半年ちょっと前くらいに、私がその女を連れて家に来た。そして、結婚することを告げたらしい。
それからすぐに、私はその女と簡単な披露宴をして、結婚したそうだ。
その女も、涙ながらに言ってきた
「私は会社の友人から覚さんを紹介され、食事に行くようになり、付き合いが始まりました。そして一年余りの交際の末に結婚したのよ。両親は私が中学生の時に、自動車事故で他界していました。親戚もいなかったので、私は施設で育ち、独りぼっちだった。そんな私に覚さんは優しかった。『オレが一生君を家族として面倒をみるから…』とプロポーズしてくれたのよ」
「どこで?」
私は無意味な質問をした。聞いたところで覚えていないのだからしようがないのに、無意識に言葉が出た。
「いつも二人で行ったスナック『幻影』よ。ママが証人よ。覚えているでしょう」
「ごめん。全く覚えていない」
「私が妊娠したことを告げると、覚さんは喜んでくれたわ。それで、直ぐに結婚しようと言ってくれたのよ」
あらためて、その女を見ると、お腹が大きいようだ。
私は、なんだか申し訳ないような気分になってきた。
父が言うには、その頃の私は仕事がひどく忙しく、新居を探す暇がなかった。少しの間アパートで暮らしてみたが、二人暮らしには狭すぎた。その女には家族がいないので、私の実家で過ごすことになったというのだ。
それは、私が提案したことだと、その女は一人で実家に来て両親に言ったそうだ。それが、お互い必要最低限の出費で済むので、そうしたらしい。
それが結婚してすぐのことだという。
「本当に覚えていないのか?」
父とその女は、何度も私に念を押した。
半年ほど前と言えば、確かに私は仕事が忙しかった。
入社して初めてプロジェクトの企画を任されて、ほぼ毎日残業続きで、徹夜もあった。
だけど、だからこそ、そんな時期に結婚なんてするはずがなかった。しかし、妊娠したと言われれば、無理をしてでも結婚したかもしれない。
いや、それはそうだが、それとこれとは話が違う。私はその女を知らないし、結婚した覚えもない。
でも、披露宴の写真には、私の職場の上司や同僚、地元の友人たちまで写っていた。
写真は本物だろう。写真に写っている人の顔は、その女を除いて、みんな覚えがある。
私は、なんだか急に怖くなって、鳥肌が立った。
泣けばいいのか叫べばいいのか…。いっそ気を失ってしまいたい気分だった。
気が動転した私は、負け犬が尻尾を巻いて逃げ出すように、実家を飛び出し、自分のアパートに戻った。
だけど、両親は私のアパートを知っている。ここにいたら見つかる。私は、あの状況に連れ戻されるのが嫌だった。荷物も持たずに、近くのビジネスホテルに逃げ込んだ。理由もなく、ただ見つかるのが怖かった。
その間も私の携帯は鳴りっぱなしだった。着信画面には「栄子」と表示された。訳が分からなくなった。携帯の電話帳にあの女が登録されているのだ。だったら、私はあの女を知っていることになる。
それから、私は悪魔に追い掛けられているかのように必死に考えた。どう考えても、どう頭の中を整理してみても、やっぱり結婚した記憶なんかどこにもなかった。
どうする。どうすればいい。なにか解決策があるはずだ。冷静になって考えろ。私は自分に言い聞かせた。
私は友人に電話で確かめることを思いついた。高校時代からの友人の駒田の携帯に電話をした。相変わらず、なかなか出ない。何回か電話をして、やっと出た。
「オレは結婚したのか?」
名前も告げずに、いきなり聞いた。
「雨森か? はあっ~! 何バカなことを言ってるんだよ。当たり前だろ。どうかしたのか?」
駒田は、驚いて素っ頓狂な声をあげた。
「分かった」
私はすぐに電話を切った。
次に、仲の良い会社の同僚の道下に電話をしてみた。
同じ質問をしたら、同じような返答だった。
私が知らないだけで、周囲の人間は、私が結婚していると思っているようだ。
冷静になって考えてみれば、あの写真には駒田も道下も写っていた。写真まであって、私にその記憶がない。
彼らからみると、私が記憶喪失になったと思っているに違いない。
だけど、私は記憶喪失になったつもりはなかった。
それまでの記憶は鮮明に覚えていた。私が結婚したという前後のことだって、はっきりと覚えていた。仕事が忙しかったこと…。あのプロジェクトが成功裏に終わったこと…。その後、少しずついろいろなことを任せられるようになったこと…。みんな覚えていた。
ただ、結婚したという事実と、あの女のことだけが頭の中からスッポリとなくなっていたのだ。
それから、ホテルで一晩色々考えた結果、逃げていてもしかたがないという結論に至った。
翌朝、私は不安を拳で握りしめて実家に帰った。
そして、両親、あの女と話し合った。
しかし、何を聞いても、やっぱり思い出せなかった。
思い出せなかったけれど、写真とか友人の話から、どうやら私が本当に忘れてしまったと思うしかなかった。
私の記憶以外の事実は、私が結婚したことに間違いないことを、認めざるを得ない状況だったからだ。
すると、その女が言った。
「最初のころは、覚さんは、よくこちらに電話して来たり、私の携帯にも電話をくれたりしていたわ。そして、暇を見つけては私に会いに来てくれていたの。だけど、数か月前から、突然来なくなったし、わたしの携帯に連絡も来なくなったのよ。それでも、こちらには電話してきていたし、忙しいのだろうと我慢していたの…」
その女は、大粒の涙を一つ二つとこぼして言った。
昨日、私が実家を出て行ってから、その女がパソコンで色々調べてみたらしい。もしかしたら、解離性障害か心因性記憶障害という精神病かもしれないと言われた。
明日、月曜日になったら、病院に行くようにと、父は言った。そう言われても、私としてはまったく生活に支障をきたしていないし、健康なので断った。
それでも、父は病院に行くように私を説得しようとした。その女も、私に病院に行くように言った。
精神科を受診するなんて御免だ。私の頭がおかしいなんて言われるのはお断りだ。精神科で病名が分かったところで、記憶が戻るわけではないだろう。
診察で医師からあれこれ聞かれたり、催眠療法を受けたりはしたくなかった。経過観察でモルモットのように扱われるかもしれない。私はネズミではない。
私は、後ろめたい気はしたが、その女に言った。
「本当に申し訳ないけど、私はあなたのことを全く覚えていない。こんな私と結婚していても辛いだけだろうから、離婚してくれませんか?」
だけど、その女は私の申し出を拒否して、私と別れるつもりはないと言った
そして、実家にいることをやめ、私のアパートに引っ越すと言い出した。
私としては、知らない女と二人暮らしをするなんて、お断りだった。それに、あのアパートは、二人で暮らすのには狭すぎた場所だ。本当に私の記憶がなくなっただけなら、それは私の我ままかもしれないと思った。
そこで、私がアパートを引き払い、実家に戻ることを提案した。それなら、知らない女と二人暮らしよりは、少しはましだ。とっさの判断にしては上出来だ。
一週間後、私は実家に戻り、両親とその女との四人暮らしが始まった。
その女は、私より二つ年上だということが分かった。
そして、私の好物を知っていたし、私の習慣、趣味も知っていた。
好物は牡蠣フライ。嫌いなものはバナナ。朝食はご飯と味噌汁。新聞は朝食前に読む。最近はなかなかいく機会がないが、趣味は野鳥観察(バードウォッチング)。
これでは、この女が私の妻だと認めざるを得ない。
私にとっては、両親がいるとはいえ、全く知らない女と、いきなり同居することになったわけだ。
そんな女を、私の妻と言って暮らすことになっても、完全に受け入れることなんて出来るはずがなかった。
ぎこちない毎日が続いた。毎日、仕事を終えて家に帰るのが憂鬱だった。でも、精神的に辛いのは、あの女も同じだと思って我慢していた。
その女は私の顔を見て話しかけてくるけれど、それが私との出会いから、実家での出会いの日までのことだったりすると、私は当然覚えていない。私が困った顔をすると、慌てて「ごめんなさい」と謝った。
その女は、時々話の合間に、私が記憶のない期間の話を持ち出しては、「ごめんなさい」と謝った。
その度に、その女が私の記憶を蘇らせるために、この話を持ち出すのだろうと思い、申し訳ない気になった。
それは、その女にとって、地獄のような日々だったかもしれない。私もその話が一番辛かった。
本来なら希望に満ちた結婚が、新婚からずっと私の実家暮らしだ。ようやく、私と生活出来ることになったのに、今度は私に他人扱いされている訳だから、たまらないと思う。私だって、たまらない気持ちは同じだった。
こんな生活を続けているのが、その女に申し訳ないと思ったので、何度か離婚を切り出した。しかし、その度に大泣きしてその女は断って来た。
「覚さんは、その内必ず思い出してくれる。だから、私はその日を待っている。別れるなんて言わないで…」
毎回そう言って、離婚を拒否した。
そう言われると、思い出せない私が悪いような気になり、それ以上言えずにいた。
その女の得意料理で、私が好きだったものと言って出された食事も、私にとっては初めての味だったりした。
休みの日には、二人で行ったと言って案内された場所も全く知らなかった。
その女は、私に記憶を取り戻してほしいと、必死なのだろうが、私の記憶はまるで戻らなかった。
私がプロポーズしたという、スナック「幻影」にも連れていかれたが、私には知らない店だった。
しかし、ママは私に「仲良くやっているようね」などと話しかけてきた。私は曖昧に答えておいた。
そんな状況で、夜の生活なんて到底できなかった。同居することになっても、知らない女と一緒に寝る訳にはいかないので、布団は別にしていた。この時ばかりは、ダブルベッドを買っていなかった自分に感謝した。
結婚して半年ということは、本来なら互いの肌のぬくもりを感じながら眠りにつくのだろうが、そんな気にはならなかった。その女にとっては、同居できたのに辛い夜だったかもしれなかった。まったく知らない女を抱くのも気が引けて、全然手を出せなかった。
何度か、「我慢しなくていいのよ」と言われたけど、やっぱり無理だった。
何というか、見知らぬ女を無理やり抱くような気分になって、罪悪感の方が性欲を上回っていたのだ。
一緒に生活を始めて一ヶ月ほどは、会話も劇のセリフのように不自然な接し方だった。
しかし、徐々に私もその女と話しができるようになった。栄子と呼ぶことにも慣れてきた。
栄子も、泣くことが少なくなって、笑顔で過ごすことが多くなっていた。
時々、出会った頃の話をして、私が知らないと言うと悲しそうな顔をしたけど、それ以上に笑顔が増えた。
栄子が知る私との想い出は、私にとっては他人事であったが、栄子はそれでもいいと言っていた。
これまでの全てがなくなったのなら、また一から作り直せばいいとも言ってくれた。
そんな栄子に私は感謝したし、幸せにしようとも思い始めた。栄子との過去については、その内に思い出すだろうとも思い始めた。栄子は美人だったし、気立ても優しかった。料理だってとても美味しかった。
私が実家に帰って初めて栄子を見た時から、今まで一緒に暮らしてきて、妻として申し分のない女性であるとも思っていた。
だから、私は栄子にプロポーズをすることにした。妻として、彼女と暮らすことに自分なりに区切りをつけたかった。私は、自分の中で栄子を正式に妻として迎えるために、指輪も買ってプロポーズした。
もちろん、栄子にとっては二回目のプロポーズだし、戸籍上では私と栄子は既に夫婦だったから、正式な妻とは妙な話ではあったけど、栄子は喜んでくれた。
栄子は指輪を見せると、ひどく神妙な顔になった。
「よろしくお願いします」
そう言って、栄子は泣きながら指輪を付けてくれた。
その時、私は栄子と本当の夫婦になれた気がした。
その夜、私は初めてお腹の子をいたわりながら、栄子を抱いた。私は栄子を抱くことで何か思い出すかもしれないと、淡い期待を持った。しかし、栄子がこの時を待っていたかのように、歓喜の声をあげただけだった。
私にとって、栄子は初めての女だった。
栄子は今でも二つの指輪を持っている。一つは、以前の私が渡したという指輪。もう一つは、今の私が渡した指輪だ。
栄子は今の私が渡した指輪をつけていて、以前の私が渡した指輪は大切に保管されている。栄子は、どちらも一生の宝物だと言っていた。
その後、栄子は女の子を産んだ。美子と名付けた。
両親も私に似ていると喜んでいた。
私には、自分に似ているかどうかは分からなかった。両親が喜んでいるのだから、それでいいと思った。
今では栄子とはかなり仲がいいし、世間からは羨ましがられるような夫婦であり、親子だった。
私も栄子が妻で良かったと思うし、これからも夫婦でいたいと思っていた。美子も可愛いと思っていた。
でも、私の心の奥底には、栄子とのことを完全に認めていない自分もいた。時々、ふと考えてしまう。
栄子は一度目の結婚指輪を持っていたけど、私の指輪は家のどこを探してもなかった。
ましてや、栄子との写真が私のアパートにもどこにもなかったし、携帯のアルバムの中にもなかった。
つまり、実家で栄子と会った以前の栄子に関する一切の情報が、私にはなかったのだ。
栄子とは新婚だったのに、それは普通考えられないことだと思う。どうして、私が栄子のことを覚えていないのかが分からなかった。
以前私が贈った指輪のケースは、栄子が大切に持っていた。紙袋やレシートなどは、私も持っていないし、栄子が持っている訳もなかった。
そのケースは、リングをはめるスリットがふたつあるものだった。確かに指輪を入れる穴は二つあったから、私の指輪も間違いなくあったと思うしかなかった。
私の結婚指輪は、紛失した可能性があったし、処分した可能性もあった。
写真も持っていなかったことを考えると、指輪も写真も処分をした可能性の方が高いかもしれなかった。
しかし、処分したのなら、処分をするそれなりの理由があるはずだ。
その理由は、もしかしたら、知らない方がいいのかもしれないと思う自分と、どうして思い出さないのだと不安になる自分が、同居していた。
私なりに疑われる病気については調べてみた。
解離性障害は、ある特定の情報に関する記憶が部分的に喪失する病気のようだ。
原因としては、何かしらの心的外傷に曝されることによるようだ。
ネットで調べた情報によると、「慢性的な恐怖や突然の強い恐怖を感じると、自分の経験として認識するのではなく、あたかも他人がそうした状況に曝されているように感じることでストレスに対応しようとする。ひとつの出来事が生じた際、身体的な感覚、環境、そのときの感情や思考状況などの要素をひとつの経験として感じ取るのが通常の反応だが、解離性障害ではその状況が非常に苦痛であるために、ひとつの感覚として認識せずに自分から分断することで問題に対処するようになる。このように自分自身を分断させ、あたかも外部から眺めるような形でみる状況は、大人よりも小児において生じやすいという。そのため、幼少期の経験がもとになって解離性障害を発症すると考えられる」とあった。
しかし、幼少期の経験がもとで、栄子との記憶が消えてしまったとは考えにくかった。
心因性記憶障害についても、ネットでは「精神的なストレス等によって記憶が失われてしまう障害だという。通常、過去のことを思い出せない逆行性健忘で、不快な体験や出来事、特定の人物を思い出せなくなることが多いそうだ。それはどうやら何かのキッカケからストレスがバーストして起こることが多い」と書いてあった。
もし私が病気だとしたら、心因性記憶障害の方が可能性は高いと思った。
しかし、私が心因性記憶障害なのだとしたのなら、そのキッカケとは何なのだろうか? 栄子に関する記憶が全部吹っ飛ぶくらいのキッカケって何なのだろうか?
それは、いくら考えても分からないし。今ではどうでもいいことだと思い始めていた。いっそ、このまま思い出さない方が幸せなのかもしれないとすら、思うようになっていた。
初めの頃は、栄子のことだけを覚えてないことに、暗闇の中に一人取り残されてしまったような不安を感じていたけど、今では思い出す方が怖いと思い始めていた。
それでも、思い出さない不安は、暗い夜道で誰かが付けて来るかのように、今も付きまとう。それで私は、今更だが、高校時代からの友人の駒田に相談した。
「二人とも、今は幸せなのだろう。それで良かったじゃないか…。結局、病院には行ってないのか?」
「行ってないよ。だって精神科だぞ? 行きたくもないし、行かなくても別に困ってないし…」
「困っているじゃないか…。現にこうしてオレに相談しているのが困ってるって証拠だよ。そもそも、仕事が忙しいからって、新婚の嫁を実家に住ませるところからしておかしいよね。オレは、当時二人はあのアパートに住んでいるものだと思っていたからな。何か彼女のことで不安とか嫌なことがあったんじゃないのか? それで、そのストレスで記憶がなくなったとか…」
「おい、脅かすなよ。そんな深い理由はないと思うよ。あの当時は、とても忙しかったから、何日も帰れそうにないことが分かっていたし、栄子をアパートに一人残すのは色々危険が多いからってことで、実家に住むことになったって…。まあ、それはオレが両親に言ったことらしいんだがな…。オレは忙しかったことは、確かに覚えているよ。だから、そうかもしれないし、違うかもしれない。どちらにしても、今となっては分からない」
「悪いことばかりを考えるな。悪い意味じゃ無い可能性もあるよ。雨森は真面目なところがあるから、好きなのに別居していることに罪悪感を覚えて、それに耐えられなくなってきて存在を消そうとしたとかね」
「そうか…。そんなことで記憶がなくなるかな…」
「知りたいと思わないなら知らなくても良いと思うし、知らない方が良かったってことだってあるからな。ある日、気が付いたら結婚していた。そして、今が幸せならいいんじゃないの…」
「お前はさ、他人事だからそんな呑気なことを言っていられるけど、この状況は結構大変だよ」
「そうじゃないけどさ。その期間の出来事を丸々覚えてない、記憶喪失って話はテレビなんかでもよくやっているけど、特定の人物の記憶だけがないのはすごく不思議だよな。雨森が、不安そうにしていたら、奥さんにしたら、また忘れられるかもしれない恐怖があるかもな…」
「それは考えなかった。分かった。もう、過去のことは詮索しないよ。今が幸せなんだから、いいよな」
それから何年かして、会社も大きくなり、私は部長になった。もう失われた記憶のことなど忘れていた。
蒸し暑い、ある夏の夜、私は恐ろしい夢を見た。
結婚して間もない栄子がアパートで強盗に襲われた。
残業中だった私に警察から連絡が入ったのは、夜中の十二時近くだ。安否を確認すると、栄子は勇敢にも、持っていた包丁で強盗を撃退したというのだ。
私は栄子を迎えに警察署に行った。
「大丈夫か? 怪我はないか?」と、英子に聞いた。
「インターホンが鳴って、あなたかと思って玄関に出たら、いきなり強盗が襲い掛かってきたの…」。
私は栄子を抱きしめ、「怖かっただろう」と背中を撫でた。しかし、栄子は思いのほか落ち着いていた。
普通は、もっと泣き叫ぶのではないのか?
何か不自然だと思った途端に、背中を氷柱の先で撫でられたように、寒気が腰から首筋へと走った。
私だと思ったのに、なぜ包丁を持って出たのだ?
その包丁は、私を刺すためだったのではないのか?
私を刺すような何かがあったのではないのか?
その何かが、私に栄子を忘れさせたのではないのか?
何があったのだ。私の頭の中に、ビックリ箱の中から飛び出したように、恐怖という文字が突然現れた。
私はシーツが濡れるほど全身汗まみれで目が覚めた。
これは、ただの夢なのか? 記憶の奥に眠っていた真実なのか? 心の奥底で、忘れかけていた青白い不安に加え、新たに恐怖という赤い火が灯ってしまった。
心の闇の中で、青い不安と赤い恐怖が、床屋のサインポールのように、光を放ちぐるぐると回り始めた。