年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

新宿歴史博物館で高須4兄弟の本を購入

2023年04月13日 | 福神漬
新宿歴史博物館は今まで都営新宿線曙橋駅から訪問していたが、都営浅草線泉岳寺駅でバス便を見つけ、四谷3丁目のバス停で降りて向かった。四谷3丁目の交差点に消防博物館があって、そこでは江戸時代の火消しの模様から現代の消防への過程がよくわかる。後でこの中に図書室があって、高野長英の放火脱獄の件の資料を探してみたい。江戸時代は紙と木で出来ていた江戸は火事が多かった。
 平成26年度の新宿歴史博物館で新宿荒木町に生まれた幕末維新という特別展があって、その冊子を求めて、消防博物館から歩いて行った。10分もかからず着く。福島県郡山市出身の石井研堂が書いた(明治事物起源)の缶詰の始まりで明治3年中、工部大学のお雇い教師米国人某が、東京市四谷区津の守に住まい手云々。 と書いてあってこの米国人は他の起源本ではベンジャミン・スミス・ライマンとなっている。しかしライマンなら来日は明治3年では無いし、四谷に住んだ様子もない。この缶詰の始まりの文章は個別に検証すると誤記が多く、文献としては役に立たない。日本缶詰協会の日本缶詰史ではコラム扱いとなっている。
 もう何年も福神漬の歴史を調べているが石井の誤記は意図的に書いたと思われる。その理由は明治事物起源の編纂時期は日清・日露の戦勝後で、明治維新が薩長の力といううぬぼれの言論圧力に東北人の意地があるように感じる。四谷区津の守は江戸時代は美濃国高須藩松平家の上屋敷だった。その地で幕末の高須4兄弟が生まれた。福島県郡山も戊辰戦争で大きな被害を受けていて、さらに東北地方は明治政府の人たちからは、「白河以北一山百文」と言われていました。 「白 河以北一山百文」というのは、白河から北の地域、つまり東北地方は、「一山百文」程度しか値打ちがないと いう意味です。
 この石井の缶詰の始まりの文は石井も薩長史観をやんわり否定する事実を列記し、時に誤記をいれ、批判された時の逃げ道を作っていた気がします。
 缶詰に入れた漬物の由来から書き始め、島原の乱(鎖国の原因となった)軍用漬物、幕府漬物方の箱館五稜郭での千葉行徳の漬物商人の戦死、文化年間の近藤重蔵の紋別漬、アメリカのペリ―来航から幕末が始まっていないと暗に記述している。缶詰食品は輸出産業。新宿の農事試験場のテスト製造、北海道開拓使の缶詰製造と列記している。項目は事実としてあるが全体の論理として石井の非薩長史観が隠れて見える。
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新たな福神漬創製者の名前

2023年02月20日 | 福神漬
東洋経済のコラムで新しい福神漬の創製者が見えた。味の素食の文化センタ-の図書室で読んだ。

醤油・味噌・アミノ酸/質疑応答 木下浅吉著 昭和10年出版1935年

 元祖は東京下谷区池之端の野田清右衛門(酒悦)で明治19年であり、これを
創製したのは東京牛込区中町久松良之助氏である。始め7種の蔬菜を用いて醤油に味付け、当時上野公園に開かれていた大日本水産会の第一回品評会に出品し、試食に供し、好評を博し売店にて販売したのが世に出た始まりであるという。
 当時は名称も決定してなかったが、田中芳男・河原田盛義氏等に相計り7種の蔬菜を用いたのだから七福神に倣って福神漬と命名したということである。またこの漬物は便利で経済で真に福の神に好かれる漬物だと言ってこの名前を付けたとも言われている。

 長い間福神漬の命名由来を調べていて、明治19年説はその根拠となる文献が見つからなかった。この本が明治19年説の出どころかもしれない。
 大正4年出版の
大日本洋酒缶詰沿革史 附載 洋酒、缶詰、乳製品登録商標 洋酒編・缶詰編
 にはほぼ似ている福神漬創製の逸話が記述がある。木下氏の引用もここから来ていて水産博覧会の年が誤記となっている。明治期の文献には記憶で書いている部分が多く、鵜呑みには出来ないと感じる。福神漬の由来を書いた新聞記者だった長井総太郎(鶯亭金升)は自分史でも間違いが見え、うっかり文献として引用が出来ない。さらに隠している不都合なところを検証するとその時期では世間的に評判が悪かった事柄だったりする。

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明治屋食品事典の寄贈

2023年02月17日 | 福神漬
昭和10年の刊行の明治屋食品辞典を2013年佐賀県唐津の古書店から購入した。送料込みで2200円。先の転居の時に危うく廃棄物扱いの物に家人から要求されたが、手帳位のサイズのため、廃棄の難を逃れた。
 昨年暮れに東洋経済のネットで福神漬が取り上げられ、著者の本を借り出しで、出典を探るとどうやら高輪の味の素食の文化センタ-での取材があるようだ。
味の素食の文化センタ-の所蔵本はネットで検索できるので調べると戦後に何回か発行された明治屋食品辞典でも戦前の本は所蔵されていない。それで寄贈することにした。
 福神漬は明治の10年代から上野公園の整備で観光客のために持ち帰ることのできる容器に入れて工夫された食品であった。そのため福神漬の基本的な考えに缶詰という言葉が無ければいけない。文献に言及している福神漬のライタ―も引用の本に缶詰という言葉が入っているにかかわらず無視している。
 諸説ありますがと言ってバラエティー番組で説の根拠を逃れているが、酒悦の福神漬は今でも缶詰入りが販売されている。食品問屋の大手の国分も日本橋の自社店舗で最近まで缶詰入りの日本橋漬を販売していた。今は瓶詰入りとなっている。あまり売れていないが日本橋の御当地食品となっている。国分は江戸時代に大名との衣服取引から茨城県土浦市の醤油取引の縁が生まれ、利益の出ないので醤油取引に転向し、その過程で醤油の空きだる回送へ、ついでに食品流通へと向かった。日本橋漬というブランドは福神漬で商標登録で最古となる。大正元年である。酒悦は商標登録せず福神漬は普通名詞となり、いわゆるJAS法に福神漬の名称となった。
 これらの経緯と戦前の福神漬等を文献から調べると、明治屋食品辞典が根拠のある文献となる。
1 索引の所で福神漬は フクジンズケとなっていて日本経済新聞の調査でフクシンツケと 濁らない福神漬は方言のようでもある。
 どちらも好き勝手言いたい。
2 福神漬の缶詰入りは今でもポリ袋入りより高価だが明治の時代でも高価すぎて、今の物価に換算しても1缶2000円は優に越していて、贈答用・観光土産品だった。初期の軍隊納の福神漬は樽入りと思われる文献がある。
 日清戦争終戦間際に大阪第四師団向けの福神漬献納の文献がある。献納者は大倉組で長い間福神漬を調べていて、公式文献で東京名産福神漬と出て来るの
が初めてだった。なぜ大阪の第四師団へと長い間不明だったが、明治28年に有栖川宮死去し、戊辰戦争で敵方になった輪王寺宮(北白川能久)を疎まれ閑職にいたのを、北白川宮の実兄の小松宮が弟に朝鮮半島での活躍の場を与えた。ちなみに上野動物園の正門前に小松宮の銅像がある。
 つまり日本版死の商人と言われた大倉喜八郎は陸軍に活躍の場を与えられた北白川宮に福神漬を献納した意味が見える。(上野戦争で彰義隊と京都方の双方に武器を売り込んでいて、最終的に金払いの良い京都方に武器を売った。)従って江戸市民と明治の言論界を支配していた旧幕臣知識層に評判が悪かった。
3 明治屋食品辞典は国会図書館でマイクロフィッシュ化され見て印刷できる。しかし初めて購入した時、福神漬の項目が他の日本の漬物全ぺ-ジと同じくらいの項目でさらに独立していた。
 この辞典の意図は明治屋内の店員教育用の本と企画され外部に販売されたようだが、昭和10年という時期と考慮しないといけないと感じる。福神漬の項目が大きいのは缶詰つまり軍需食品だったことを示している。
 戦後に再発行された明治屋食品辞典は鬼畜米英の時代から米軍払い下げ食品で馴染んだ欧風の食品の項目が増えている。版が新しくなるたび食品の変化が解かる本となっている。
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初代国立劇場さよなら公演 2023年1月遠山桜天保日記 これがどうして気になるのか

2022年12月14日 | 福神漬
築地市場に勤めていて、移転問題がどこから来ているかを調べていた。大方の史料では明治の日本橋魚河岸等の移転問題も基本は条約改正が根底にあることに気が付いた。日本の繁華街をレンガつくりにし西洋と変わりない風景を見せようとした。しかし銀座の隣というべき所に日本橋魚河岸があって、西洋人から見て不衛生とみられる風景があった。そこから日本橋魚河岸の移転問題が東京、いや日本の重要な問題となっていることに気が付く。最終的に日本橋魚河岸が移転になったのは関東大震災の戒厳令で魚河岸での路上販売が禁止され、そのうちに他の地域で市が復活し、なし崩し的に日本橋魚河岸の地位が下がった。本当に中央卸売市場法が出来、関西から中央卸売市場が出来た。これも物価高騰、買い占め防止、生産者に速やかな支払い等の目的があった。
 このような都市行政が日本のどこから来ているかと遡ると嘉永年間の株仲間再興令にたどり着く。すると当時の南町奉行遠山景元、留守居役筒井政憲、老中首座・阿部正弘 の記録が出てくる。
棚橋正博著『捏造されたヒ-ロ-、遠山金四郎』という本がある。ある著名な日本史学者が遠山景元の評伝がないのは解釈が難しいという。実際のこの本で北町奉行時代には遠山は歌舞伎役者を弾圧している。本を出版したところの宣伝文は次のようになっていいる。
「遠山の金さん」こと遠山金四郎景元は、本当に桜の彫物をした庶民の味方の名奉行だったのか。ドラマでおなじみのヒーロー像に真っ向から挑戦する、新説歴史ドキュメント。
 今度の三宅坂国立劇場の最終公演の演目で歌舞伎を救った遠山の金さんとなっている。歌舞伎の弾圧者か救済者かをどう表現するのか気になる。
 天保の改革で株仲間を解散させ、十年後に不都合と言って株仲間再興令を出しても、不信感が商人の中にあって元に戻らなくなり、幕府の崩壊が促進された。これらの政策は日本という閉じられていた国の経済なので研究が進んでいて面白い。それでも遠山の行動の解釈が難しい様だ。
 不思議なことに北町奉行の印象がある遠山の在任期間は(天保11年(1840年)3月2日 - 天保14年(1843年)2月24日) までで、南の方が在任期間が長い(弘化2年(1845年)3月15日 - 嘉永5年(1852年)3月24日) 。
 高野長英が捕縛されたのが嘉永3年10月30日で管轄は南町奉行だった。当然12月の判決は南町奉行遠山景元が決裁した。
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近代食文化研究会 「NHKがいま一番恐れる男」の福神漬 

2022年11月19日 | 福神漬
2022年11月16日と17日に東洋経済オンラインで福神漬の記事があった。
 タイトルは(カレ―に『福神漬』を入れる人が知らない’真実’
知る人ぞ知る「NHKがいま一番恐れる男」と密かに言われている人のようだ。マイナ-な近代食文化を研究していて、NHKの下請けで番組制作者には怖い存在のようだ。膨大な近代日本の食を調べていて、雑学的な食情報を調査しているようだ。
参考 お好み焼きの物語  -執念の調査が解き明かす新戦前史-
近代食文化研究会著 2019年1月
 
 福神漬を自分自身が調べ始めて20年近くなるが新しい知見が入り、また味の素食の文化センタ-と図書館通いが始まりそうだ。
 ただコラムの文章が制約があるのか肝心の部分が無い。それは日暮里の浄光寺のある福神漬顕彰碑の解明が無い。ここには戊辰戦争の最後の戦いの残影がある。顕彰碑の設立者名の中に山田箕之助という名前がある。明治事物起源石井研堂著という本の中に缶詰の始まりという文章があって、山田箕之助と喜兵衛が親族であるという。箱館戦争の最後の戦闘で浦賀与力達と喜兵衛という千葉行徳の漬物商人が戦死している。

 まだまだ福神漬で知らないことが増えた。漬物業界の人でないので文献のない所が難点かもしれない。多くの庶民の食べ物の変遷は後から語れるので事実確認は膨大な雑学知識を必要とする。タクワン漬の命名由来の調べごとで、香道、茶道と源氏物語の知識が必要で、茶会史を知らべている人の本を読む必要がある。茶会の記録が残っていて、初期の記録では香の物とあって、元禄の頃からタクワンという記録が出ている。どのあたりからタクワンが普通名詞になったかまだ分からない。
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ナタマメを見るため房総のむらへ

2022年10月24日 | 福神漬
千葉県成田市付近に千葉県立(房総のむら)という体験型の博物館の公園があります。そこのところに福神漬に入っている刀豆があると旭市大原幽学記念館で聞いていたのでどのように展示しているか見に行きました。
ナタマメがあったのは下総農家の様子を展示してあるところで落花生(殻付き)小豆などの乾燥させ保存している所にありました。
 大きさを比較するため、入場時に頂いたパンフレットを添えて写真を撮った。パンフレットの大きさは長辺が21CMで短辺が10CMです。
 展示していたナタマメは日干ししたあとなので乾燥前は30CMは超えていたと思われます。またこの形からタバコの道具で清水の次郎長が愛用した刀豆キセルという煙管をタバコと塩の博物館で見たことがあります。本当に刀豆のさやの形に似ています。
最後に今現在において、千葉方面で個人の人が何のために刀豆を栽培しているか知りたい。
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鶯亭金升日記の謎解き

2022年09月21日 | 福神漬
台風で家から出れないので、まだ未完成の原稿を手直しする。

 福神漬の伝聞の逸話を検証すと事実と異なることが多く、それの解釈でまた時間がかかる。小林清親の娘である「小林哥津」さんの本が都立中央図書館にある。 
清親考
小林 哥津著 -- 素面の会 -- 1975
鶯亭金升が仁科家の令嬢と結婚した時の仲人が小林清親だった。彼が結婚後の住まいとしたのは池之端御前と言われた福地桜痴(源一郎)の所有の家で、今の横山大観記念館の位置となっている。福地の経営する東京日日新聞が経営不振となって隣地に住んでいた日本郵船重役浅田正文によって、火除け地として買収された。浅田正文が明治末に死去した後、大正の地券(土地所有)の記録では横山秀麿となった。この件で大観記念館の人に聞くと、びっくりしたようで、福神漬の歴史を調べていると話すとまた驚いていた。学芸員の話だと南面の庭のところが福地桜痴の地所で茶室があったという。
小林 哥津さんの本によると、団団珍聞へ清親を紹介したのは鶯亭金升だという。このことを小林清親の研究書にはほとんど言及されていない。冷静に考えて14歳の少年がはるかに年上の清親の就職あっせんしたとは思えないからだろう。まだ文献は見つけていないが、日本の政治小説の初期に活躍した戸田欽堂の影響があったと思われる。鶯亭金升の父は明治維新後に静岡へ行かず、江戸から東京になった地で生活していた。明治の新橋横浜間の鉄道事業が始まると七等の鉄道寮の役人になった。ただ鉄道が明治5年に開業したのち翌6年に死去した。
 鶯亭金升の三代キシャの家系の意味がなかなか分からなかったが、騎射・汽車と新聞記者ということで、騎射とは御先手弓組の事で長井五右衛門昌純は火付盗賊改の職をかなり長期間勤めていた。池波正太郎の長谷川平蔵の小説
『鬼平犯科帳』が出るまで、戦前は火付盗賊改の職が嫌われていた。鶯亭金升日記は金升の日記の抜粋だが長井五右衛門の話は殆どなく、親族の中ではあまり語りたくない先祖の仕事のようだった。それほど『鬼平犯科帳』が出るまで評判の悪い治安維持の役所だった。ゆすったり冤罪があったりしていた。
 この金升日記はどうも編纂者の感想で後々公開されても良いように日記が書かれ、切り抜き等があるようだ。従って金升にとって不都合なことは触れても内容があっさりしている。自由民権運動福島事件の被告人花香恭次郎の死去の日記もあっさりしている。ぺり―来航時に米国国書を受け取った祖父戸田伊豆守氏栄のことは多く日記に出ているが父昌言が面倒を見た花香恭次郎は少ない。金升が6歳ころに父が死去したため、花香恭次郎は花香家と横浜の高島嘉右衛門の世話を受けたと推測される。高島嘉右衛門の姉は大垣戸田家の側室で戸田欣堂を生んだ。幕末の金銀の交換レ-トの差益を狙った嘉右衛門が幕府に見つかり捕縛された時、戸田家からやむなく離縁されたようだ。
この辺りは小説家の書くところで、火付盗賊改の職を経験している家人は今の留置場のマナ-を知っていて、高島嘉右衛門が石川島に収容されていた時便宜を払っていたと推測できる。地獄の沙汰も金次第という言葉がある。これは牢獄の中で生きるにはお金が必要ということを意味している。今と違って明治の初めの西洋式監獄が出来るまで不衛生で判決前の時に病気で獄死するものが多かった。
 金升日記に出てくる正月の年始回りで行く戸田家とはどの家なのだろうか。2022年10月は鉄道開業150年となる。金升の父は鉄道寮に勤めていて開業時に母と共に見ていたようだ。


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フェ-トン号事件から始まる福神漬の歴史4

2022年09月13日 | 福神漬

 多くの幕末関連の本は明治初めの函館戦争後で殆んど言ってよいくらい消えている。大政奉還後に鳥羽伏見の戦いがあって戊辰の戦乱が続くのだが庶民の生活には何があったのか知ろうとすると文献の量も少ない。当時の庶民といっても記録を残すことの出来る人たちの研究がまだ少ないようだ。

 浦賀の町にあった塩商人と浦賀与力たちの開国後の浦賀の様子はどうだったのだろうか。この辺を理解しないと戊辰戦争の最後の戦闘で浦賀でペリ-の船に最初に乗り込んだ中島三郎助と千葉行徳の漬物商人がなぜ函館で同じ日に戦死したかの解明が進まない。開国後長崎のほかに通商を行う港が横浜・神戸・函館・新潟と徐々に増える従い、浦賀の重要性が減っていったと思われる。町を活性化する活動が塩を扱う商人たちで中で行われていた。同時期の長崎も同様な悩みもあったようだ。明治期の東京で活躍した人で長崎から東京へ移った人に福神漬の歴史に出てくる人が多い。何故なのだろうか。地方の行政官(町与力)と言う現場を仕切る人たちが激変した情勢からいかに町を活性化するということは今でも行われている。江戸幕府から任命された長崎奉行は平和な時期で長崎貿易が縮小時期にかなり苦労したようだ。経済が縮小する時期に税収(上納金)上げようとすると無理がある。長崎奉行戸田出雲守氏孟はかなり無理な行政を長崎で行ったため在任中に死去した。多くの悪評判が文献として今に伝わり長崎本には市民に評判が悪い長崎奉行と書かれている。当然その子孫(戸田伊豆守氏栄・長井越前守昌言・鶯亭金升)は先祖を語ることは少なく不思議だった記憶がある。

 木村直樹著 長崎奉行の歴史から

福神漬の歴史で文献に今でも残るのは1804年に突然長崎にオランダ船という偽旗を掲げて、入港し長崎奉行が慌てたフェ-トン号事件がある。長崎奉行は不始末の責任を取って自決した。警備を届け出もなく縮小していた肥前藩も処罰を免れなかった。イギリス船が長崎に来た理由は、ヨーロッパのフランスとの戦争の余波だった。そのことから、日本史がアジア史の世界から世界史の世界に入った事件だった。フランスのナポレオンは軍隊用の長期保存でき持ち運びできる食品開発を求め。懸賞を出していた。これが缶詰の始まりとなっている。実際に缶詰が普及したのはイギリスで完成したのはアメリカとなっている。国土の広いアメリカでは多くの激安缶詰食品がアメリカの量販店で陳列されている。
 福神漬の文献で缶詰協会の日本缶詰史ではコラム扱いとなっているがそれなりの存在感がある。なぜか不思議な想いがあって、今は神田に移転してしまったが有楽町前にあった時缶詰協会を訪問し、色々な資料を頂いた。


 

 

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薬事法に触れそうで刀豆の薬効

2022年09月13日 | 福神漬
福神漬に入っている刀豆の薬効は今から15年ほど前はネットに出ていなくて、調べるのを断念していた。先日台東区の図書館のリファレンスで原色牧野和漢薬草大図鑑というのを教えてもらい薬効を確認した。
 ネットで今出ている効能を書くと次のようなものがあるが、本当に効能があるかは判断できない。
 一番気になるのは口臭を減らすナタマメ歯磨きで、普通の歯磨きの倍以上の価格だった。
次によく新聞の通販広告で「なたまめ茶」には、なた豆特有の成分のほかにも多くの成分が含まれており、 その中でも、赤なた豆にはポリフェノールが多く含まれているとされています。 なた豆に多く含まれているのは「タンニン」で、殺菌効果や高い抗酸化作用があり、血中コレステロールを低下させたり、高血圧・動脈硬化・脳梗塞の予防といった健康効果や、活性酸素の除去(酸化予防)といったエイジングケア効果も期待できます。
 ただこの様な刀豆の薬効は本草書には見当たらなかった。今の薬効はナタマメの成分分析から導きだされている気がしている。ちなみに牧野の本では薬理は未詳とある。体内を温め腎を益するなどの効能がある。
咽喉(いんこう)頭結核、腰痛を直すと言われる。その他の効能もあるが刀豆の通販宣伝には見当たらない。

 中国の明の時代に書かれ、日本でも江戸時代に出版された漢方の教科書「本草綱目」の中でなた豆が「腎を益し、元を補う」と紹介されています。腎臓にも良いと刀豆茶の宣伝もあります。中国来た漢方薬は何らかの経験知識からの言い伝えで来ていてどんどん薬効が解明されてきています。
なた豆と腎臓. なた豆は歯槽膿漏や蓄膿症などの「膿取り効果」も宣伝文にあります。
 上記の様々な刀豆の薬効は福神漬の宣伝文にはないのです。酒悦主人が明治の10年頃に上野の地域が戦争で荒廃したところから、観光で上野寛永寺の復活するに従い、増える観光客への食品開発をした様です。最初は3種類の野菜の漬物で作って、後に上野公園内で開催された水産博覧会で見た缶詰に開発した漬物を入れ、持ち帰りの出来るようにしました。しかし当時はお茶を保管する茶筒職人が手作りして缶を作っていて(日本製缶協会のHP)、缶も高価だったようです。そのため販売価格が高価すぎて中々売れなかったようです。そこで当時の池之端の老舗薬屋の守田『宝丹(寶丹)』 の宣伝を参考にしました。又は相談したかもしれません。
 活版印刷の普及と学校制度で読者人口が増え、江戸時代の戯作本が木版から活版印刷で出てきました。木版から大量に出版できる活版印刷で江戸時代の戯作本の出版ブ-ムがありました。梅亭金駕の(妙珍竹林七偏人)もその中の一冊でした。その本で池之端の香煎茶屋での話があります。江戸時代には酒袋・酒好.酒悦と3軒あったが明治まで残ったのが香煎茶屋が酒悦でした。
 そこで酒悦主人が文京区白山上に住んでいた梅亭金駕に新商品の命名を依頼したところ、三種の野菜を七種にし、江戸時代からの谷中の七福神詣でから(福神漬)と命名したと、目撃者の鶯亭金升が大正12年7月の日本缶詰協会(缶詰時報2巻)に語っています。それまでの福神漬命名説は大日本水産界の人と田中芳男の命名説が有力だったようです。従って福神漬の商品としての完成時期は明治18年頃と推測されます。

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南葛飾郡誌より ナタマメ

2022年09月12日 | 福神漬
こく‐しゅく【穀菽】
〘名〙 穀類と豆類。
一般社団法人日本雑穀協会のHPでは定義があって
雑穀の定義
古くからの類型で穀物は、主穀、雑穀、菽穀、擬穀に分けられ、主穀は主食作物であるイネ、コムギ、トウモロコシを指し、雑穀はイネ科作物のうち、小さい穎果をつけるヒエ、アワ、キビなどの総称です。菽穀はマメ類、擬穀はソバ、アマランサス、キノア等であり、主穀と雑穀が現在、穀物(cereal)として広く知られています。雑穀は時代背景や主食の変化につれ、捉えられ方も変わってきており、日本雑穀協会では、これら農学的な狭義の雑穀の定義を尊重しつつ、雑穀と呼ぶ作物の対象範囲を拡げ「主食以外に日本人が利用している穀物の総称」としています。
さて南葛飾郡誌の畑作の社会的考察(357ぺ-ジ)穀菽類、蔬菜類、花卉類の三種がある。穀菽類の記述は大麦から始まり14種の作付け面積が書かれている。刀豆は面積の一番少ない畑の作物のようだ。

 赤刀豆の種子は今でも販売されているので広い敷地があったら栽培してみたい。ジャックと豆の木の童話があるように油断するとかなりの高さまで伸びるようだ。また鹿児島(薩摩)の言い伝えでは刀豆を旅立ちの時の持たせるという。なた豆は上のほうから実り始め、だんだん茎のほうに帰ってくることから、無事に帰れるようにとの願いを 込め旅立ちの時に刀豆をわたすという。薩摩藩の小松帯刀の名前の帯刀とは別の読み方で太刀はき・辞書では帯刀のことを刀豆の別名というのもある。
刀豆は鹿児島県で栽培される物には50cmから70cmにもなるものがあって。刀や青龍刀のように見えます。-

 ここまで刀豆のことを調べてみるとやはり福神漬に酒悦主人が最初に入れた要因は薬効としてのモノより、形と名前の要因の方が意識される。つまり福神漬の刀豆には口臭除去等の薬効は皆無だろうし、言及している漬物業者もない。ナタマメの画像を見ると本当に刀の形に似ている。英語でも刀のマメ(SWORD BEENS)となっている。
SWORD BEENSをグーグルにコピペチェックすると、英語圏でも刀豆の画像が出るが福神漬のことは無さそうである。


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〇〇珍聞の表紙 小林清親

2022年09月10日 | 福神漬
前田愛著作集  第4巻 幻景の明治 前田 愛著1989年12月 筑摩書房
328頁 川柳と団団珍聞
明治10年に創刊された全国各地の小学生の作文投書を競う「穎才新誌」という少年向けの投書 雑誌が週に一万部、同じく同年に創刊された週刊滑稽風刺雑誌団団珍聞も週1万部発行していた。当時の木版印刷技術を超えた活版印刷の出来で、表紙の上部に馬と鹿、中央の円の中に異人が3人描かれ、一人は箒大の筆を持ち、もう一人は耳をそばだて、さらに一人は双眼鏡で見ている。報道の自由を表している。(団団)の雑誌名は悪名高い報道規制に対抗して〇〇という伏字を余儀なくされたジャ-ナリストの皮肉な抵抗だった。前田愛氏はこの絵の作者が小林清親と著書に書かれているが、明治10年の小林清親は団団珍聞には参加していなく、後に洋画家となった本多錦四郎(岡山県出身)と思われる。
 この読者が主体となった団団珍聞という雑誌は江戸時代からの文化で、編集者は巻頭の茶説と数枚のマンガだけで残りの欄は投書家に開放され、雑録は投書家の表現の見せ所だった。これは江戸時代からの軽文学の伝統が雑誌という新しいメディアに触発されたという。団珍の編集者と雑録の投書家は事件が起きると驚くべき速さで風刺を盛り込んだ投書を読者に伝えていた。風刺が効きすぎ政府の弾圧が強化されると、ごく仲間内にしかすぐに判らない謎的要素が強くなっていった。今だと女子高生の会話のように他人が聞いても仲間内しか判らないようにしていた。
 小林清親の娘である「小林哥津」(こばやしかつ)さんの本では小林清親を団団珍聞へ紹介したのは鶯亭金升というがこのことについて小林清親の研究者はほぼ全員と言ってよいくらい言及していない。明治23年に鶯亭金升は小林清親の仲人で仁科家の令嬢と結婚した。鶯亭金升は明治元年1868年生まれで、清親は1847年(弘化4年)で金升と21歳の年齢差があって、小林哥津さんの証言を真実とすると14歳の少年が35歳の清親の仕事の世話をしたことになって、とても美術評論家には信じられないと思っているのだろう。
 しかし、福神漬を調べてゆくうちに嘘ではないように思えてきた。明治6年に鶯亭金升の父が工部寮鉄道寮の7等の役人だった時死去した。明治5年秋の新橋横浜間の開業時に汽車を眺めていたという。慶應3年に目付となっていて、幕府崩壊後何らかの縁故で工部省鉄道寮に勤めた。この縁故就職は手ずるは何かというと高島嘉右衛門だと思われる。高島嘉右衛門の姉は大垣戸田家に行儀見習いと出仕して、藩主の子供を身ごもった。この子が戸田欣堂で自由民権家として知られている。嘉右衛門が幕府の法律違反の金銀の差益に手を出し、石川島に留置された。石川島で手助けしたのが大垣藩から離縁された嘉右衛門の姉で、さらに火付盗賊改の職の経験のある御先手弓組の長井家の支援もあったと思われる。旗本長井家に養子に行ったのがペリ―来航時に浦賀で米国国書を受け取った戸田伊豆守氏栄で鶯亭金升の父は氏栄の息子だった。浦賀で戸田氏栄の支援で大垣藩は野次馬整理の仕事をしていた。その時に黒船を見ていたので比較的に武備整備が出来ていて、鳥羽伏見の戦いの後、新政府軍が大垣で長期滞在となり、後にこのことから、岩倉具視の娘(三女極子)が戸田家に嫁いだ。明治20年の伊藤博文の首相官邸の仮装舞踏会のヒロインとなる女性である。

 明治6年に父を亡くした鶯亭金升の母子を助けたのが戸田欣堂と思われる。鶯亭金升は根岸の服部 波山(はっとり はざん、文政10年(1827年)‐明治27年 )の家塾で団団珍聞をマネして壁新聞を作り、14歳ころから投書家となった。この関係から小林清親が原胤昭との関係が見えてくる。つまり前後関係と大垣戸田家とから14歳の少年が35歳の清親の団団珍聞の風刺画家として就職斡旋しても不思議ではない。
 このあたりになると小説家の想像の範囲となる。


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暁斎画談の出版時期

2022年09月03日 | 福神漬
千代田図書館で暁斎画談を読んでいた時、出版時期は明治20年6月28日に出版願いを出し、同年7月6日版権許可が出た様だ。明治の頃の出版許可はどのような慣習か調べなければいけないが少なくとも6月までは広告がないという事が解った。これで当時の本の広告が掲載されている新聞を見れば時期がはっきりすると思われる。明治期の新聞広告は出版物と薬の広告が多かった。文字を読めるという事と新聞購読する財力が必要だった。
 明治20年4月20日明治政府の伊藤博文首相官邸で仮装舞踏会が開かれた。この舞踏会は井上薫が指導した条約改正をもくろむ欧化政策のクライマックスでもあった。
 首相官邸での夜会風景は4月22日の諸新聞で報道されることとなった。この夜会の風景は小林清親の(首相官邸舞踏会)の銅版画でよく引用されている。
 4月26日から明治天皇の歌舞伎を観覧したことも知られている。
この時期に「東京日日」「絵入自由」「絵入朝野」「やまと」新聞に政府高官のスキャンダル記事が出てきた。
 これらの記事は日時も正確でなく、さらに風聞と断りを入れつつ、読者が首相官邸仮装舞踏会を想像できるようにし、さらに好色と知られていた伊藤博文と容易に結びつく書き方をしていた。また首相官邸から裸足で辻待ちの人力車の行き先を調べ、逃げた女性を暗示した書き方だった。(出典・幻影の明治・前田愛著・三島通庸と鹿鳴館)
 5月になって「今日新聞」「絵入自由」「めざまし新聞」伊藤博文からレイプされそうになった女性が華族の子女で示談が拒否されたと書き込み、即時に発行停止となった。さらに前田愛は発行停止にならなかった「東京日日」「やまと」「絵入朝野」新聞の処分不均衡を詳しく解明している。それは警視庁の密偵の報告書にあって、絵入自由の記者が密偵の詰め所漏らしたことをそれぞれの新聞が話を大きくした。(当時も今の記者クラブのような組織があったようだ)
 事件の概要を故意にぼかしたり、ゆがめたり、それとなく暗示するする記事の書き方は言論を弾圧する「讒謗律」「新聞紙条例」などで言論を弾圧されていた記者たちの抵抗策だった。
 5月4日戸田伯爵(戸田極子の夫)が急に出世し、6月4日にはオ-ストリア駐在赴任した。新聞停止処分の3紙は戸田伯爵が出世した辞令発表の後だという。
 この時期は伊藤のスキャンダルの報道と暁斎画談の出版時期どのような関係があるか気になる。戯作者の梅亭金駕と狩野派絵師だった河鍋暁斎の間に何か風刺を入れていないか気になる。多くの河鍋暁斎研究家は梅亭金駕のことは無視しているように見える。








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岩崎灌園から葛飾区立木根川小学校へ

2022年09月02日 | 福神漬
福神漬に入っている刀豆を調べてゆくうちに、刀豆の薬としての効能を知りたくなり、日本に中国から渡来したのが江戸時代の初めの頃だと文献に記載されている。この時期に明代の李時珍(1518-1593年)が26年の歳月をかけ、700余の古典を調べ、自らの調査も合わせて1900種の薬物について記述した52巻から成る本草書(薬物学の大著「本草綱目」)が日本に入ってきたので何か関係がありそうでしらべていた。つまり江戸時代の初めには何らかの薬効があったとおもわれていた。
 福神漬には作られた言い伝えがあるがどれも根拠がありそうになっている。それでその根拠と思われたのがどこから来ていると調べてゆくうちに「本草綱目」にたどり着いたが刀豆の効能は不明だった。

園芸の達人本草学者・岩崎灌園(ワサキ カンエン)平野 恵著2017年7月


岩崎灌園は江戸時代後期の本草学者で写真のような植物絵で知られている。江戸周辺の薬草の史料は殆どなく、岩崎の武江産物誌しかない。これは江戸市民の花暦(種々の美しい花が咲く時節を四季の順に並べたもの。一種の観光案内) も兼ねている本草書でもある。そこに刀豆が記載され、江東地域で広く栽培されていた。
 明治に入って東京市は市中の産物調査を行った。そこで上下木下村で刀豆が記載されていた。東京市では唯一の記録である。
そこで上下木下村の今はどこに該当するか調べると墨田区の押上付近となっているが、これを曳舟図書館で調べると該当する地域が見当たらなかった。木下と検索すると東京都の治水関係の所から木下は(きね)と読むらしい。キネガワと入力するとヒットする。一番出てくるのがさだまさしのキネガワ橋という歌だった。どうやら歌詞の内容からさだまさし少年の暮らした世界だった。
(作詩・作曲) さだまさし さんが中学3年間暮らした地、ゆかり、の楽曲のようだ。
 なんという脱線調査なのだろう。ユーチュ-ブで歌を聴く。

 さらに調べてゆくと京成四つ木駅付近の荒川放水路の建設で上下木下川村は川底になったようで、いわゆる地域の継承ということで墨田区の方に比較的多く記録が残されている。さらに調べると木根川小学校というのがあって、その記録の資料館があるようだ。行ってみたいがコロナの流行中でいまいち免疫のない小学校に行くことをワクチン接種も少ないだろうしためらう。かといってもう先のない人生で骨折すれば寝たきりとなる年でもある。
 追加 墨田区の統合され消えた木下川小学校。葛飾区の今もある木根川小学校。
 
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谷中墓地で無縁扱いとなり改葬された関藤藤陰

2022年08月28日 | 福神漬
福神漬の資料調査で、ぺり―来航の時、久里浜海岸で米国国書を受け取った、日本の代表役人が戸田伊豆守氏栄でした。その氏栄の経歴を調べると、幕府の学問所に勤務する史料編纂する学者のような幕臣でした。地誌等の十数年の編纂仕事が終わり、水野忠邦の天保の改革時に、印旛沼工事に目付として参加しました。この抜擢のような人事がなぜあったか調べようと思い、国道16号線の脇にある「八千代市立郷土博物館」を訪問し、印旛沼運河開削工事の変遷を眺めて、戸田が目付として参加していたことを確認した。のちに井関隆子日記で印旛沼開削工事の方針をめぐって上司と対立し、辞職した。その後戸田は駿府町奉行を務め、老中阿部正弘の時に、日光奉行を経て浦賀奉行となった。弘化5年から嘉永6年まで浦賀奉行だった。この間の浦賀は異国船が毎年のように接近していた。その都度浦賀の与力たちは国防の不備を上申していたが、異国船が立ち去ると元の体制に戻った。それでも少しづつ国防の準備がなされていたようだ。 これには戸田氏栄が学問所での知識が生かされていたと感じる。前例を重んじる幕府で過去の先例を知っている戸田のアドバイスがあったと想像できる。
 異様の船 洋式船導入と鎖国体制 安達裕之著
本の案内文幕府はなぜ洋式船の導入をためらったのか。鎖国のための「大船建造禁止令」は実在したのか。膨大な資料の渉猟によって通説の誤りをただし、西洋文明受容の本質に迫る気鋭の力作。  
 幕府の鎖国体制維持のために海外渡航を禁止するため、洋式船建造を禁止したという通説が誤りで根拠がない。幕府は西国の水軍力を抑制するため大船を没収したに過ぎない。
 しかし、幕末には洋式船建造が幕府の粗法という確固たる認識になっていた。弘化~嘉永6年までの異国船打ち払い令復活協議の裏に船の形をめぐって協議が続いていた。この協議もぺり―の蒸気船という新技術で無駄な論議が消えて、開国に向かうしかなくなった。圧倒的な武力差を浦賀に集まった人たちが感じたと思われる。

敗れざる幕末 見延 典子著 東京 徳間書店
2012年4月
四方の波 栗谷川虹著 作品社 2008年
水上の杯 -小説関藤藤陰伝・老年時代-栗谷川虹著 作品社 2012年3月

 
昭和の士官学校の試験で、日本史の問題で一番出題が多かったのが頼山陽の日本外史と日本政記と言われる。頼山陽の死の間際に関藤藤陰(石川淵蔵・えんぞう・石川五郎・石川和介・関五郎)に事後処理を任せたようだ。

 アメリカ国書を日本にペり―が来た時、関藤藤陰は石川和介という名で老中阿部正弘の下で水戸藩の情報収集役をしていた。上記の小説では水戸藩徳川斉昭を蟄居の時の上司は老中になったばかりの阿部という。その後の水戸藩内部の情報収集役として、頼山陽の最後の塾頭として過ごした経歴から水戸藩では石川を通じて謹慎解除の運動を狙っていたという。ペり―の力で開国になると、安倍の指示で北方領土を調査している途中に老中阿部が死去し、中央の歴史の舞台から消えた。今は無名となったが阪谷家のそばにあった墓も合葬されたようだ。ネットで見ると阪谷朗廬『関藤藤陰先生碑』 があって、水上の杯という小説の最後に現代語訳がある。阪谷朗廬の阪谷家の墓は今でも谷中墓地に福山藩主のそばにある。
 水戸藩の攘夷思想と浦賀与力の中島三郎助(開国し技術導入)が合わないはずで、どうして付き合うことが出来たか判らなった。この触媒役が石川和介で彼は二度目のペリ―来航時に黒船に乗船している。
 これでやっと石井研堂の明治事物起源(缶詰の始まり)に箱館戦争の最後の戦いで浦賀与力衆と行徳の漬物商人が戦死した事情が解かってきた。この件から福神漬の命名には武士の象徴という刀はナタマメの比喩を含んでいると思われる。
 


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根岸派文学集の原抱一庵

2022年08月23日 | 福神漬

明治の10年台から20年台に台東区下谷根岸に集まった比較的旧習(江戸時代の習慣)を好み、酒を酌み交わし、歌舞伎を評論する文学者の交流会があった。(根岸派と言われていた)彼らは酒のつまみとして上野から出発した鉄道の中で福神漬の缶を開け、つまみとしている文献がある。

 この根岸派文学の中に原抱一庵という人がいる。福島県二本松市で開催された平島松尾の顕彰会でもう一度福島事件を見直し、佐藤清を調べていたら、佐藤の縁で仙台日日新聞へ原抱一庵が行ったという。福島自由新聞が発行されたとき、福島町の新聞発行所の近所に原は住んでいた。原は新聞に記事が足りなく隙間が生じたとき雑文を書いていた。平島・花香・佐藤清とは知り合いということになる。原の雑文を福島自由新聞に掲載されていたので、福島事件の時、一時拘束されたが未青年ということで釈放されたという。

 根岸に住んでいた森田思軒に感想文を送った縁で作家となる。彼の(闇中政治家)は福島事件の河野広中がモデルという。原の最後は根岸の病院で死去した。

 佐藤清を調べている人は少なく、やっと町田の自由民権資料館で教えてもらい、新潟県の横山真一さんしか見つからなかった。出身地である宮城県丸森町へ行っても知っている人もなく、忘れ去られている。町が衰亡したのは東北本線鉄道から離れたからと思われる。人の行動によって、新しい情報が入る。そこから離れた所は旧習に馴染んだ人たちの場となり、過去にしがみつく。
 丸森町は災害が何回もあって、今年の福島県沖地震で(2022年3月16日) 地震で鉄道が不通となりやっと阿武隈急行 6月27日より全線で運転を再開した 。
2019年10月に令和元年東日本台風は猛烈な台風へと発達し、静岡県に上陸。
東北地方や東日本を中心に、記録的な大雨をもたらしました。 水害の直前に丸森町に行っていたので記憶に残る街となった。700年ぶりの水害という。土台が盛り上がっている町役場の入り口まで水が来たようだ。
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