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多くの幕末関連の本は明治初めの函館戦争後で殆んど言ってよいくらい消えている。大政奉還後に鳥羽伏見の戦いがあって戊辰の戦乱が続くのだが庶民の生活には何があったのか知ろうとすると文献の量も少ない。当時の庶民といっても記録を残すことの出来る人たちの研究がまだ少ないようだ。
浦賀の町にあった塩商人と浦賀与力たちの開国後の浦賀の様子はどうだったのだろうか。この辺を理解しないと戊辰戦争の最後の戦闘で浦賀でペリ-の船に最初に乗り込んだ中島三郎助と千葉行徳の漬物商人がなぜ函館で同じ日に戦死したかの解明が進まない。開国後長崎のほかに通商を行う港が横浜・神戸・函館・新潟と徐々に増える従い、浦賀の重要性が減っていったと思われる。町を活性化する活動が塩を扱う商人たちで中で行われていた。同時期の長崎も同様な悩みもあったようだ。明治期の東京で活躍した人で長崎から東京へ移った人に福神漬の歴史に出てくる人が多い。何故なのだろうか。地方の行政官(町与力)と言う現場を仕切る人たちが激変した情勢からいかに町を活性化するということは今でも行われている。江戸幕府から任命された長崎奉行は平和な時期で長崎貿易が縮小時期にかなり苦労したようだ。経済が縮小する時期に税収(上納金)上げようとすると無理がある。長崎奉行戸田出雲守氏孟はかなり無理な行政を長崎で行ったため在任中に死去した。多くの悪評判が文献として今に伝わり長崎本には市民に評判が悪い長崎奉行と書かれている。当然その子孫(戸田伊豆守氏栄・長井越前守昌言・鶯亭金升)は先祖を語ることは少なく不思議だった記憶がある。
木村直樹著 長崎奉行の歴史から
〘名〙 穀類と豆類。
明治の10年台から20年台に台東区下谷根岸に集まった比較的旧習(江戸時代の習慣)を好み、酒を酌み交わし、歌舞伎を評論する文学者の交流会があった。(根岸派と言われていた)彼らは酒のつまみとして上野から出発した鉄道の中で福神漬の缶を開け、つまみとしている文献がある。
この根岸派文学の中に原抱一庵という人がいる。福島県二本松市で開催された平島松尾の顕彰会でもう一度福島事件を見直し、佐藤清を調べていたら、佐藤の縁で仙台日日新聞へ原抱一庵が行ったという。福島自由新聞が発行されたとき、福島町の新聞発行所の近所に原は住んでいた。原は新聞に記事が足りなく隙間が生じたとき雑文を書いていた。平島・花香・佐藤清とは知り合いということになる。原の雑文を福島自由新聞に掲載されていたので、福島事件の時、一時拘束されたが未青年ということで釈放されたという。
根岸に住んでいた森田思軒に感想文を送った縁で作家となる。彼の(闇中政治家)は福島事件の河野広中がモデルという。原の最後は根岸の病院で死去した。
東北地方や東日本を中心に、記録的な大雨をもたらしました。 水害の直前に丸森町に行っていたので記憶に残る街となった。700年ぶりの水害という。土台が盛り上がっている町役場の入り口まで水が来たようだ。