福神漬関連でどうしても上野公園内の諸施設のことを調べねばならない。彰義隊と新政府軍との上野戦争は短かったが上野の地は長く出入りが禁止され門前町としての地位を失いつつあった。門前に3軒あった香煎茶屋が今(酒悦)として明治になっても存続したのは混乱機を創意工夫で乗り切った店主の力である。
上野公園が次第に整備されてゆき、行楽客が戻ってくるようになると時代にあった食品を開発する必要性があり、研究し始めたようだ。後に福神漬となる食品開発が明治10年代の初めだという。西欧の文明展示となる物産会で缶詰なるものが展示されて、缶詰に漬物を入れるという工夫になったと思われる。どの博覧会で缶詰技術が展示されていたのだろうか。