日本人は鉄道を好意的に見ていることを感じる。鉄道の開通を明るく捉えている様だ。これは明治5年の鉄道開業の名残かもしれない。江戸時代に戻れないことを明確にした鉄道開業だった。
この鉄道開業時に福神漬の由来を語った鶯亭金升は5歳ほどで新橋駅(今の汐留)付近にて鉄道開業を見ていたようだ。彼の父は工部省鉄道局に勤めていた。江戸時代鶯亭の父は長井昌言といい、神奈川奉行所、堺町奉行などを歴任したどちらかといえば開国支持の人だった。維新後多くの幕臣と異なり、静岡に行かず、江戸で三味線を習い時間を過ごしていた。そのようなことを鶯亭金升日記に書いてあったがどうしても事実記録が欲しく色々なところへ行って調べたが中々工部省に勤めていた記録が見つからなかった。
ある時、国会図書館のデジタル化で明治6年の公務員の記録に長井昌言の記録があった。この年に彼が死去していたのでこの後の記録はない。彼の経歴から想像できるのだが高島嘉右衛門との関係である。
高島右嘉衛門が明治の初めに森山栄之助(多吉朗)を雇っていて横浜で通訳をさせていたようだ。(森山は明治4年3月15日死去)
森山はペリ-来航時、当時の日本で英語を話せる二人の日本人の一人だった。(もう一人は中浜万次郎)当然森山は浦賀奉行だった長井昌言の父、戸田氏栄と仕事をしていた。また高島嘉右衛門の姉が大垣戸田家に行儀見習いとして勤めていた時、藩主の子を産んだ。(戸田欽堂=日本で始めての政治小説を書いた)
高島右嘉衛門が横浜で幕府の禁令を犯し、投獄されたとき大垣戸田家の影の支援があった。この支援は小説家なら長井家の支援と考えたい。長井家は江戸の文政期に御先手弓組で火付盗賊改の職だった長井五右衛門の家だった。当然牢獄のしきたりは知っていたと思われる。当時の牢獄は今でもことわざで残っていて(地獄の沙汰も金次第)長井家のツテで高島が生き延びたようだ。維新後失業中の長井昌言を鉄道関係に勤めることが出来たも高島の推薦があったと推測できる。
大垣戸田家が幕末史に出てくるきっかけはペリ-来航時に大垣戸田家小原鉄心に浦賀奉行戸田氏栄があらかじめ野次馬整理の警護を依頼していた関係で大垣藩の武士はかなり早く浦賀に着いた。小原が黒船を見て、藩の兵器の近代化を進め、京都付近で一番整備されていた。鳥羽伏見の戦い後、征東軍はかなりの期間大垣に滞在していた。このときの関係から岩倉具視の娘を大垣戸田家と縁を結ぶきっかけとなった。(戸田極子=伊藤博文のレイプ事件で有名)大垣藩は中山道の先鋒となり関東に進軍した。このとき戦費が不足し、横浜の高島の支援でようやく乗り切った。