「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「特集・ああ、青春!」

2010年12月13日 | 趣味・・エッセイ

総合雑誌21世紀 地方文化の会(岩国地域)2010年11月15日発行

                          特集・ああ、青春!  掲載

 

戦後の混乱も一通り終息。さーこれから再び世界の中の日本を目指して、成長期に入ろうとする昭和35年(1960年)、晴れて社会人の仲間入りをした。

 敗戦・戦後処理といった閉塞感から抜け出し、新たな世界観のもとで、人々の考え方にも生活にも、躍動感があふれる時代背景があったように思う。

その一方で、戦争で親族を失った人々の心の痛みや、敗戦の傷跡は至るところに色濃く残っている時代でもあった。

 

この年、日米同盟の根幹となる新たな日米安全保障条約が締結された。

これに反対するデモ隊と警察機動隊の衝突によって、死者も出るという傷ましい事件に発展した60年安保闘争は今も語り継がれている。

その4年後には、日本の技術力を世界に知らしめる東海道新幹線の開通、さらには再生日本を証明するかのごとく東京オリンピックが開催された。

首都高速もわずかながら開通し、流通高速化時代の幕開けを告げた。

まさに激動の60年代と言われるように、大きなうねりの中で、小さな歯車のひとつながら、成長する日本経済の担い手という使命感にも似た気持ちで精一杯生きた青春であったように思う。

          

生まれてこの方住み慣れた我が町には、青年団活動という古きよき習慣が残っていた。

社会人の一員として地域で認められる登竜門的存在が青年団入団であった。

当然のごとく飛び込んだ。

年間にいくつかの活動が計画されていた。なかでも、小学校の運動場で繰り広げられるお盆前後の「慰霊盆踊り大会」は圧巻であった。

運動場の一角に急ごしらえの慰霊祭壇を設置。戦没者はもとより、過去1年間に亡くなられた地元の方々の慰霊祭に全員で参列。お線香を手向け、静かに手を合わせる。それもまた青年団活動の大きな地域への貢献であったのだと思う。

そして、まだ実の入りきらない細い身体に、一人前に晒しを巻いた上に揃いの浴衣。夜の更けるのも忘れ、浴衣をしぼるほどの汗を流す盆踊り。

近隣青年団の応援を受けたり、こちらから応援に出向いて交流を重ねる。

一晩に数箇所の応援出場で踊り歩くことも珍しくなかった。

それらの移動は先ず自転車。男性が女性を乗せ、二人乗りで風を切る。

今日は誰が乗ってくれるのだろう、そんな淡い期待も少なからずバイタリティになっていたのに違いない。

 

そうこうするうちに、我が青年団盆踊りが幅広く人気を集めることとなった。

現在行われている花火大会を中心とした「錦川水の祭典」の前身で、当時は「近県盆踊り芸能大会」と銘打った、夏の夜の一大イベントであった。

土佐の阿波踊りや鳥取傘踊りなど、有名な踊り子連を招いたまさしく芸能大会。

そのあこがれの晴れ舞台に思いもかけぬ招待を受けた。新たにあつらえた揃いの浴衣で思いっ切り踊った。汗が飛んだ。優勝旗もいただいた。

当時としては珍しい、記念のカラー写真がアルバムの1ページを飾っている。

ああ我が青春。

コメント (6)
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