花びらに真珠のしずくを宿して
不急不要の外出は極力避けて、休日は出来るだけ自宅で過ごすよう、厳しくも悲壮な声で来る日も来る日も呼びかけられている。
そんな日曜日、昨夜からの雨は柔らかではあるが音を立てるほどの降りよう。満開を過ぎた桜は、この花を散らす雨に身を任せている。
今満開を誇る遅咲きの花は、この雨を花びらにとどめて、真珠のしずくを宿しているかのようである。
桜はある意味で得な花である。数え切れない花が咲く中でも、俳句で言う季語で「花」と言えば「桜」のことなのである、と知った。
そして「花散らしの雨」とか、花散らしの風、嵐などと言えば、せっかく咲いた桜を散らす憎き仇のイメージがある。
ところが、この「花散らし」を謝って使うと嘲笑を買うことになるから要注意である。
「花散らしの宴」などとくれば、知る人ぞ知る大人の話になる。今さら言うまでもなく、先刻ご承知かもしれないが。
満開の枝垂れ桜もお見事! 大木の肌にへばりつく花びらも可愛い。
【 花は盛りに、月は隈(くま)なきをのみ見るものかは。
雨に対ひて(むかいて)月を恋ひ、垂れこめて春の行方知らぬも、なほあわれに情け深し。
咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見どころ多けれ 】
桜の花は満開だけを、月は満月だけを見て楽しむべきものだろうか。いや、そうとは限らない。
物事の最盛だけを鑑賞することがすべてではないのだ。たとえば、月を覆い隠している雨に向かって、見えない月を思いこがれ、
あるいは、簾を垂れた部屋に閉じこもり、春が過ぎていく外の様子を目で確かめることもなく想像しながら過ごすのも、やはり、
優れた味わい方であって、心に響くような風流な味わいを感じさせる。とは、兼好法師の「始めと終わりの美学~花は盛りに~の一節。
コロナコロナで外出しないように、自粛して家に閉じこもるように、と繰り返し言われる今こそ、このような見識に触れて、閉じこもり
生活を楽しみに替えるのも風流だな・・・と思いたい。と分かってはいるが・・・・・・。
老夫婦二人きりならいざ知らず、有り余るエネルギー持て余す孫が周りでウロチョロすると、つい、見識もどこかえケシ飛んでしまいそう。
いい加減に下火になってよね、コロナクン。