大正のおしまい近くに生まれた父には 少し年の離れた姉が四人いた
父の母と姉四人は女ばかりで床屋をしていた
その床屋の前の一本道を少し行くと女郎屋・・・・遊郭があったらしい
客から聞いた話を仕事を終えてから まだ子供だった父が転寝する続きの部屋で ああでもないこうでもない いやその話は本当はこうよ ・・・・・・などと教え合い 言い合うこともあったのだとか
父が結婚し家族を連れて帰郷し姉弟が集まった時に 「ねえさん あの話はなんね・・・」などと父が尋ねると かつての娘達は 賑やかに話し始めるのだ
そんな会話を かつての父のように まだ子供だった私は 半ばうとうとしながら聞いていた
今となっては夢半分 話半分のように思える
でも時々何かの拍子に思い出す
細く高いよく通る結子伯母の声
ちょいと掠れた麦枝伯母の声
私が物心ついた時には 父の上の姉二人は死んでいた
遊郭と言っても煌びやかな構えの立派な建物もあれば 何か分からない汚い家もあったそうだ
堅気の娘だった伯母達も客の話だけで 見たことのない場所だけに詳しいことは分からない
ただちょっと事件があると噂になった
そうなのだ 随分と古い話で 本当のところは分からない
私が育った港町にも遊郭の跡の建物は残っていて 人の住んでいないものもあり 幽霊屋敷などと子供達は呼んでいた
しかし人の住む遊郭あとも かつて遊郭のおかみさんだったおばあさんも生きていたりして 何処其処の奥さんは昔は自分とこ(遊女だった)にいた
○○屋の女房におさまった
いい旦那がついて落籍されてーなどと 遊びに行くと話すのだ
私を可愛がってくれたおばあさんは ・・・私は多可見のおばちゃんと呼んでいたが
それは綺麗な少し大きいスピッツを三匹飼っていた
私が犬好きなので気に入ったのか お米かご飯を干して作る糒に砂糖塗したのを作っては持ってきてくれた
伯母達の話を私は多可見のおばちゃんの暮らす家など思い浮かべながら聞いていたのだ
そう私が子供の時代には・・・・・まだ「心中」なんて言葉もそんなに 遠いものじゃなかった
ー夕千代ー
姿の良さで人気のあった女がいる
美女が怒る様子を表現するに柳眉を逆立てると言ったりするが
「また そのひと睨みがいい 一度でいいから睨まれたい」と男達が騒ぐとか
名を夕千代と言う
細面に切れ長の瞳
睫毛は長く頬に影を落とす
いい旦那がついて割りと自由に出歩いていた その楼の稼ぎ頭であったのだろう
妹分というか 連れて歩く菊子というまだ子供のような娘には 中々きつくあたっていた
これも良い器量をした娘で 楼としては色々と芸を仕込んで高く水揚げさせようという算段だったようだ
どんな事情があったのか そのあたりはわからない
楼の女将も昔は売られた女
何処ぞのお大尽が菊子を水揚げすることが決まって間もなくーその菊子がいなくなった
店の者は夕千代と一緒と思っていたが その日 夕千代は旦那に呼びだされ活動を観に行っていたのだ
旦那に送られ次の日帰ってきた夕千代は全く知らないと言い切った
疑った店の者がきつく責めをしても 知ったこっちゃない 勝手にいなくなられて迷惑だと逆に怒った
そんなことからケチついたか やがてその楼は店をたたんだ
女郎の足抜け・・・しかし水揚げ前の小娘が一人じゃ消えられまい 逃げられまい
もうあの年で男でもいたのかと ひとしきり騒ぎにはなったらしい
たいてい逃げても捕まっては酷い目に遭うが落ちなのに 菊子は見つからなかった
昔むかしに消えた娘・・・・・
聞いた話だ また聞きのまた聞きで
遊郭のある近くには川が流れていた
川は海へと繋がっている
夕千代は苦労して芸者になった女だった
やっとこれからという時・・・・・極道な父親に再び売られた
惚れた男もいて所帯を持つところだったのに
四国から九州へ
夕千代は身辺整理に少し時間をもらってから渡った
惚れた男も女としての幸せもー多くのことをあきらめて
諦めて・・・・・肌で稼ぐ女になった
女で勝負するしかない
十年・・・・・・夕千代は菊子に出会う
自分から仕込みを引き受けた割には 厳しくあたり 傍からはいじめているようにすら見えた
「あたしはあんなコ 大っ嫌いだったんです 顔に泥を塗るようなことをしでかして
なんで あたしがあんなコ庇わなきゃ 逃がしてやらなきゃァならないんです」
凄まじい剣幕で食ってかかったと言う
年に幾度かの濃い霧が珍しく一帯を覆う一日であったそうな
夕千代に言いつけられた品を店に取りに行った帰り 菊子は 他ならぬその夕千代に呼び止められた
今から黒崎の旦那と会うから ついて来いと 夕千代は言う
黒崎の旦那が迎えに寄越した車に夕千代は乗っており 足元に荷物を一抱え分も置いていた
「暗い顔をしてるじゃァないか 水揚げはそんなに怖いかえ」
ふっと夕千代は口元だけで笑う
菊子は俯く まだ少女と言ってよい年頃だ
「男」を知るには早すぎるだろうに・・・・・
「ああちょいと酔っちまった 運転手さん停めておくれな 少し一休みをお願いするよ」
港が近い場所 潮風が心地よい 夕千代は菊子を促し車の外へ出る
「夕千代さん大丈夫ですか」
「あんた お女郎になるのは嫌だろう」夕千代が菊子に問いかけの言葉を返す
「あたしだって好きでもない男に体をいじくられるのはイヤだったさ
もう自分は死んだんだと・・・・そう思って生きてきたのさ
でも本当に死んじゃ 借金が 家族へ・・・・・母へ弟や妹へいく
だから我慢するしかなかった
わけありで あたし自身もお金が要ったしね
もうあたしは元の暮らしには戻れやしない
いずれ悪い病気で鼻が欠けたり顔が崩れたりするのさ」
夕千代の菊子を見る眼には様々な感情が荒れ狂っていた
「あんたを水揚げする男は 随分イヤな抱き方をする男だ 水揚げされて壊れてそのまま使いモノにならず死んじまったコもいる
べらぼうな力ある地位の人間だから それでも店の者は辛抱するしかない
もっと早く判っていたら どうにかしようもあったけれどもね」
車から持って降りた荷物を夕千代は菊子に押し付ける
「そのナリじゃ目を引きすぎる これにお着替え 髪は私が結い直してあげる」
夕千代が風呂敷広げた陰で 霧に紛れ菊子は着替える
懐から出した櫛で菊子の髪を女学生のような三つ網にすると 「さァこの方が余程似合うよ 年頃らしいや」
帯板から封筒を取り出す「この上書きの宛名のところを尋ねておいで 」
財布と一緒に菊子の胴と帯の間に深く差し込む
「あたしはあんたの母親を知っているのさ 母親にはもう会えないが
そこにあんたの父親がいる 黒崎の旦那が頼んでくれた人が その船の上で待ってる
あんたは病気で養生してて家に帰る それを黒崎の旦那のお知り合いの奥さんが親切に送ってくれるそうだ」
「夕千代さん」
思わぬ成り行きだった
すっかり諦めていた自由
箸のあげおろし 食べる姿勢にまで厳しかった人が・・・
「みっちり芸も仕込んだから三味も踊りも負けやしまい 座興にいるからって義太夫も教えこんだもの
縫い物だって 運針からしつこく叱ったからさ」
別れ際 「幸せになるんだよ 悪い・・・つまらない男にひっかかるんじゃないよ」
ぎゅうっと菊子を抱き締めると強くその背を押した
「さあお行き! ここでの暮らしもあたしのことも 早くお忘れ」
「夕千代・・・さん・・・」
「行くんだ 捕まったら承知しないよ」
涙が今にも零れそうな目で夕千代は笑った
それが菊子が夕千代を見た・・・・温かさに触れた最後だった
厳しい人 怖い人と思っていた
なのに・・・なのに・・・
黒崎の旦那と時間を過ごした帰り道 夕千代は菊子が着ていた着物を川へ投げ捨てた
身投げしたと思われるように・・・・・
せめての小細工
折檻受けようと知らぬ存ぜぬと繰り返し言い張り・・・・・
菊子の代わりと・・・・・菊子を水揚げするはずだった男に三日三晩閉じ込められ惨いことをされても・・・ひと声も上げはしなかった
菊子の肩甲骨の下には・・・桜色の花びらの形の痣がある
その同じ痣が・・・夕千代がただ一人惚れた男にもあった
一緒になろうと・・・なるはずだった相手
父親が夕千代を高値で売り飛ばした時 夕千代はもう七ヶ月のお腹だった
腹ぼてでは女郎の仕事は出来ぬ
身二つになるまで 病気だからと借金が増えても待ってもらった
生まれた赤ん坊を 頼みとする家に金つけて預けたのに・・・・・
これこれこういう人が迎えに来るからと
なのにその人間は 待てず子供を売ったのだ
充分なお金を言付けたつもりであったのに
大陸へ・・・・新しい生活の商売の準備に行った男・・・
身重でなければ ついていくのだった
大事をとったが失敗だった
売女となってしまっては 何であの人に会えよう 姿を見せられよう
楼で菊子の背中に忘れもしない置いてきた赤ん坊と同じ痣を見つけた時・・・夕千代は倒れてしまいそうだった
可愛がっては何かの時に怪しまれる
何とかこの娘を逃がしたい 自由の身にしてやりたい
ずうっと夕千代は思案を続けていた
なかなか逃がせなかったのは・・・・・・再び如何な奇縁か傍に来た娘と少しでも一緒にいたかった
母としての未練に過ぎない泣き疲れ寝付いた顔を見るたびにどれだけ抱いて甘やかしたかたったろう
小さな細い背中を風呂で流してやりたかったか
「おかあさん」とひと声でいい 呼ばれたかったか
よく育った自慢の娘と言いたかった 言いたかった
ひょんな事から大陸を引き揚げた男が 日本に戻ってきていると知り・・・・・男へ送る手紙の文面と菊子を送る段取りを考え
自分をヒイキにしてくれる黒崎の旦那に詳しいことは知らせず侠気(男気)に縋った
頼み込んだ
娘・・・・・願うはその幸せ そればかり
船にいたおっとりした婦人は 菊子をきちんと頼まれた住所まで送り届け 何か書かれた封筒も家から出てきた男に渡した
何処か荒んだ目をした男は その文面に暫し絶句していたが 菊子の顔を見て何か納得した表情となる
菊子を送ってきた婦人に 丁寧に礼を述べたあと 少し待たせ 商売物だがと・・・化粧水を渡した
菊子は夕千代のくれた封筒を男に渡す
「馬鹿な女だ 意地っ張りの・・・・」男は小さく吐き捨てたあと 菊子に向かって「そうだ 間違いなく俺がお前の父親だ」 そう言った
男は女が身に着けるものを売りながら 約束した女の行方を捜し続けていた
菊子はじきに商売を覚え 店の手伝いをするようになる
男は娘に留守番をさせる心配をしていたが 店番の者にくれぐれもと頼み 旅に出た
黒崎の旦那と呼ばれる人間に会いー夕千代の最期を知る
水揚げが趣味の酷い男に苛まれ・・・体を壊し・・・店の者に話を聞いて黒崎の旦那が駆けつけた時は・・・・・起き上がれない様だったとか
夕千代は黒崎の旦那を巻き込んではと助けも求めなかった
駆けつけた黒崎の旦那に夕千代は言ったそうだ
「だって・・・あの娘のことで一生のお願いはしてしまいましたもの」
茶目っ気ある笑顔を浮かべた
乱れる息づかいながら どうにか床の上に起き上がり 「その節は有難うござんした」ときちんと指ついて深々と一礼をした
黒崎の旦那は身請け話を夕千代が断り続けたから しないできたが
もう商売できる体でなくなくなったのを引き取り 医者にも詰めて通ってらったが・・・・・・・
何処がどう悪いのか 高熱が続き 明け方すうっと・・・蝋燭の灯が消えるように 夕千代の体は呼吸するのを止めた
「いい女やったねぇ」
黒崎の旦那の言葉は夕千代とかつて夫婦約束をした男の胸に響いた
ーごめんなさい ごめんなさい あなたの妻にはなれませんでした 娘がいます 菊子 お願いします お願いしますー
手紙の言葉はそのまま夕千代の遺言となった
間もなくして 夕千代の体を痛めつけた男の死体が紫川に浮かんだ
胸と腹とを二度ずつ深く抉られて
そんな騒ぎを吹き飛ばす大きな戦争が起こったのは・・・・・それから間もなくだった