高瀬川沿いの木屋町通には江戸時代諸藩の藩邸が建ち並んでいたので、
藩士や浪士の往来も多く、尊皇攘夷派志士の住まいも多くありました。
そのため、襲撃事件も多くあったのです。藩邸跡を見つけに行きます。
大村益次郎遭難地の碑 佐久間象山遭難地の碑
「大村益次郎」 は幕末期の長州藩の医師であり兵学者であり洋学者でもあります。
長州藩の新式軍隊を育成しました。
戊辰戦争で功績をあげ、木戸孝允、大久保利通といっしょに新政府の幹部と
なりました。
その後、維新政府の軍事を統括しましたが、
明治2年(1869)冬に木屋町御池上る付近で暗殺されました。
「佐久間象山」 は信州・松代藩の武士。
随分と多才な人だったみたいですね。
洋学、海防論、また大砲を作ったり、地震予知器を開発したりと、
まるで日本のガリレオですね (^^♪
二度目のペリー来航の時、門弟である吉田松陰が密航を企て失敗して捕えられ
連座して国元に蟄居させられましたが、やがて上京し木屋町御池上るで暗殺
されました。
まだまだ木屋町を下がり御池通を渡った所の橋のたもとに
「加賀藩邸跡の碑」 が立っていました。
加賀藩は江戸時代、外様の最大の大名で百二万七千石。
藩主は代々前田家。
幕末の加賀藩は激動の政局の中で活躍する事は少なかったそうです。
学問芸術を重んじる藩の伝統(文治政治)は受け継がれていき、この藩邸は、
文化的に京都と加賀を結ぶという役割を果たしました。
(東寺の古文書を整理するなどしています。)
加賀百万石として、お国安泰を貫けた秘訣はこれだったのですね。
↑ 彦根藩邸跡: 木屋町通三条下るに石碑を見つけました。
高瀬川と河原町通の間に藩邸はあったという。
「安政の大獄」で有名な井伊直弼の強権は反発を受け、桜田門外の変で
暗殺されたのは、歴史上でも大きな事件ですが、この場所にも井伊直弼さんは
来たのでしょうか?
そして、ようやく「土佐藩邸跡」
この立札の案内文によりますと…、
”土佐藩は薩摩、長州と並び幕末政局の主導権を握った雄藩で、
武市瑞山、坂本龍馬、中岡慎太郎、後藤象二郎らの志士が活躍した。
この西側に鎮座する土佐稲荷、岬神社はもと藩邸に鎮守社として
祀られたもので、同社に参詣する町人たちのために邸内の通り抜けが
許されていた。”
町民たちは、自分たちの地元の藩士をひいきにしていたのでしょうね。
そして、藩士たちにとって町民は、心強いみかただったのでしょうね。
「池田屋」 や 「酢屋」 の人達と同じように。
この後ろの建物は「元、立誠(りっせい)小学校」でして、今は少子化で
廃校になっていて、現在校区の人達の交流の場として使われています。
その昔、(^_^;) 私の通った高校にはここ出身の同級生がいっぱいいました。
学校は制服が無く、『自由な校風』 だったもので、繁華街であるこの辺りの
同級生は、それはそれはお洒落でいつもファッションは最先端、
廊下を歩くと河原町通を歩いているようでした。
なかなか活発な性格で、時代を先取りする性格は、もしかすると、
土佐藩士の心意気が受け継がれていたのかもしれません。(^_^;)
数年前の同窓会に行った時も、明るく元気な同級生でした。(^^♪
ほんとに、幼なじみや同級生はいいもんですね。
さて、これが立札にも出てきた、「土佐稲荷」 ですが、
よく見ますと、しめ縄の上ですが…?
旗の左に猫がいるのがお分かり頂けますか?
しっかりと写そうと思ったら、逃げてしまいました。(^_^;)
神様の頭上を悠々と…、
中岡さん、我々も猫にゃ~かぇいや~せん(猫にはかないません)