kohは今日も元気です

思うようにブログアップが出来ませんが、俳句のこと、テレビ番組のこと等、日常をぼちぼち書いていきます。

龍馬点⑩

2010-02-12 15:22:54 | 京都

さてさて、今週のTV視聴率ランキング(2月1日~7日)・関西地区、

NHK大河「龍馬伝」 は6位(21.8%)でした。

   

参考までに、

1位: 秘密のケンミンショー

2位: ボクシング「亀田大毅vsデンカオセーン」 電化汚染?(^_^;)

3位: ぐるナイ90分ゴチ女ボス暴走SP

3位: 映画 崖の上のポニョ

5位: クイズヘキサゴンⅡ

でした。

「秘密の…」と「崖の上のポニョ」 は私も見ました。

   

それにしても、8位までが(8位ふたつで9位無し)20%台と、TVを見てた人が、

多くなっているようです。

私の勝手な推測ですが、雪も降ったりして外出を控え家にいた人が多かった。

また、地デジ対応TVの購入者がこの時期急増しTVに興味が集中した。なにしろ、

エコポイント取得期間も差し迫っているし、冬季オリンピックは近づいてきたし、

この辺りが、視聴率アップの理由かなと思います。

以上、独断と偏見でした。m(__)m

       

       

本題へ     

龍馬点⑩ 「高瀬川」 沿いです。

森鴎外の小説「高瀬舟」 の舞台の高瀬川、ここは、幕末の水運の要衝でした。

そのため各藩邸が立ち並んでいました。

それで、龍馬もこの辺りに「海援隊の京都屯所」、を置いたり、住みかとした訳です。

高瀬舟で、大坂~伏見~京へと、材木などが運ばれていました。

この高瀬川沿いの道を「木屋町」 と呼ぶのもそういった所以です。

龍馬の海援隊屯所兼住まいも「酢屋」 龍馬点⑦にて)という材木屋でした。

   

この「酢屋」 という名前ですが、なぜ、材木問屋が「酢屋」なのか?

私も、これが不思議で「酢屋」を訪れ2階を見学した時、

展示物の説明をしてくれた女性に聞いたのですが、分からないとの事。

ザンネン(ーー;)      

     

       

        

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↑ 高瀬川に浮かぶ「高瀬舟」 

    

江戸時代初期に角倉了以・素庵父子開削した運河「高瀬川」の

水運の手段でしたが、大正9年(1920)廃止になり、300年の歴史を閉じたのです。

    

この「高瀬舟」 とは船底の平らな木造船で川や浅い海で曳き船などとして

使用されていたもので、これを角倉了以が今の岡山県吉井川で見て、

取り入れたそうです。

    

私は、高瀬川に浮かべたので「高瀬舟」 という名を付けたんだと

思っていたのですが、どうやら舟の名前が先だったような…?

    

運河「高瀬川」 はどこから水を引いたかと言いますと、鴨川の二条大橋付近を

その支流の「みそそぎ川」 という川が流れているのですがそこから引いて、

今の木屋町通のある所を南へ、途中鴨川と交差しながら、「伏見港」 までの

10Kmを流れて行きます。(下流…京都駅近くでは、何度か川の流れを移動させていますが)

この、始まりとなる所、「木屋町二条」 は 「島津製作所資料記念館」 の

ある所なんんです。

そしてそこは、↓ 「高瀬川一の舟入り跡」 です。

高瀬川から直角に水が引かれています。

手前高瀬川が右から左に流れていて、私は川越しに撮っています。

       

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二条通から五条通の間の高瀬川に「舟入・ふないり」 という舟を停泊せる所を

設けていて、一の舟入から九の舟入まであったらしいです。

      

今は、一の舟入のみが残され、他のは埋めてしまわれました。

    

また、七条通の北辺りには、「内浜・うちはま」 というものを設け、

船の転回場としていました。

これも、もう埋めてしまわれています。

     

     

この高瀬川、江戸時代~明治初期の京の物流を支えた大動脈だった頃は

川幅も今よりもっと広く、水量も多かったといいます。と言っても、

深さは30Cm程度だったらしいのですが…、

         

      

高瀬川の水運業で富を得た角倉了以、     

木屋町二条辺り、今は日本銀行京都支店になっていますが、

ここに、屋敷跡の石碑があります。

(嵯峨嵐山にある大堰川・おおいがわも水運業で関わっている角倉了以ですが、

またの機会に…)    

      

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