ついに、出城「真田丸」 登場
慶長19年(1614)真田幸村は大坂城の南側の守りが弱いので砦がいると考え、
わずか一か月で真田丸を築きました。
(又の名を偃月城・えんげつじょう~本城から半月形に張り出して造った出丸の意)
古地図ってワクワクします♪
大坂城の厨で後藤又兵衛と策を講じていました。
大坂冬の陣
徳川方の顔ぶれを見ると、錚々たるメンバーです。
大阪冬の陣
秀吉方は、牢人を集めること、兵糧を確保すること、城周りの造りの強化、
また、武器の買い入れなどに、秀吉が遺した金や銀を使いました。
沢山遺していたんですね~
この頃は遺産相続税なんてものはありませんよね。
ただ、諸大名の中に味方に付くものはいませんでした。
豊臣秀頼方に集まった兵は約10万人(徳川方20万)
① 豊臣譜代衆 : 大野治長、治房、治胤(はるたね)兄弟。木村重成
② 牢人五人衆 : 真田幸村、長宗我部盛親、明石全登(てるすみ)、
後藤又兵衛、毛利勝永
牢人衆は野戦を主張しましたが、大野氏らの言う籠城戦に決まりました。
真田軍は武田氏に仕えていた頃と同じ赤備えで挑みます。
この戦いは銃撃戦だったそうですが、この後は、
第45回真田丸「完封」にて
さて、この真田丸跡ですが、
大阪市営地下鉄の長堀鶴見緑地線「玉造駅」下車、「宰相山公園」から「真田山公園」辺りが
城跡とされます。
4月に真田丸を訪ねて一日この辺りを歩いています。
この辺りは坂道の多い所でした。
学校のグラウンドを背にして、真田丸顕彰碑が建っていました。
心眼寺(しんがんじ)
真田幸村のお墓があります。
こうして、「真田」の名前は残っています。
学校や、お店、様々なものに真田が付いてます。
地元の方は、誇りに思っておられるのでしょうね。
気温の高めの春に、訪ねていましたが、
冬の陣はちょうど今頃あったのでしょうか?
見れなかった所もいくつかありそのうちにと思っていますがなかなか行けません。
この辺りは街中で、道路、家も多く、大変発達していて
発掘も難しく、分からないことも多いのでしょう。
上の写真の顕彰の碑から心眼寺、その他数寺を結ぶ地帯が真田丸跡地か?
形は偃月ではなく四角ではないか?
など…???
堀の跡や空堀の跡らしき地形も発掘により出ているとか。
これからの発掘、研究結果が楽しみです。
真田山を訪れた時の…
かぎろひの坂を出丸へ真田山
冬の句考えてみます(^_^;)