四季の歌と暮らす

 年齢ごとに「一度っきり」の四季と、
旬(しゅん)のヨコハマを味わう「くりごとの集」です。

夫婦のきずな

2022-09-13 09:29:22 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『生涯を共にする伴侶として、性格が似ていたほうがいいのか違ったほうがうまくいくのかと、若い人に尋ねられることがあります。

もちろん、人それぞれで、いちがいには言えません。しかし、ものの考え方や生き方について、どこか共通したものを持っていることが大事ではないでしょうか。

愛情はもちろん大切です。しかし、人の心はとりとめのないもので、なにかのきっかけで、あんなに好きだったのが大嫌いに一変することがあるのです。

どんな家庭をつくり、どんな人生をめざすか、二人が共通のものを心に持っていないと、だんだん歩く方向が違ってきて心が離れ離れになってしまいます。

といっても、夫婦だからといって、考え方から好みまでなにもかもが一致していなければならない、ということではありません。一か所、かなめのところで価値観が一致していれば、心が通い合い、一つの目標に向かって、足りないところを補い合ってあゆむことができます。

その中で信頼感が生まれ、互いに尊敬し合えるようになってくるのです。そうして絆を一つずつ太くしていくことが、長い結婚生活を支える力になっていくのだと思うのです。』

        庭野日敬著『開祖随感』より

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プラスに受け取ろう

2022-07-15 05:34:53 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『ものごとを悪いほうに悪いほうにと悲観的に考える人は、とりわけリーダーにはふさわしくないのではないか、と思うのです。

病気の人が、もうだめなんじゃないか、とくよくよ考え込むのと、必ず治ると信じるのとでは、回復力に雲泥の差が出てしまいます。心の持ち方の違いが、船の舵のように働いて、その人の人生の方向をも決めてしまうのです。

私のことを人は楽天家だというのですが、私は、全力を尽くせば、必ず仏さまが最善の結果を約束してくださる、と信じきっているのです。

私たちはだれしも、自分を守ろうとする自己防衛本能のほうが先に働くようにできていて、「もしも失敗したら大変だ」と身構えてしまうのですが、だからこそ、つとめて積極的に、よいほうによいほうにと考える習慣をつけておくことが大切だと思うのです。

いつも笑顔を忘れずに、大きな声で、明るい返事を、と心がけるだけでも、心はガラリと変わってしまいます。』

         庭野日敬著『開祖随感』より

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信じて実行

2022-06-08 07:56:01 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『法華経は難信難解(なんしんなんげ)の法といわれます。何が難しいのかというと、説かれている教えをそのまま信じきってしまうことが難しいのです。

それを裏返せば、信じることができさえすれば「なるほど」と、だれにもすぐに分かるのが法華経の教えだということになりましょう。

 法華経の教義を、初めから終わりまで理屈だけで理解しようとして万巻の書を読み、知識を詰め込んでも、教えの神髄はなかなかつかめないのですが、経典に示されたとおりに一つでもいいから実行してみると、ちゃんと結果が現われてきます。なによりもまず実行です。その実行へ踏みださせてくれるのが、お師匠さんの導き、サンガの見守りなのです。

 「師匠のない仏教はない」といいます。自分ではかなり修行したつもりでいても、独りよがりになっていることがよくあるのですね。深く学んだつもりが、逆に知識を鼻にかけて我見を増長させることになっている場合もしばしばあります。

自分一人では、そこになかなか気づけません。お師匠さんにいちいち指摘してもらって初めて自分の思い込みを離れて見られるようになり、利害打算を離れた無我の修行ができていくのです。』

       庭野日敬著『開祖随感』より

 

PS まるで私へのご説法で、恥ずかしいです。独りよがりで人にてらう悪い癖を痛打されます。物知りではなく信心が大切、大安心のためには実行あるのみです。

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ビクビクせず

2022-05-13 06:59:08 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『私が東京に出てきたばかりのころ、縁日で占い師に「あんたは刺激がないとだめな人だ」と言われたことがありました。

それから私は、困難な問題にぶつかると「いよいよおもしろくなってきたぞ」と、自分に言い聞かせるようになったのです。

 ふだん、なんとか事が運んでいるときは、これまで続けてきたことを大きく変えるのは、できそうでいて、なかなかできないものなのです。

ところが、崖っぷちまで追い詰められてしまうと、嫌でも変えずにいられなくなるわけです。

 会社でも組織がガッチリと整ってしまうと、みんなが、このままではいけないと気づいていても、いろいろと差し障りがあって、これまでのやり方を変えることがなかなかできません。

むしろ不況の時こそ、体質改善の絶好のチャンスなのです。

「この難関を乗り越えなくては」と、みんなが心を一つにして取り組むことができます。これが「提婆達多(だいばだった)が善知識」と拝む法華経の考え方です。

 ピンチをチャンスにしてしまえるようになったら、もう怖いものなしです。よいことがきても悪いことがきても、「いよいよおもしろくなってきたぞ」と、どっしり構えていられます。』

      庭野日敬著『開祖随感』より

PS 自分の受け止め次第です。因(自分)プラス縁(条件・他人)で果報が生まれます。

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男女は違うからいい

2022-04-14 05:08:14 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『“ロボット博士”として知られる東京工業大学名誉教授の森政弘先生から、こんな話をうかがいました。

私たちの手のひらは五本の指に分かれていて、そのバラバラの指が、必要に応じて一致協力することで器用に作業ができる。これが、キャッチャー・ミットをはめたように五本の指がくっついていたとしたら、不便極まりないというのです。

それと同じで、人も一人ひとりがバラバラで、性格も能力も違っているからこそ、一致協力すると、すばらしい力が発揮されるのだと森先生は言われるのです。

ちょっと話が飛びますが、生物の中には性別なしに繁殖していくものがあるそうです。そのほうが、夫婦げんかもなければ浮気の心配もないわけで、よほどいいように思えますが、そういう生物は進歩がないというのです。

 男性と女性がまるで違っているのも、協力し合って何倍もの力を生みだすためなのですね。それによって、この世にかけがえのない生命を誕生させ、育てあげるという奇跡のようなことが可能になるわけです。同体同心ではなく、異体が同心になる努力こそ、力の源泉といえましょう。』

     庭野日敬著『開祖随感』より

 

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夫婦の愛

2022-03-30 08:08:03 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『夫婦の愛をぎりぎりまで突き詰めていくと、それは相手を見捨てないこと、といえるのではないでしょうか。

見捨てないためには、許しが必要なのです。どんなに好き合った相手でも、毎日、朝から晩まで鼻を突き合わせていると、だんだんアラが見えてきます。それにいちいち目くじらを立てて、性格の不一致などと言い合っていたら、とても添い遂げられるものではありません。

 それまで他人だった男女が一つになろうというのですから、初めからなにもかも分かり合えるはずがありません。どうしたら心を一つにして助け合い、支え合っていけるようになるか、互いに努力し合い、人間として成長していくのが結婚生活というものでしょう。

 最近は、結婚したくてもできない男性が増えて、「女性のほうが売り手市場で、男性が女性に合わせていかなくてはならない時代になった」などと、しょげている人がいますが、どちらがどちらに合わせるなどと、時代によって変わるものではありません。

男と女のそれぞれの特性、考え方を認め合うところから、許し合う寛容さが生まれてくるのだと思うのです。』

           庭野日敬著『開祖随感』より

PS  わたし達へのお釈迦様の愛は永遠です。見捨てることは無いと確信します。  頭脳で三分の一を永遠に計算し続けるより、「三分の一の数値を信じる」のと同じです。精密な宇宙ロケットもジェツト旅客機も三分の一で出来ています。これも信心ではないでしょうか。信の力です。

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成功をイメージせよ

2022-03-27 06:53:04 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『可能性は半々だから

 大勢の人の先頭に立つリーダーは、あくまでも「この仕事をやりぬくのだ」という意志、そして、「これは必ずやり遂げられるのだ」という確信が、なによりも大事です。それが、周囲の人を引っ張っていく力の源泉だからです。

 リーダーは、みんなに新たな一歩を踏みだしてもらう、その先頭に立つ人です。これから始める仕事の可能性は半々であっても、出発点で「この仕事は果たしてできるのだろうか」と迷うと、天秤は失敗のほうに傾いてしまうことが多いものなのです。

 かつて「ミスター・ジャイアンツ」と呼ばれた長嶋茂雄さんは、ここぞという見せ場で必ず打つといわれたものでした。その秘訣について長嶋さんは、「そういう場面でホームランを打つ自分の姿を、いつも頭に描いていることです」と話されていました。

「打てるだろうか」「いや打てないかもしれないな」などと迷わないわけです。「この仕事は必ず成し遂げられる」と信じる力が、天秤を可能性のほうに傾けるのです。

 信仰の世界も同じです。「この教えどおり行じれば、必ず救われます」と言いきれる人でなくては、人は救えません。』

     庭野日敬著『開祖随感』より

 

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祈るということ

2022-03-18 11:15:15 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『信仰というと、苦からの救われや願望成就を願って神仏に祈ることと考えられがちです。

けれども、立正佼成会の信仰は、神仏に祈ること以上に、仏法という普遍の真理(法)に随順した生き方をめざすものです。

それは、「他を利する」という人間本来の慈悲心を発揮する生き方に目ざめて、まわりの人との調和を築くことを願う生き方です。』

   庭野日敬著『我汝を軽しめず』より

 

PS  肉眼には見えない「諸行無常」と「諸法無我」の真理(釈尊が悟られた法・哲学)を、私達人間にわかりやすくシンボライズ、象徴してくださっているのが仏像です。

 苦は「諸行無常」と「諸法無我」のルールに反する自分の煩悩、浅知恵、才覚、世法を根本原因とします。

 苦のもとは外、他人でなく自己内部にあるのです。他人を変えるのでなく、自分を変える努力をしましょう。それが仏道です。

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ピンチでの心構え

2022-03-05 05:52:22 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『何か事が起こると、「さあ大変」と言うのが口癖になっている人がいますが、いつもお話しするように、私は逆に、難問がくると「これは、おもしろくなってきたぞ」と自分に言い聞かせるのです。そこの紙一重の差が大事だと思うのです。

 さあ大変と思うと、腰が引けてしまいます。反対に、「ようし」と心を決めると、すぐ行動が起こせるのです。行動を起こせば、必ずどこかに道が開けてきます。それで自信がついてくるわけです。

 創立記念日を迎えて心によみがえってくるのは、恩師の新井助信先生に「仏教は苦滅の道」であると学んで、「どんな苦も救うことができる教えを見つけたぞ」と、躍り上がらんばかりだった当時の感動です。

その苦滅の道のかなめは、自分に不利なこと、つまり逆縁をも仏さまのご功徳であり、善縁なのだと受け取れるようになることにあります。

 その考え方で、私はなにごとにも対してきました。それができなくては、本当の宗教者とはいえないと思うのです。とりわけ幹部のみなさん方に、そこのところを、しっかりと心に刻みつけておいてもらいたいのです。』

      庭野日敬著『開祖随感』より

PS 今日は立正佼成会の創立記念日、84歳の誕生日です。釈尊の教えに私達を導いて頂いた開祖さま、先輩たちの愛に感謝いたします。

 

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得か損か

2022-02-20 09:33:57 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『このせちがらい世の中で人のことなどかまってはいられない、自分の得になることならするが、ちょっとでも損になることは知らぬ振りをする、というのが大方の人の生き方でしょう。

せちがらい世の中とは、世渡りの難しい社会といってもいいでしょう。自分を第一にしなければ負け犬になってしまうと考えるのは当然かもしれません。とりわけ現代の社会はそれが顕著で、その中で「世のため、人のために奉仕する」といった生き方は一見、愚かなことのようにも見えるのですが、しかし、よく考えてみてほしいのです。

 人間は有史以来、物心両面の幸福をめざし、平和でありたいと願って必死に生きてきたのに、いまもってこの世界から争いはなくならず、不幸はあとからあとからふりかかってきます。

いや、幸福を求めれば求めるほど、さまざまな形で新しい不幸が増えていくのです。

その原因をよくよく突き詰めていくと、それが自分だけの幸福を求めた結果であることに気づかされるのです。

理屈が達者で小賢しさばかりが目立つこの世で、他のために尽くす大愚に徹するのが仏道であり、そこにしか真の幸せに至る道はないのです。』

        庭野日敬著『開祖随感』より

 

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足るを知る

2022-01-19 08:22:49 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

『路傍で生まれ落ち、そして道端で死んでいく気の毒な人たちが、アジアやアフリカにはまだたくさんいます。三度の食事にも事欠く人たちがいっぱいいるのです。

それを遠くの世界のこととして傍観していることは許されません。そして、なによりも大切なのは、それをただ声高に人びとに訴えるのではなく、まず自分の足元から見つめ直してみることです。

 満足な食事もとれない飢餓状態にある人たちが、こんなにも多くいるその同じ地球に住み、毎日十分すぎるほどの食事に恵まれながら、私たちは欲望をさらに際限もなくエスカレートさせて、これで十分だという満足感、充足感を得ておりません。

 物質で栄えても精神的に退廃し、滅亡していった国の例はたくさんあります。いまの日本は、まさに精神の飢餓状態にあるといえましょう。

「無量義経」には「愛著ある者には能捨(のうしゃ)の心を起さしめ、諸の慳貪(けんどん)の者には布施の心を起さしめ」と説かれています。

人は、あればあるほど欲する心が強くなるものですが、逆に自分の持てる物を人さまに施す心に切り換えると、少ない物にも心から感謝できるようになるのです。際限のない欲望を断ち切るのには、この心の転換しかありません。』

         庭野日敬著『開祖随感』より

PS 貪欲に放火するチラシ、広告、宣伝は日々執拗です。資本主義は欲望を拡大することで成り立っています。美味しい食材、過美なケーキや服飾など「足るを知らず、もっともっと」と扇いできます。自制しましょう。日本が滅びぬために少欲知足、足るを知る暮らしに戻りましょうよ。

 

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来年をよき年にするぞ

2021-12-26 08:29:51 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『誰もがおだやかに明るく生きることを望んでいます。特に年のはじめには「今年も明るくよい年を」と願うと思います。そのときに「よい年であるように」と願うのと、「必ずよい年にしよう」と決意するのとでは、どこか心持ちが違ってくるのではないでしょうか。

 願いごとばかりの生き方は受け身です。思い通りにならなかったり、失敗が続くと不満がくすぶり、あげくは心身の諸症状を招かないともかぎりません。

その原因を他人や環境に押し付けるとしたら、受け身どころか「人まかせの生き方」であるといってもいいかもしれません。

 「必ずよい年にしよう」と誓う生き方は自分が主人公となる生き方です。自分がすべての面で責任をもって、目の前の困難を切り開くことで人生の妙味を味わうことができます。毎日の生活に溌剌とした生きがいが生まれます』 

 庭野日敬法話集『我汝を軽しめず』抜粋

PS パンデミックの続く2022年だからこそ「必ずよい年にしよう」と誓いましょう。皆んなで困難に立ち向かいましょう。

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不安定を生きる

2021-12-11 07:45:12 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 私たちは、自分が不幸になるようなことは、なんとしても避けたいと考えます。人は幸福の夢だけを思い描いて生きているともいえます。しかし、現実はそうはいきません。甘い夢があっけなく砕かれることのほうが多いのです。

しかし、だからといって初めから「夢なんかかなうものではない」とあきらめてしまうのでは、生きていく喜びもありません。

 明日はどうなるか分からないからこそ、夢を描くことができるわけです。また、明日のことは分からないという不安から、「しっかり努力して、明日に備えなければ」という励みも生まれます。逆に、明日のことがみんな分かってしまっていたら、生きる意欲のわかない、おもしろ味のない人生になるのではないでしょうか。

 「生きるとは、不安定を生きることだ。不安定でない人生はない」と言いきる人もいます。

お釈迦さまも、まず「人生は苦である」としっかり認識することの大切さを説かれました。苦を見すえ、その原因を明らかにし、それを克服して真の喜びを見つけていく。それが人生だともいえましょう。信仰もそこから始まるのです。

 

                 庭野日敬著『開祖随感』より

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親の恩に気づく

2021-10-14 07:21:52 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 親の恩はよく分かっているつもりでいても、自分で子どもを持ってその大変さに音を上げて、初めて親の恩に気づくというのが大方ではないでしょうか。

目の前にいる親でさえそうなのですから、ましてや、仏さまが「みんな私の子どもなのですよ。私が守ってあげているのですよ」とおっしゃられても、その思いの深さを本当に知るのは大変なことなのです。

 日蓮聖人は、その仏さまのお言葉を、しっかり自分の耳に聞き取られたのです。

「今此の三界は 皆是れ我が有なり 其の中の衆生は 悉く是れ吾が子なり……

我一人のみ 能く救護(くご)を為す」と、仏さまが自分に向かっておっしゃってくださるのを、はっきりと聞かれたのだと思うのです。

 「法華経を人が読むとしても、口だけで読んだり、言葉だけで読んでいるだけで、心に読んでいない。心では読んでも体で読んでいない」と言われ、自分が受けた大難も風の前の塵のようなものだとして、すべての人を仏さまのみ手に導く柱となり、眼目となり、大船となろうと誓願を立てられたのでした。

 親の恩を本当に思い知ることが、仏さまの大恩を知ることにつながり、それが法華経実践の出発点になるのです。

          庭野日敬著『開祖随感』より

 

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人生は「運・鈍・根」

2021-09-14 06:58:52 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『頭の回転が速く、どんな仕事もてきぱきと処理していく人を見ると、「あの人に比べて、自分はなんでこんなに鈍いんだろう」と、うらやましくなってしまいます。しかし、才に走りすぎると、つい人を見下したり、先が見えすぎて一つのことに打ち込むことができなくなったりしがちです。

 「人生、成功のコツは、運・鈍・根」といいます。一つのことをねばり強く、うまずたゆまず続ける根気を保つのには、鈍さも大事なのですね。その努力の積み重ねが、運を呼び寄せるのです。

 孔子のもとには大勢のすぐれた門人が集っていましたが、師のあとを継いだのは曽子という人でした。その自分のあとを継いだ弟子の曽子について孔子は、「参や魯なり」と言っています。

参とは曽子のことで、彼の魯鈍なところがいい、それが曽子のすぐれているところだ、というのです。

賢も鈍も、一つの能力なのですね。ないものねだりをするのでなく、自分に与えられた資質をどう生かしていくか、そこが大事だと思うのです。』

         庭野日敬著『開祖随感』より

 

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