四季の歌と暮らす

 年齢ごとに「一度っきり」の四季と、
旬(しゅん)のヨコハマを味わう「くりごとの集」です。

出来事にムダは無し

2019-10-31 07:32:08 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

私は毎日のことを日記につけておく習慣で、朝、何時に起きて、だれに会い、どういうことがあったか、一日の出来事を記録してきました。

それを若いときからずっと続けていると、世の中のこと、自分自身のことが、だんだん客観的に見られるようになっているのに気づけるのです。

また、あらためて振り返ってみると、果たしてここを乗り越えることができるだろうかと思うような難題にぶつかって必死の思いで生きていたときこそ、自分が成長する大きなチャンスになっていたことが、分かってきます。

簡単な記録であっても、読み返すと、その時々の記憶が鮮明によみがえってきて、かけがえのない自分史になっているのです。

なによりも大事なことだと思うのは、その記録を通して、「これまでの自分の人生に起こったすべてのことが、一つとしてむだなものはなかったのだ」と、しみじみと思えてくることです。ですから、その日の日記の最後に、「本当にありがたいことだ」と書き加えずにいられなくなるのです。

                              

庭野日敬著『開祖随感』より

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他人を認めることが先です

2019-10-29 08:21:22 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

いくら努力しても、人は自分のことを正しく評価してくれないと不満をもらす人がいます。その不満で、やる気をなくしたりヤケを起こしたりしたら、自滅の道をたどることになってしまいます。そこのところで、ちょっと見方を変えて「では私は、人のことをどれだけ認めてあげていただろうか」と考えてみてほしいのです。あらためて自分を振り返ると、自分も人のことをあまり認めてあげていないのですね。

人に認めてもらいたかったら、人を認められる自分になるほうが先です。その心のゆとりが持てると、人の目を気にして一喜一憂することがなくなります。人に認められようが認められまいが、気にならない。自分のなすべきことに黙々と励み、喜んで人さまの下積みに徹していられるようになってきます。

いつも申し上げるように、信仰者の安らぎは仏さまがすべてご照覧だという安心感にあります。樹木の根は見えませんが、下に深く根を下ろせば下ろすほど幹や枝葉は上に伸びていきます。無理やり人の目を自分に引きつけようとするよりも、自分が大きく育っていけばいいのです。高くそびえる木は人の目を引かずにいないのですから。

                                                   庭野日敬著『開祖随感』より

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目に見えない愛情

2019-10-25 06:52:18 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

『子どもが大きくなって親に逆らったり偉そうな口をきくようになっても、お母さんには、幼いときの母親だけが頼りで親の言うことはなんでも素直に聞いてくれた、けがれのない子どもの記憶が残っています。わが子に対するこの母親のぜったいの信頼が、なによりも大事なのです。

かりに、わが子が周囲から非難されるようなことをしても、母親は「この子は本当は優しい心を持った子なのだ。たまたまなにかの拍子で間違いを起こしただけだ」と、わが子を信じています。たった一人だけでも、この世に自分を信じてくれる人がいてくれることが、子どものなによりもの支えになるのですね。いつも自分を見守ってくれている人がいると思うと、踏ん張って、立ち直れるのです。

仏さまのお慈悲の見守りも、この母親の愛情と同じです

「いま、どんなに汚れをまとっていようとも、その汚れをぬぐえば、あなたの仏性が輝き出るのですよ」と、仏さまは私たちを信じきって、呼びかけてくださっています。仏さまは、どんな人であっても、いま、どんなことをしていようと、最後までお見捨てになるようなことはないのです。

                                 庭野日敬著『開祖随感』より


「私は神仏が常に見守ってくださていることを信じているので、いつもありがたくて仕方がないのです」

 庭野日敬

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苦を乗りこえる力

2019-10-20 07:22:43 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

テレビドラマなどを見ていると、次々に事件が起こり、主人公がそれに取り組んで問題を解決していきます。そこがドラマのおもしろさですが、それは人生の縮図ともいえます。

私たちの人生は、解決を迫られる問題の連続です。家庭でも、夫婦で意見が衝突したり、家族が病気になったり、子どもが反抗したりと、心配ごとの絶え間がありません。けれども、それがじつは家庭のゆがみに気づかせ、その立て直しを願う家族の訴えの軋みなのですね。

そこで、ただ困った困ったと頭を抱えて、その場をとりつくろおうとするよりも、その“症状”の底にあるものに気づくことが大事です。

 信仰というと、無病息災、家内安全、商売繁盛を願うことのように思われがちですが、そうではありません。次から次へと問題が起こってくる人生だからこそ、それに立ち向かい、それを乗り越える力をつけてしまう。その力を与えてくれるのが信仰なのです。

 こっちがその力を具えてしまえば、どんな問題が起ころうと、平然と対処していけます。それが本当の平穏無事です。自分が自分の人生の主人公になるのです。                                 

                       庭野日敬著『開祖随感』より

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かごしまん方言

2019-10-05 10:30:18 | 生かされて今日

図書館で子ども用の書棚に『方言大辞典』を見つけて私のふるさと鹿児島の方言を思い出しました。アクセントも標準語とは違いまして、いまだに橋と箸などおかしーと笑われております。

「ふるさとの訛りなつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」石川啄木 上野駅でしょうね。

 

/おい、わい(私、君) /おいげぇ(私の家) /おまんさー(あなた様) /わっぜー、がっつい(大変)

/おじゃったもんせー(いらっしゃいませ) /おやっとさー(ご苦労さま) 

/おじゃんどかい おっかー(家にいますか)

/いたっきやんせ(行ってきて) /いたっきもんで(行ってきます) /いまじゃったー(ただいまー)

/よかぶっ(見栄をはる) /やっせんぼ(弱虫) /だれたぁ(疲れたよ)

 

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