四季の歌と暮らす

 年齢ごとに「一度っきり」の四季と、
旬(しゅん)のヨコハマを味わう「くりごとの集」です。

ほほえみの布施

2018-10-19 06:23:15 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『「私なんか、だれからも好かれないんだ」と決め込んでいる人がいますが、この世の中に、そんな人がいるわけがありません。そんなふうに自分で決めつけている人をみると、自意識が過剰すぎるのですね。人のちょっとした言葉で、「私はだめな人間なんだ」とか、一つでも嫌なことがあると、「私には、いいことなんかあるはずがないんだ」というように、悪いほう悪いほうにばかり考えるのです。

これは、過剰な自己防衛意識のせいです。自分を守る垣根を高くしすぎて孤立してしまい、自分の素直な心や、優しさを無理やり抑え込んでしまっているのです。

その優しい心を、曲折させずに素直にスッと表に出せばいいのです。難しいことはありません。人に会ったら、笑顔でちょっと挨拶するだけでもいい。笑顔は、どんな人の心も和ませる最高のコミュニケーションです。

「親を喜ばそうと思って、なにもしてあげられることがなかったら、日に二、三度、笑顔を見せてあげなさい」という日蓮聖人のお言葉があります。笑顔は人の心を開かせる力を持っています。その開かれた心が、みんなの素直な心を引きだすのです。』

庭野日敬著『開祖随感』より

 

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行動が自分を変える

2018-10-16 08:42:43 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『信仰者は、まず毎日ご宝前での朝夕のお勤めができるようになる。そして、ご命日に教会に参拝し、法座にすわらせてもらう。そこで仏さまの教えに自分を合わせていこうと努力するようになると、生活のすべてが「行」になっていきます。行とは、行動のことです。毎日の生活の中での自分の行動を、一つずつ仏さまの教えに照らし合わせて整えていけるようになるのが、在家仏教徒の行といえましょう。

 知識を学んだだけで仏教が分かったつもりになるのは、たとえば、ゴルフ上達法の本を読んだだけでゴルフができるつもりになったり、教則本を読んだだけで、楽器の演奏ができるつもりになったりするようなものです。まさか、そんなことを考える人はいないと思いますが、仏教の修行も同じです。

 宗教は知識を学ぶものではなく、生き方を身につけるためのものです。教えを学んだら、そのとおりに実行してわが身に体していく。繰り返し実行して、教えをしっかり身につけていく。その修行を見守る人が近くにいてくれると、それが容易にできていくのです。サンガの仲間がいることで修行が本物になっていくのですね。』

庭野日敬著『開祖随感』より

    

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知ってるつもり

2018-10-08 16:23:44 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『分かりすぎるほど分かっているつもりの相手なのに、ちょっとした言葉で夫婦の仲がギクシャクしてしまい、それが高じて、

「あんな人とは夢にも思わなかった」「私のことなど、まるで分かってくれていなかったんだ」「だまされた」と、離婚にまでいたってしまうようなことも、ままあるのです。

また、子育てや家のローンで力を合わせてがんばってきて、やがて子どもが巣立って夫婦二人っきりで向かい合うようになったら、共通の話題さえ見つからないといったご夫婦もおられます。

じつは、そこからが本番なのですね。いくら長いこと夫婦でいたといっても、ただ一緒に暮らしているだけで、夫婦が同じ考えになれるものではありません。

男性と女性では、発想の大もとが違ってあたりまえです。

むしろ、その違いを理解しようとつとめるのが、夫婦の暮らしだともいえましょう。互いを理解しようとして、思いやり、いたわり合うことで、夫婦の味が生まれてくるのです。

「感謝の眼で見なければ、本当のものの姿が分からぬ」と京都大学名誉教授の平澤 興先生はおっしゃっておられました。』

庭野日敬著『開祖随感』より

 

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苦の受け止め方

2018-10-04 08:42:48 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『いつも申し上げるように、信仰する人のいちばんの幸せは、仏さまがすべてご照覧だと信じていられることにあります。けれどもときどき、「こんなに一生懸命がんばったのに」「あんなに真剣に祈願したのに」「仏さまは私をお見捨てになったんではないか」と、絶望に打ちひしがれることもあると思うのです。しかし、仏さまはどんなときも、この患難の多い世でのあなたを、しっかりとお見守りくださっておられるのです。

私たちは神仏にお祈りするとき、自分の欲しいもの、自分の願いがかなうようにとお願いしますが、仏さまは、私たちの欲しいものでなく、必要なものをお与えくださるのです。

自分の力ではどうにもならなくなったとき、人はだれしも病気を治してください、子どもが受験に合格しますようにと神仏にお願いするのですが、そのあとに必ず、「でも、み心のままに」とつけ加えることを忘れないようにしている、という人がおられました。

仏さまのおはからいにおまかせしてしまうと、どんな結果であっても、ある時を経て「これがご守護だったのだ」と思い知るときが、必ずくるのです。悲しみや絶望を通してこそ得られる宝物もあるのですね。』

庭野日敬著『開祖随感』より

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