四季の歌と暮らす

 年齢ごとに「一度っきり」の四季と、
旬(しゅん)のヨコハマを味わう「くりごとの集」です。

自分よりも法を立てよ

2018-11-20 09:44:19 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『キリスト教では「神の下僕(しもべ)」という言葉を使い、仏教では「仏の子」とか「仏弟子」といいますが、信仰者にとっていちばん大切なのは、絶対なる真理と、その具現(ぐげん)者である神仏に帰依(きえ)する心でしょう。

奉仕とは、読んで字のごとく「仕(つか)え奉(たてまつ)る」ことです。仏さまのみ心をわが心とし、仏さまの教えを日々の生活に実行いたします、という誓いが、仏さまに仕え奉る出発点です。

ところが、神仏に仕え奉る下僕、仏さまのお弟子であることを忘れて、法の威(い)を借りて自らを高しとし、自分をまわりの人に押しつけるような態度をとる人が、ときどきいるのです。それでは、自分の欲望やわがままを通す道具として法を利用していることになってしまいます。うっかりすると、すぐその過ちに陥ってしまうのです。

信仰者とは、あくまでも神仏に仕える者として、自らを律する心を忘れない人のことです。それを忘れると、法を立てているつもりが、法を盾にとって自分を立てることになってしまいかねません。くれぐれも戒めなくてはなりません。』

庭野日敬著『開祖随感』より

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ひとりよがりに気付く

2018-11-17 07:00:03 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『法座にすわって人さまの話を聞くことで、それまで自分が正しいと思ってきたことを「なるほど、そういう考え方もあるのか」と反省させられ、教えられることが、しばしばあるはずです。

「いままでの自分は、独(ひと)りよがりの狭い考え方をしていたのだな」と反省させられ、それまでの自己流の小さなものさしを、ご法という大きなものさしで見直せるようになるわけです。また、人さまの苦労を知って、それまでの自分の甘い考えや生活態度を省みずにいられなくなります。そうして自分を磨いていく場が法座なのです。

人間というものは、とかく自分のそれまでの限られた経験だけで、なにもかも分かったつもりになり、自分は少しも間違ったことはしていない、と考えているものです。独断と偏見に陥って、それに自分では気づけないことが多いわけです。

織物でも、よい布を織るのにはタテ糸とヨコ糸をうまく織り合わせなくてはなりません。これまでの自分の経験をタテの糸とすれば、人さまの意見や知識をヨコの糸としてうまく織り合わせて、自分の知恵にしていただきたいのです。』

庭野日敬著『開祖随感』より

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奉仕できるよろこび

2018-11-08 10:28:46 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『人はふつう、自分が人に奉仕するのはあまり好きではなく、人から奉仕してもらうほうがうれしいように思っています。しかし、それは心のほんの表面上のことで、心の深いところでは、人はむしろ人に奉仕することを欲しているものです。

どんなことでもいい、実際に人さまのために尽くして、それで相手の人に喜んでもらえると、それがよく分かるのです。

「なんで、子どものことでこんな苦労をしなければならないんだろう」と愚痴をこぼしていた親でも、子どもが一人前になって巣立ってしまうと、空虚な思いに陥ってしまいます。世話をしてあげる人がだれもいなくなると、「ああ楽々した」という思いよりも、虚脱感に襲われてしまうのです。

さらに、体が不自由になって、だれにも、なにもしてあげられず、ただ周囲からしてもらうだけの身になってしまったら、どんなに寂しい思いになるかしれません。

そう考えてみると、自分が人さまに役立てることが、どんなにうれしいことか分かってきます。それが人間の本当の生き甲斐なのです。』

庭野日敬著『開祖随感』より

 

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苦の受け止め方

2018-11-06 10:16:15 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『「菜根譚(さいこんたん)」という書があります。中国の古い時代の書で、すぐれた処世哲学が説かれているのですが、その中に、「耳には耳の痛いことばかり。

胸には無念なことばかり。それがわが玉を磨く砥石(といし)となる」という言葉があります。その言葉を、会社に入社した青年時代から五十年間、つらいことがあるたびにかみしめ直してきた、という経営者の方がおられました。

「毎日、もう嫌なことばかりだ」と腹を立てて過ごすか、耳に痛い言葉も自分を励ます言葉としてかみしめていくかで、その人の人生が、まるで違ったものになってしまうのではないでしょうか。

うれしくなるような言葉は、めったに聞けるものではありません。躍り上がるような喜びは、そうあるものではありません。入社したばかりの新人時代は、つらいことやくやしいことばかりのように思えても、それを素直な心で受け止めると、その一つ一つが貴重な教えになっていくのです。

自分を磨いてくれるお師匠さんが、まわりにたくさんいるのですが、それを善き師、善き教えにしていけるかどうかの決め手は、やはり素直な心になれるかどうかにあると思うのです。』

庭野日敬著『開祖随感』より

☆いやな苦が自分を救う契機となるのです。釈尊は私たちを見捨てることはありません。

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よき友になろう

2018-11-04 17:21:55 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『「いちどツッパリのレッテルを張られてしまうと、学校でも家でも、な

にをやっても色眼鏡で見られて、ツッパリやるしかなくなってしまうんです」という高校生の訴えを聞いたことがありました。

表からだけ見ていると、「いくら言って聞かせても、性懲りもない子だ。もう、なにを言ってもむだだ」とサジを投げたくなるのですが、その子が、心の奥にそんな切なさを隠しているのです。

「善知識」とは、善き友・最高の友のことであるのは、みなさんもよくご存じだと思いますが、この「知識」という言葉は、相手を知り尽くしている、相手の気持ちが手にとるように分かる、という意味なのです。

相手の気持ちを知り尽くしているから、悲しみにうちひしがれている友に寄り添ってあげられるのです。友の喜びを心から喜んであげられるのです。必ず幸せになれる道に導いてあげられるわけです。

私たちのサンガを、そういう真の友の集まりにしていこうではありませんか。』

庭野日敬著『開祖随感』より

☆「徒然草」の117段に卜部兼好のいわく。

よき友三つあり。一つには物くるる友。二つにはくすし、三つには智恵ある友

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