四季の歌と暮らす

 年齢ごとに「一度っきり」の四季と、
旬(しゅん)のヨコハマを味わう「くりごとの集」です。

他人を認めることが先

2016-10-27 05:11:35 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『いくら努力しても、人は自分のことを正しく評価してくれないと不満をもらす人がいます。その不満で、やる気をなくしたりヤケを起こしたりしたら、自滅の道をたどることになってしまいます。

そこのところで、ちょっと見方を変えて「では私は、人のことをどれだけ認めてあげていただろうか」と考えてみてほしいのです。あらためて自分を振り返ると、自分も人のことをあまり認めてあげていないのですね。

人に認めてもらいたかったら、人を認められる自分になるほうが先です。

その心のゆとりが持てると、人の目を気にして一喜一憂することがなくなります。人に認められようが認められまいが、気にならない。自分のなすべきことに黙々と励み、喜んで人さまの下積みに徹していられるようになってきます。

いつも申し上げるように、信仰者の安らぎは仏さまがすべてご照覧だという安心感にあります。樹木の根は見えませんが、下に深く根を下ろせば下ろすほど幹や枝葉は上に伸びていきます。無理やり人の目を自分に引きつけようとするよりも、自分が大きく育っていけばいいのです。高くそびえる木は人の目を引かずにいないのですから。』

 

庭野日敬著『開祖随感』より

 

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仏は見捨てることはない

2016-10-23 06:48:20 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『子どもが大きくなって親に逆らったり偉そうな口をきくようになっても、お母さんには、幼いときの母親だけが頼りで親の言うことはなんでも素直に聞いてくれた、けがれのない子どもの記憶が残っています。わが子に対するこの母親のぜったいの信頼が、なによりも大事なのです。

かりに、わが子が周囲から非難されるようなことをしても、母親は「この子は本当は優しい心を持った子なのだ。たまたまなにかの拍子で間違いを起こしただけだ」と、わが子を信じています。たった一人だけでも、この世に自分を信じてくれる人がいてくれることが、子どものなによりもの支えになるのですね。いつも自分を見守ってくれている人がいると思うと、踏ん張って、立ち直れるのです。仏さまのお慈悲の見守りも、この母親の愛情と同じです。

「いま、どんなに汚れをまとっていようとも、その汚れをぬぐえば、あなたの仏性が輝き出るのですよ」と、仏さまは私たちを信じきって、呼びかけてくださっています。仏さまは、どんな人であっても、いま、どんなことをしていようと、最後までお見捨てになるようなことはないのです。』

 

庭野日敬著『開祖随感』より

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人を育てるには

2016-10-09 04:30:54 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『人を育てる教育でなにより大事なのは、楽しさだといいます。学ぶ楽しさがなくては、人は育たないのです。

私どもの教会でも、その楽しさがいちばん大事ではないでしょうか。いかに修行の場とはいえ、苦しみに耐えるだけの場になってしまったのでは、長続きするものではありません。

ある音楽の先生が、生徒のレッスンを長続きさせるコツについて、「授業は厳しくても、なにか一つほめてあげて、気持ちよく帰ってもらうことが大事」と言われていました。 なにごとであれ、一つのことを本当に身につけるのには、まず、やり続けることが大切です。人は、ほめられると向上心に火がついて、学ぶことが楽しくなり、希望がわいてきます。

それが懈怠(けたい)の心に打ちかつ力になるのです。

人の欠点は嫌でもすぐ目につきますが、人のよいところは努力しないと見えてきません。ほめ上手の人は、その努力を欠かさないのです。どこか一つでもいいところを見つけて、ほめてあげる。

お辞儀の仕方一つでもいい、返事の大きさだけでもいいのです。そうして教会を楽しい修行の場にしていく努力が、自分を大きくする修行にもなっているのですね。』

 

庭野日敬著『開祖随感』より

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悪い結果も仏の慈悲と受け止める

2016-10-02 04:11:50 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『いつも申し上げるように、信仰する人のいちばんの幸せは、仏さまがすべてご照覧だと信じていられることにあります。けれどもときどき、「こんなに一生懸命がんばったのに」「あんなに真剣に祈願したのに」「仏さまは私をお見捨てになったんではないか」と、絶望に打ちひしがれることもあると思うのです。しかし、仏さまはどんなときも、この患難の多い世でのあなたを、しっかりとお見守りくださっておられるのです。

私たちは神仏にお祈りするとき、自分の欲しいもの、自分の願いがかなうようにとお願いしますが、仏さまは、私たちの欲しいものでなく、必要なものをお与えくださるのです。

自分の力ではどうにもならなくなったとき、人はだれしも病気を治してください、子どもが受験に合格しますようにと神仏にお願いするのですが、そのあとに必ず、「でも、み心のままに」とつけ加えることを忘れないようにしている、という人がおられました。仏さまのおはからいにおまかせしてしまうと、どんな結果であっても、ある時を経て「これがご守護だったのだ」と思い知るときが、必ずくるのです。悲しみや絶望を通してこそ得られる宝物もあるのですね。

 

庭野日敬著『開祖随感』より


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