四季の歌と暮らす

 年齢ごとに「一度っきり」の四季と、
旬(しゅん)のヨコハマを味わう「くりごとの集」です。

皇居の桜の通り抜け

2023-03-30 11:46:19 | 生かされて今日

 3月27日皇居坂下門の行列に並びました。3回も持ち物検査等のチェクを受けました。風流人もテロを警戒する皇宮警察や公安の威圧に少々鼻白むものがありました。エトランゼも並んでいます。マスクの強制はありません。

二重橋広場はかって日米安保条約に反対するデモ隊と警視庁機動隊が激突した所。お上りさんの頃、はとバスで記念撮影したことを思い出します。案内してくれた早稲田角帽の従兄弟は惜しくも亡くなりました。

 宮内庁ビルをかすめて乾門までお濠にそって満開のサクラ、芽柳、松の花、山吹の花が揺れて最高の気分です。新宮殿や道灌濠、石垣の上には松の廊下阯。さすがに皇居は広くて枝振りのよい松の木が多いです。

天皇さまに吹く風と同じ風が美しい芽柳を揺らしています。多くの人達が写真を撮りつつ歩きます。乾門をでて千鳥ヶ淵へ。真向かいにそれはステキな煉瓦の建物が。大学の校舎かなと思わせる瀟洒な建物です。昔の近衛師団司令部だそうです。

 国会議事堂に近い千鳥ヶ淵のしだれ櫻がいいですね。異国の家族と糸桜の下のベンチに一休み。戦争だけは人智の力で阻止しなければ地球が滅びますよね。

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素晴らしい日本の野球

2023-03-23 16:59:35 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『アメリカでの調査で、「日本製品は非常によい」と答えた人が73パーセントだったのに、「好きな国」となると、カナダの94パーセントに対して、日本は61パーセント、ヨーロッパ諸国に比べても極端に低いという結果が出たそうです。

日本製品への評価もさることながら、世界の人に好かれる日本人になる努力が、より大切なのではないでしょうか。

 軍備拡張競争が、自国の防衛どころか経済の破綻を招き、国を危うくしてしまうことが分かってきたいま、どうしても新しい真の安全保障をつくりださなくてはならなくなっています。

その安全保障のいちばんの基礎は、やはり人と人との信頼関係です。国と国の間で互いに好感情を持ってくれる友人をどれだけつくれるか、そのための努力こそ大切です。

 その友だちづくりには、お互いが共通の目的を持って、共に行動することが欠かせないと思うのです。世界の国々の経済の建て直し、地球の環境破壊防止など、いわば地球規模の人類の大問題も、世界の人びとが心を一つにして取り組むことができるようになれば、そうした難題が互いの心をつなぎ合わせるための好機に変えられていくのです。』

       庭野日敬著『開祖随感』より
 
 世界野球のチャンピオンとなった日本チームの団結力、品格、敵チームへの思いやり尊敬、ダッグアウトはゴミを残さずに去ったという。監督をはじめ下積みの方々の心労に敬意を表します。
殺傷する武装より普段の行動、外交こそ平和への貢献と世界を唸らせました

 

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椿の美しい庭

2023-03-13 10:37:06 | 生かされて今日

 茅ヶ崎駅南口から雄三通りを海に向かって歩くこと15分、氷室つばき園があります。

財界で活躍された氷室さんの住まわれていた邸宅が庭園つきでそっくり市へ寄贈され、無料で庭が開放されております。湘南海岸が指呼の間で庭にサーフボードが置かれている家もありました。

 高き松の木々や椿の花、土佐みづきやバラなど春の草木が癒してくれます。お住まいの家も歴史的文化財で、広い縁側やガラス戸、大きな岩のたたきなどレトロな雰囲気でした。

縁台にくつろげば、松風に囀り、ひょつとすれば潮騒も耳に快い気分です。明治生まれのわが父母と一緒にいるように感じました。

 茶道家の好む侘助、散っているわびすけも眼前にできました。母親を車椅子に押す婦人も庭園を巡っていました。様々な自然の造形美を堪能、まるで美術館にいる一日でした。

  「美術館に似るつばき園のひと日」駿

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我がエゴに気づく

2023-03-03 07:20:21 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『「妻の前で、間違っても他の女性のことをほめないことにしているんです」と言う人がおられました。ご主人のお母さん、つまり奥さんにとってはお姑さんの料理をほめても、奥さんが自分へのあてつけのようにとって、ひがむというのです。

 女性のひがみとはちょっと違うかもしれませんが、人の喜びをわが喜びとし、人の苦しみ悲しみをわが苦しみ悲しみとすることは難しいことなのですね。

 人の苦しみに同情することはできても、人がほめられたり、抜擢されて昇進したりするのを心から喜んであげるのは至難なことなのです。口では「おめでとう」と言いながら、心の中は「あの人がほめられるくらいなら、私だって」という思いがわいてくるのです。

 人は自分では気づかずに人のアラを探す虫眼鏡を持ち歩いているといいます。

自分よりかなりすぐれた人を見ても、「まあ、私と同じくらいかな」としか見えない。自分と同じ程度の人は、はるかに下のように見えてしまうわけです。

 人の喜びをどれだけ喜べるかが、自己中心をどれだけ克服できているかのバロメーターになるのではないでしょうか。』

         庭野日敬著『開祖随感』より

 

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